「食えたもんじゃあねえな」

空条承太郎はそう言ってフォークを皿に放り投げた。低く唸った声は、恐らく聞く者へ彼に対しての畏怖と誤った固定概念を植え付けるであろう程の不良然とした恐ろしいものであったが、彼の言葉を四六時中傍で耳にする空条なまえにおいては至って日常的な音であった。まだほとんど手のつけられていない料理が暴れて跳ねて、テーブルクロスに赤い染みを加える。彼女は黙ってそれを見ていた。料理ではなく、彼の一挙一動の方を。彼の緑の瞳は声音とは対照的に静かに凪いでいた。美しい色だった。海の、深い場所の色彩を宿していた。彼と家族であり血を分けた兄妹であり、その中でも少々珍しい双子という関係に収まる彼女もまた、日本人離れした緑をその虹彩に宿していたが、どうも兄と自分の色は違うと常々感じていた。そこに確かな根拠はない。だからどうというわけでもない、漠然とした考えだった。
昼前の店は客も疎らで、空気は配列を守るようにしんと動かずにある。まるで彼と彼女の為にあつらえたかの如き空間であった。

「行くぞ、なまえ。こんなもん食ってられねえ」
「うん」

事の発端は学業をさぼりたがった彼女が承太郎を校内から連れ出したことだが、彼女はそれについて特になんの罪の意識も認めてはいない。二人して教師と規則が支配する檻から慣れた様子で抜け出し、暫くの間は当てもなくさ迷った。それから今日は洋食が食べたいという彼に連れられなんの感慨もなく入った店で、なんの考えもなしに彼と同じ食べ物を選び、やって来た料理を口に運んで、そして現状へと至る。彼女にとってこの店の料理は別段不味くはなく、寧ろ彼女の好みの部類と見なしてもいいくらいではあったけれど、承太郎が先に放った台詞を耳にした瞬間にそれは真逆へと成り下がった。こうして彼女がひっそりと彼に合わせることによって、時には彼が悟られぬよう彼女に合わせることによって、彼らの意見は違ったことがない。兄妹間のいざこざを避ける為ではなかった。彼らは自身らがそうであるべきだと暗に考えていたのである。
なまえは立ち上がった承太郎の後を躊躇いもなく追った。食えたものじゃあない。彼女は口の中だけで呟く。食えたものではないなあ。

不味いという烙印を下した店に金を払わないのは彼と彼女にとって日常茶飯事、至極当然のことであったから、本日も迷いなくそれを押し通させてもらった。店長らしき人物が大層困った顔を浮かべていたが、承太郎の一睨みとドスの聞いた一声で直ぐに厨房の奥へと引っ込んで行った。いつもの如く彼女は承太郎の後ろにいるだけで良かった。もうこの店には二度と来れないなあと途中なまえの脳裏に過ったが、そんなことよりも不味い料理を出す店なんぞには二度も行きたくなかったので、結局はどうでも良いことであった。働き時を失った胃が少しばかり不服そうな声を上げた。




がたがたと規則正しく震える車内で、二人はひたすらに流動的な景観を眺めながら過ごした。電車は夕陽を受けて内外問わずその身を赤く染めている。ともすれば平衡感覚をなくされてしまいそうなほど強い濃度を持つ赤の光は、瞼を閉じてもなお痛ましく瞳に突き刺さった。空条承太郎と空条なまえは人も疎らな車両で、二人寄り添い凭れ掛かるようにシートへ沈み込んでいた。こうして揺られていると、まるで一つだけの存在になったようだと彼女は感じた。改札を通る際に、切符を二枚必要としたことに酷く違和感を覚える程だった。幸福と、少しの寂寥が滲む感情だった。彼もそう考えていたことを彼女は知らない。車輪の線路を擦る音が心地好く二人の鼓膜を刺激した。

「承太郎、海が。海が見えるよ」
「そうだな」

彼らは二人でよく海へと出掛けた。特に授業をサボった日には必ずといっていいほど砂浜へ赴いた。承太郎がそう望むからである。彼は世界で最も愛するもののうちの一つとして海と接してきたし、そんな彼が愛でる海をなまえも愛したがった。彼がその口から紡ぐ底の見えない海の知識を彼女はいつも一心に聞き、求められれば意見もした。海洋生物の図鑑を共に眺め、彼が誘えば水族館にも足を運んだ。それでも、どれだけ彼が海の構造について教授しようがそこに息づく生命を語ろうが、彼女の海に対しての知識は人並みにしかない。明瞭にその原因を解き明かすならば、詰まるところ、必要がなかったという言葉に尽きる。いつだって承太郎が知っているならば、それはなまえが知っていることと同義であった。承太郎が分かっているのだから、彼女が理解する必要はないのだ。二人はそうやって全てを共有する。

電車は彼らの目的とする駅のホームへとなめらかに滑り込んだ。此処まで来れば海はもうすぐそこである。年代を感じさせる古ぼけた改札機をすぎる時、やはり彼女は違和感を覚えずにいられなかった。飲み込まれるべき切符は一枚でいいはずであるのに。


「承太郎、承太郎。見てあれ、あれがオリオン座」

夕焼けはそろそろ水平線の向こう側へと沈みかけ、空はといえば橙と群青の境目を行き来していた。なまえは砂浜を歩きながら承太郎の袖を掴み、丁度夜の色へと染まり始めた星空を指し示す。手を伸ばす彼女の笑顔は随分と輝かしかった。彼女は彼が海を愛することと同様に、空を愛して止まなかった。昔から周りのどんな大人よりも星座や空模様について詳しく、よく承太郎にその素晴らしさについて語っていた。そんな空を彼も愛そうと努めた。彼女が嬉々として披露する知識を彼はいつも熱心に聞いていたし、問われれば自身の見解を示してみせた。星々の写真を共に眺め、彼女が願えばプラネタリウムにもよく出掛けた。しかしどれだけ彼女が星の名を教えようがそれに纏わる神々の話を唱えようが、それでも承太郎の空に対する知識は人並みであった。彼女が知っているのだから、彼が知る必要はなかったのだ。それは彼が知っていることと同義である。彼女が分かっているのなら、彼が理解する必要はなかった。二人はそうやって全てを無意識下で分かち合ってきたのだ。

「昔から思ってたんだけど。星とヒトデって似てる」
「ヒトデは海の星だからな」

二人して靴も脱がずに波面へと足を忍ばせる。真冬の海水は肌を刺すように冷たく、足元へ飛び掛かる飛沫になまえは悲鳴に似た笑い声を上げた。温度を浚う風は制服の微かな隙間を縫うように入り込み、無遠慮に体を撫でる。それでも彼女の楽しげに弓なりを描く目元を見ると、普段は仏頂面である承太郎の口も僅かながら弛まざるを得なかった。こうやって彼らは明確な目的を持たずに海浜で過ごす。季節の関係からか周辺には他の訪問者は見当たらなかった。茜に染まる寄せては返す波が、まさにこの世界は彼らの為にあつらえられたものであると語るようだった。

「海の中でヒトデがオリオン座を作っていたら、凄く可愛いね」
「そいつは是非とも一度見てみたいぜ」

空条なまえは、時折、自分達が二人ではなく一人同じ人間として産まれ落ちていれば良かったのにと考える。彼との間に蔓延る少しの差異ももどかしくて仕方がなかった。それは味覚の好みであるし、抗えぬ性差であるし、感情の機微であった。友人や実の祖父、果ては母にまで雰囲気や思考が似通っていると二人は言われ続けてきたが、その度になまえは眉間に皺を作った。似ているということは、つまり異なる存在であると言い聞かされているようであった。けれど、嗚呼、やはり二人違う人間として産まれて良かったと最後には思うのだ。そうでなければ彼と言葉を交わせないではないか。
空条承太郎は、時折、自分達が二人違う人間として産まれ落ちて良かったとふと考える。彼女と二人同じ景色を観られることが、同じ事柄について言葉を交わせることが彼にとって幸せだった。諸悪の根源を討つべく異国へ共に旅立ち、途方もない辛苦を乗り越え日本に帰ってから、その気持ちはより強くなった。二人で何でもない安らかな時に浸ることが何物にも替え難くなった。隣に彼女があることを失いたくなかった。けれど、嗚呼、やはり一人同じ人間として産まれていれば良かったと最後には思うのだ。そうすればこんな煩わしい思いを抱えずに済んだのではないか。


「なまえ」
「うん?」

既に空は殆どが夜に支配されていた。あれほど大きかった夕陽は、今や遥か水平線の彼方で孤独に浮かぶだけになっている。残り僅かな光を受けてなまえの緑の双眸は宝石の如く淡く煌めいた。彼はどうも妹と自分の瞳は輝きが異なると常々感じていた。そこに確かな根拠はない。

「どうしたの」
「……お前もアメリカ、来るんだろ?」

語調は質問ではなく、確認のそれだった。少し目をしばたかせたのち、彼女は丁寧に言葉を選んでから弾んだ声音を発する。

「アメリカの海はもっと広いんだろうね。楽しみだなあ」

答えは分かっていたにも拘わらず、彼女の台詞を聞いて承太郎は酷く安心した。今より頻度は減るであろうが、度々は大学の授業を抜け出してこうやって二人海を望みたいと彼は漠然と考えていたのだ。
波打ち際に埋まる貝殻を彼女は拾い上げる。余り詳しくない彼女から見ても、それは正しく二枚貝であった。しかし彼女が気付いた時には既に番部分が随分と弱くなっていたようで、少し触れただけで二つに分かれてしまった。ばらけた貝は不幸しか与えないような気がして、堪らず彼女はそれを砂浜に戻した。

「……あ。そういえば、もうすぐ誕生日だね。おめでとう、承太郎」
「なにを他人事みてえに言ってやがる。お前もそうだろ」
「……そっか」

本当に意外だったという表情を彼女がしたので、珍しくも彼は小さく吹き出してしまった。つられた彼女もゆるやかに笑みをこぼす。

「誕生日には美味しいご飯、食べに行こうよ」
「そうだな」

空は完全に夜へ飲み込まれてしまった。そろそろ帰らなければならない。
今の彼らの関係は砂上の楼閣のように脆く儚く不安定で、いつ崩壊しても不思議ではなかった。彼らの進んできた道を振り返ってみれば、そこにはいつだって一本の線路しかないし、足跡は示し合わせたように重なっている。恐らくそれはもう少しの間続くであろうし、しかしそのもう少しがいつであるか、薄々彼らは勘づいていた。いつの日か来るべき時が来れば道は二又に分かれ、その先で彼らは別々の人の傍らに寄り添うであろうことも。きっとそれが当たり前で、正常で、歩むべき道なのだろうとは分かっている。それが正解なのだ。分かっては、いる。頭の中では。

けれどそれでも、二人どちらがそう言ったわけではないが、いつか死ぬときは、あの海と空が交わる、水平線の向こうでと決めていた。

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