彼女の噂で、いいものは俺の耳に入ったことはない。確かに彼女は外見から見てもガラが悪く、授業もよくサボっていて、あまり人と関わることをしない。皆、尾ヒレのついた誰かからの又聞きで彼女の人物像を構成して決めつけて、近寄らなかった。それで彼女の悪口を言うのは、てんでお門違いだと思う。そんな彼女が俺の幼馴染だと知ると、周りの奴らは俺に憐憫の目を向けた。 「優しい子だよな」 隣の席のへなちょこが言う。緊張感の一切感じられない頼りないあの表情を浮かべて、へなちょこはへらりと笑った。椅子ではなく机に腰掛ける俺の表情は、どうやら恐ろしいものだったらしい。へなちょこはすぐに肩を震わせてごめんと謝る。謝る必要ねぇだろ、と旭の肩を殴ると、じゃぁ何で殴るんだよ、と嘆く。煩い、男が嘆くな。 「俺この前筆記用具忘れてさ」 俺に殴られた肩をさすりながらへなちょこは斜め上の天井を眺める。何しに学校来てんだよ、という俺のツッコミに忘れたものは仕方ないだろ、と返して言葉を続けた。授業始まる直前に気付いて、誰かに借りようしかし誰に借りよう、と慌てふためいていたら、珍しく出席していた隣の子がシャーペンと赤ペン、そしてわざわざ半分に割った消しゴムを何も言わずに机に置いてくれたというのだ。あれは助かった、と溜息を零すへなちょこの姿はまるで縁側でお茶を啜るお爺さんだ。俺が笑った事に気付いたへなちょこは何笑ってんだよ、と零すけれど特に気にした様子はない。止まっていた帰宅準備を再開しつつ、へなちょこは言った。 「あの子は、いい子だよ」 その言葉に、俺は何も返さなかった。 教室にはもう誰もいない。まだ日も沈んでいない明るい教室で、いくら窓を閉め切っているからと言って声も音も何も響いてこないのは違和感を覚える。まるでこの教室だけ世界から切断されてしまったのではないかと錯覚してしまうが、そんな非現実的な事が起こらないのは当然理解している。夢見がちな年齢でもないのだ、俺達は。 この教室が世界から切断されている訳ではない事が、出入り口の扉が開く音で証明される。音のした方を向けば、俺という存在に少し目を見開きつつもすぐにいつもの無愛想な表情を作った彼女がいた。俺の腰掛ける机の本来の持ち主、俺の幼馴染だ。 「そこ、私の席なんだけど」 「知ってる」 かけた足に肘をついて、頭を支える。そして視線は彼女に向けたままに笑ってみせると、わざとらしく溜息をつかれた。彼女がまだ帰っていない事は、俺がこの教室に入った時から彼女の机にかけたままの鞄を見て分かっていた。久々に話をするな、と話しかけるも彼女は無視をして俺に、正確には自分の机に近付く。黙って俺の足の下にかけてある鞄に手を伸ばす彼女の手を取った。持ち上げると、必然的に彼女の顔も上がる。しかし視線はすぐに逸らされた。 「放してよ」 「お前全然授業受けてないみたいだけど勉強できてんの?」 「放して」 「何なら教えてやるよ、特別に」 「はなしてってば!」 噛み合わない会話に苛立って、彼女が声を荒げる。途端に教室には静寂が戻った。しかし、俺は彼女の手を放さない。ぐっと力を込めると、彼女は痛みに顔を歪めた。それでも、彼女は俺を見ない。お互い頑固なんだ。幼馴染だからそれは分かっていた、お互い。 「お前、出席日数はどうやら最低ラインこなしてはいるみたいだけど、テストで赤点取ってちゃ意味ないのもわかってるだろ?」 「………」 「今テスト期間なんだし、勉強も見てやるから、留年はやめろよ」 「…あんたに関係ないでしょ」 「関係あるよ、お前を俺のいない場所に残すのは嫌だ」 「………」 「…意味、わかるか?」 やっと噛み合った会話にどうやら俺は舞い上がってしまったらしい。もっと色々言葉を考えていたのだが、と少し後悔しつつ、言葉を続ける。止まるつもりなどはもう、微塵もない。 「俺はな、お前の事が」 「やめてよ!」 俺の言葉の続きを察して、彼女はまた言葉を荒げた。俺から離れたいらしい彼女は、掴まれた手を大きく振って放そうとするが、男の力を舐めてもらっちゃ困る。俺は今日、覚悟を決めたのだ。 「放さないし、やめない。いいか、俺の話を聞け」 「…っ」 そう言って、空いた手で彼女の頬を掴む。ぐっと無理矢理こちらに顔を向けさせると、既に瞳は潤んでいた。知っているんだ、彼女が泣き虫なのも。俺は、彼女の幼馴染だったから。 「俺は、お前が好きだ」 ずっと言いたかった思いを、やっと告げる。俺は今日、彼女の幼馴染をやめる。 「…やめてよ」 弱々しい彼女の声は、静かな教室な上、すぐ傍にいる俺には洩れずに届いた。潤んだ瞳に、涙は溢れて、ついに零れてしまう。手は震えていて、放さないように掴んでいた手の指を絡めた。もう拒否の意志はない彼女の指からも、俺の指が絡められる。零れた涙も受け入れる為に彼女を抱き寄せた。彼女の頭が俺の肩にのる。震える彼女の肩にもう片方の手をおいて、一定のリズムで弱く叩いた。彼女はこれが落ち着くのを、俺だけは知っている。 「…怖いよ、大地」 やっと聞けた彼女の本音を受け止めて、彼女の肩に回した手に力を込めた。 「安心しろ、俺は絶対お前を放さないから」 お前の隣の席の奴にまで嫉妬してるんだぞ、と答えると、俺の肩に頭を預けていた彼女がそれを聞いて、初めて肩を揺らして笑った。 いつまで純白でいればいい (これからは、君の色に染まる) |