母校である青西の校舎へこんな時間に足を伸ばしたのは本当にきまぐれだった。そんな気まぐれの行動で、昔となにも変わらない彼女の姿を見つけてしまったときの、俺の気持ちはきっと誰にも理解できるはずがないだろう。 唇をかみ締めて、なまえを見つめる。彼女ともう一度出会えるなんて思っていなかった。何といえばいいかも分からないオレに、一緒にいれなかった時間など感じさせないような笑みでなまえはにっこりと笑って言った。 「ねえ、ないものねだりってさ、英語でなんていうか知ってる?」 そんな風に脈絡のない話を突然振ってくるのは、彼女の昔からの癖だった。今までしていたような話題とはつながらないような話を、ごくふつうに投げかけてくる。周りの人間にはつながっているように感じなくても、どうやら彼女の中ではつながっているらしく、本当にごくふつうの、当たり前の表情をしてなまえはそういうことをする。オレは彼女のそういうちょっとずれたところが好きだった。 彼女のそういうところが好きだったのは、ただ面白かったということもあった。だけどそれ以上に、そういうずれた話はまるでこちらを見透かすようなものだったから、というも大きかった。彼女のそういう言葉はどうしてだかひどくオレを安心させるのだ。 見透かされることになれることはない。いつだってどきりとさせられる。それと同時にほのかな喜びを感じるのも、変わらなかった。なまえにはオレのなかのいろんな感情が、全部見えているみたいだった。 まるで全てを束縛されているようなそれは、かえって安心感をオレに与えた。束縛されることを好きだと思ったこと一度だってなかったのに、相手がなまえなら喜んで受け入れられるのは、オレがどうしようもなく彼女のことを好きだからだろう。きっと好きでもない相手がそういうことをするのなら、オレは安心感という以前に気味の悪さを感じていた。ならばオレが彼女を好きでなくなったら、この安心感も消えうせてしまうのだろうかともぼんやりと思った。けれどその問いに答えはでない。なぜならオレがなまえを好きでなくなる日など来ないからだ。 「相変わらず突然だなあ。久しぶりの彼氏にそれ?」 「だってほら、今日は満月でしょう? 前にどこかで読んだのを思い出したの」 なまえはへらりと笑って月を指差した。白いその指の差すほうに視線をやれば、なるほど見事な丸い月は煌々と夜空を照らしていた。そんな風に月を改めて見上げるのは久しぶりだった。 吐く息は白い。相変わらず宮城の冬は冷たい。高校を出ると同時に東京へ進学したためこちらに戻ってくるのは数年に一度になっていた。東京で就職したあともそれは変わっていない。オレはこちらに戻ってくるのを避けていた。 なまえの少し短いスカートから映えている丸くて白いひざは見ているだけで寒い。昔からなまえは夏に弱い代わりに冬は元気で、寒さには強かった。オレが寒いと騒いでいる横で子供のように雪にはしゃいでいた。 「月に泣く、つまりcry for the moon だって」 月を思って泣いても届きはしないって意味なんだろうねとなまえは軽やかな笑い声を上げて笑った。スカートのわきで手もちぶさというようにゆれているなまえの手に視線がいく。そしてはっとした。なまえの薬指には見覚えのある指環がはまっていた。 それはまだ高校に在学していたころにオレが贈った安物のペアリングだった。今でこそ安物といえるが、高校時代のアルバイトもしていないオレにはずいぶんと大きな出費だったのを覚えている。 めったに泣いたりしないなまえはそのときだけは顔をぐしゃぐしゃにして泣いてオレにすがりついた。大事にする、絶対に離さないと泣きながら、それでも確かに笑みを浮かべてなまえはオレに言った。その言葉どおり、なまえはオレの知っている限りその指環をその身からはずしたことはなかった。没収されるのが怖いから身に着けてないけど、ちゃんともってるよと照れくさそうになまえは笑っていたのだ。記憶の中のなまえはいつだって笑みを浮かべている。なまえはよく笑う女だった。 指環を渡す際に、もう少ししたらちゃんとしたヤツを買ってあげるから、だからそれまで待っててと頭を抱えたくなるようなセリフを言ったのも覚えている。オレたちが一緒にいない未来など想像したこともなかったし、このままずっと一緒にいれば結婚だってするのだろう、そんなことを当然のように考えていた。 「でもやっぱりさ、届かないって分かっていても欲しがることをやめられないっていうのはあるよね」 「なまえにも、あった?」 「私? うーん、あったといえばあった。欲しいものはね。でも私は手に入ったよ」 「それってなに?」 「あはは、こうやって口にすると恥ずかしいけど、徹だよ。私の欲しいもの」 少しだけ照れたようななまえに、オレは息が止まるような感覚を覚えた。そうしていつだってなまえには叶わないのだということも、思い出して思わず笑う。どうして笑うのと不服そうななまえの体を衝動的に抱き寄せた。 抱き寄せられないのではないかというオレの予想とは裏腹に、なまえは素直にオレの胸へとおさまる。小さな体を手加減などせずに思い切り抱きしめた。力の強さにオレの体を押し返そうとしていたなまえは、抵抗してもオレが手を離さないと分かったのか、大人しくすることにしたらしい。受け入れるようにそっとオレの胸に額を押し付けた。 「でもどうせ徹の欲しいものは私じゃないんでしょ?」 「どうしてそう思うの?」 「……徹の一番はいつも私じゃないもん。バレーばっかだったじゃん」 「もしかして妬いてる?」 「べっつにー。そんなの付き合う前から分かってたし」 「ほんとは?」 「……ちょっと、うらやましいと思うよ」 「うん」 すねたように額をこすりつけるなまえの髪を撫でる。 首から背中にかからぐらいの長さの髪は高校時代から変わっていない。伸ばそうといつも言うだけ言って結局きってしまうのだ。長い髪って手入れとかめんどくさいんだよ?ときった後に言い訳するようにオレに言うくせにすぐにやっぱり伸ばす!と意見を変えるのだ。短い髪も似合っているけれど、長い髪もそれはそれで似合ったのだろうなと思う。もう、見ることはないだろうが。 髪に、そっとくちびるを押し付けて、抱え込むようにして抱きしめた。なまえの体は柔らかくて、やっぱり小さい。抱きしめる腕の力は弱める、けれどけして離さないようにしっかりと抱きしめた。 「オレの欲しいものも、なまえだよ」 オレの腕の中でなまえが小さく身じろぎして、こちらを見上げるのが分かる。黒い瞳が、こちらをじっと見つめている。 なまえの一度として染められたことがない髪の感覚も、変わっていない。当たり前だ。だってなにも変わっていないのだ。なまえは高校時代から何も変わっていない。 身長も髪の毛も笑い顔も素直なところ、オレがはめてあげた指環も、なんにも、何一つ変わっていないのだ。変わったのは、オレだけだ。 「オレにとっての月はね、ずっとお前だよ」 とおる、となまえがオレを呼ぶ。その声は不思議なほど静かだった。オレの馬鹿みたいに震えきった声とは対照的だった。うっすらと笑みさえ浮かべているなまえに、ぼろぼろと涙がこぼれていくのを止められなかった。 なまえの指がオレの服をつかむ。オレの涙がなまえの制服をぬらしていくのを、なまえは黙って受け入れていた。 この手の中にあるぬくもりも感触も、なんにも変わらない。オレは年月をへて変わっていくのに、なまえの時はとまったままだ。 目の奥が熱い。体が震えているのが分かる。この腕の中にあるぬくもりが、虚構でしかないと、そんなことはうそであって欲しかった。 「お前が死んでも、お前はオレの一番だよ。……ずっと、お前だけだ」 オレに触れるなまえの指先が、かすかに震えたのが分かる。オレはどうしようもなくなって、いよいよ涙が止まらなくなった。 それなのになまえは困ったように笑っていた。全てを受け入れたように笑っていた。それがどうしようもなく、嫌だった。何年たっても、オレはお前にとらわれて、お前以外を好きになんてなれないのに、お前が死んだなんて受け入れられないのに、どうして本人がそんな顔をするんだ。 なまえがオレの頬に手を伸ばして、涙をぬぐう。そのてのひらは確かに存在していて、暖かい。それなのに、彼女は、 「泣かないでよ、徹」 「お前が戻ってきてくれるなら、泣かないよ」 「……ばかだなあ、徹は。私のことなんて忘れればいいのに」 馬鹿だというわりに、その声は甘い。甘やかすようなそれに、オレはなまえの顔を引き寄せてそっと口付けた。涙でぬれたせいか、触れ合った頬は冷たい。 自分でもひどい顔をしていることは分かっている。それでもなまえは、オレのそんな顔をして笑った。 「ねえ徹」 すがるように、なまえの腕が背中にまわる。オレはなまえの体をもう一度、力の限りで抱きしめる。耳元に寄せられたなまえの唇に、そっと耳をすませた。 「そのまま、ずっとずっと、……私だけを好きでいて」 ごめんねと、申し訳なさそうに付け足された言葉に、オレはただ黙ってうなずく。 未来のことなんて何一つ分からない。彼女のことをこうやっていつまで抱きしめていられるのかすらだって、分からない。一秒先にはこのぬくもりは掻き消えてしまうのかもしれない。そんななかで、ただ分かるのはきっとオレはずっとなまえにとらわれたままだろうということだけだった。 |