「ほら、アキラ」

そう差し出された手を握るのは何度目になるのだろう。いつだってなまえは大胆で、それなのに怯えるような固い声で俺のことを呼ぶ。それがひどく愛しいことは俺しか知らない。誰もなまえのことなんか知らないから、何度も冷たくて細い手を握りしめては満足感に満たされるのだ。さっきまで閉められていた屋上の扉をくぐり、俺に背を向けて先頭を切るなまえの後ろを歩く。少しだけ手を揺らしながら歩くフェンス沿いで、なまえはキラキラと綺麗な目で空を見上げた。ななめに見える表情は清々しく、ふっくらとしたピンク色の唇が開く。そんな姿だけで胸をざわつかせるのだからなまえはすごいのだと思う。好きで、どうしようもなく欲しくなる。

「アキラ」

開かれた唇からこぼれた言葉に俺はなまえを見つめるだけだった。なんだとも言わずに、言葉を催促することはしない。なにを言いたいのかわかるから、聞きたくなんかなかった。それでも残酷に、固い声のまま甘く続けられた言葉に、俺の息はどうしようもなく止まる。なまえは愛しげに俺を見て、言葉とは裏腹に嬉しげに笑っていた。ひどい人間だ、そう、思うのに、どうしても嫌いになれない。

「高校、別々だね。寂しいね」

俺も寂しいよ。別々なんていやだ。ずっと一緒にいたい。そんなことを言ったとしても数ヶ月先の未来は変わらない。なまえは受験先を変えることはないのだろうし、俺も青城から変えることはないのだろう。ずっと一緒になんかいられない。他校に行くからじゃない。高校が別々だからなんかじゃない。なまえは俺を選ばないだろうから、こんな、恋人のようなことをして慰めるしかないのだ。そんなことはわかっているのに、悔しいと思うのを止められなかった。なまえはまた空を見上げ、深く息を吸う。
なにも答えられない代わりに、冷たい手に力を込めた。俺を見たなまえは楽しげに笑いながら握り返し、俺と向かい合う。抱き合っているかのように、近い距離だった。このまま俺が顔を近づければ、なまえ嫌がることもせず、なにか言うこともなく、キスをさせてくれるのだろうと確信している。それでも凍てつくような冬の風に肌が痛んで、ずっと合わせられていたなまえの視線から目を背けた。帰ろう。カラカラに渇いた喉で言ったわりには、泣きそうなくらい濡れた声だった。なまえは頷き、少しだけ顔を伏せたまま言う。帰ろうか、アキラ。残念そうな寂しそうな声に、ひどく苦しくなるのは仕方ないのだろう。期待なんかしていなかったくせに、そうののしれたら、少しは楽になるだろうか。視線の隅で、なまえは顔を上げて微笑んだ。

「アキラ、好きだよ」

嘘つき。思ったとしても、そんなことは口が裂けても言えなかった。ただなまえの言葉を俺の呼吸のしづらさを増幅させ、頭を真っ白にさせる。悔しい。いつもいつも俺ばかりが感情を揺さぶられて、なまえはなんでもない表情をするのだ。悔しい。なまえの手に力を込めても、なまえは握り返さなかった。少しだけ切なげに目を伏せ、まるで雲をつかんでいたかのように俺の手からすり抜ける。
なまえ。呼んでもなまえは振り返らず、何度も見て、目に焼き付いてしまった背中を向けていた。屋上から出る扉に近づくその背に向けて伸ばしていた腕をおろす。なまえ。もう聞こえないのだろう。きっと、俺の小さな声になまえは気づいてはくれないのだ。

「…俺も、好きだよ」

細くて狭い肩をした小さな背中。いつでも近くにあったその背中はもう遠くにあった。きっと、走ったって叫んだって泣いたって、その背中には指先ひとつ、かすりもしない。



ガキンと鉄と鉄のぶつかる音が聞こえた気がした。屋上の取っ手と放置された椅子のぶつかる音。ちょうど一年ほど前の冬の日、開くはずのない屋上の扉を椅子で破ったのはなまえだった。俺が行ってみたいと言ったんだったか、なまえの思いつきだったんだか覚えていない。それでもなまえと俺は屋上で手をつないで、他愛もないような大切な話をして。どこの青春漫画だよ、なんて罵っても記憶の中でうずくあの感触となまえの体温は確かで、今でもひどく愛しくてしょうがないものだった。好きだったんだ。あの時、確かに。

「国見! 部活!」

毎日毎日あきもせずに俺のことを迎えに来る金田一の声に立ち上がる。なまえに出会ってから色を失ってしまった世界は今日もカラフルに澄んでいた。外に広がる青い空が太陽の光を増しているようで、目を細める。なまえの後ろにもこんな青い空があったのだろう。覚えていない空を思い出しながら、なまえの姿を重ねた。その途端頭の中なのに空の色が褪せるから不思議なものだ。なまえが色あざやかに俺を魅せ、風景の色が褪せていく。いつだって目が離せなかった。なまえだけが輝いてどんな時も見つけられた。今も、目が離せない。


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