「いやいや、いや、お前、やめとけよ」

なまえさんと付き合っている、と告げると、久しぶりに実家へ帰省してそれまでソファで寛いでいた兄はあからさまに狼狽えた。いやお前、よりによってなまえって、いや、とぶつぶつ呟く兄に、僕は少しだけ苛立った。

「なに、何か問題でもあるの。年の差?」

「いや、それもそうなんだけど」
「別に犯罪になるようなことしてないよ」
「は、おい、そんなの当たり前だろ、」
「まあこの先はわからないけどね」
「蛍、やめろ、ほんとに」

兄は文字通り頭を抱えて、うう、と唸った。予想はしていたけれど、これほどまでとは。

「まあ、別に、兄ちゃんの許可が下りなくても、勝手にするけどね」

彼はこちらをじとりと見上げたが、それ以上、なにも言わなかった。なにも言えなかった、が正しいかもしれない。奥歯になにかつまったみたいにもごもごと口を動かしながら、兄は社会人らしく短く整えられた自分の髪をただ乱暴に撫でていた。



なまえさんは近所に住む幼馴染だった。兄と同級だったからほとんど同じタイミングで地元を出て行ったが、そのまま仙台で就職して一人暮らしを続ける兄とは対照的に、なまえさんは社会人になってから半年ほど経ったある日、仕事を辞めて突然実家へ戻ってきた。それからは家業の手伝いをしているらしい。母親が病気がちであると大っぴらに口に出すことこそなかったが、正直、それを言い訳にしているのであろうことは僕には容易に見て取れた。

「兄貴に、言ったよ」

部活が終わると同時に彼女の実家へ寄ると、大概なまえさんは仕事を終えて後片付けをしているところだった。今日も例に漏れず仕事終わりのなまえさんを捕まえて、公園まで二人で歩きブランコに腰掛け、取り止めもないことを報告し合う。その中に昨夜起きた(厳密に言えば僕が”起こした”)ことをさりげなく紛れ込ませれば、彼女はさながら昨日の兄のように、大仰に狼狽えた。

「ああ、うん、へえ。…で、なんだって?」
「別になにも。お幸せに、って」
「……、そう」

「ごめん、うそ。…怒らないで」

機嫌を伺うふりをして顔を覗き込むと、彼女は大きく目を見開いてから、慌てて、その表情を取り繕うかのように笑った。

「な、なんで?別に、明光くんが何て言おうと、私は別に怒ったりなんて」
「そうじゃなくて、嘘ついたこと」

「……蛍くん、ひどいね、カマかけるなんて」

「別にそんなつもりはないけど」

───それとも何、カマかけられて困ることでも、あるの。
それは最後の切り札であった。昨晩から用意周到に企てていた、僕にとっての小さなクーデター。彼女は俯き、黙る。

「兄貴、やめとけ、って言った」

敢えて優しく畳み掛けると、ほんの少しの沈黙の後、なまえさんは、うん、と小さく頷いた。なに、と先を促すと彼女は、僕がずっと彼女自身の口から聞きたかったことを、ようやく、蚊の鳴くようなか細い声で語り始める。

「……付き合ってた」
「うん」
「誰と、って聞かないの」
「兄貴とでしょ」
「……やっぱり知ってるんじゃない」
「なんとなくね」

彼女がこっちへ戻ってきた時から。本当は、気づいていた。親孝行、だなんてそんな美談を隠れ蓑に、その実、彼女は傷心で実家へ出戻って来ただけに過ぎないのだ。
ぽつりぽつりと彼女の口から紡がれる言葉は、兄を責めるものでも、自嘲自虐をするものでも、そのどちらでもなかった。高校卒業と同時に二人で部屋を借りたこと。最初こそ仲良くやっていたけれど、次第にすれ違いが増えていったこと。就職を機に些細な口喧嘩が増え、それに耐えきれなくなった彼女が部屋を出て行ったこと。

「やっと話してくれたね」
「……ごめんなさい」
「ずっと隠してたこと?」

「ううん、違うの」

すう、と小さく息を吸ったかと思うと、彼女の肺にほんのコンマ1秒留まっただけの薄い酸素は、すぐに吐き出されて散った。

「当てつけだったの」

その息に乗せるように短く発せられたその言葉は、氷のように冷たく、そしてアイスピックのように細くて鋭かった。突き刺された僕の心臓は脆く崩れるでもなく、ただ迎え入れた異物をそこへ留めるだけで、溢れ損ねた生温かい血液が細胞の隅から隅まで満たしてゆくのを僕は感じていた。

「…そうだったんだ」
「…怒った?」

別に、と僕が吐き捨てるように言うと、彼女は再び俯いて肩を震わせた。…泣きたいのは、コッチなのに。

「…蛍くんのことは、好きなの…本当に、好き、でも、」

僕はひとつ大きく息を吐いた。彼女のその先の言葉を、遮るために。
けれどなまえさんはそれすら無かったことにしようとした。結局最後まで彼女は自己中心的で、僕のことを慮ろうなんて考えは、最初からこれっぽっちも存在しなかったのだ。

「私は、ずるいよね。…蛍くんが好き、でもそれ以上に、打算が私の中の殆どを占めてたの」

心臓に刺さった”何か”は、突き立った衝撃のあとの鈍痛を伴って、そのままそこに留まり続けていた。抜かなければならない、けれど抜いてしまえば血飛沫が噴き出して、きっと彼女の頭からつま先までを真っ赤に染めてしまうだろう。
二人を隔てるその隙間に、僕はため息を滑り込ませる。しんと静まり返り、凍りついたように時間の止まってしまったその空間が、あわよくばそこから融解してゆくのを期待していたのだけれど、そっと吐いたそのため息は冷たい空気に優しく包み込まれて消えてしまった。


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