夕立


わかれよう

彼女にそう言われたのは初夏の夕方、土砂降りの雨の中。いわゆる夕立でのことだった。
綺麗な夕日が見える丘。俺達二人だけの秘密の場所。いつも通りそこへ行って、日が暮れるまでにはまだ少し時間があるねなんて二人で話して、照れながら唇を重ねて、幸せを噛み締めているところへ夕立が襲って来て、
傍にあった大木の陰へ一緒に避難しようと彼女の手を取った瞬間、
「わかれよう」
そう言われた。
最初、言葉の意味が理解出来なくて、彼女の声を自分の中で何度か反芻した。別れ話を持ち出されたのだとようやく理解した頃、俺は彼女がただの冗談を言ってるんだと思って、何言ってんだよと笑ってみせた。
そんな俺から彼女は気まずそうに視線を逸らす。どうやら真面目な話だったらしい。
俺は頭が混乱して、何も言葉が出てこずに口をパクパクさせた。彼女は俯きながら小声で何か囁いていたけど、夕立の雨音に消されてしまいよく聞こえなかった。ただ唇が「さようなら」を描いたことだけは見てとれた。
そのまま踵を返すと、俺の頭が真っ白になってるうちがチャンスだと言わんばかりに、まるで逃げるように走り去って行った。
俺は状況が飲み込めずにずっとその場に立ち尽くした。
夕立の音も雷鳴も、俺の耳には何も届かなかった。



「うっわ! ハチ、ずぶ濡れじゃん!」
「ちゃんと拭かないと風邪引くよー?」
学園に戻る頃には夜になっていて、雨もとっくに止んでいた。自室に戻ろうと庭を歩いていると、廊下を歩いていた三郎と雷蔵に出くわした。どうやら食堂帰りのようだ。
「なんだか元気無いね。何かあった?」
雷蔵が心配そうに俺の顔を覗き込む。申し訳ないけど今はそっとしておいてほしい。誰かと会話する気分じゃないんだ。
「分かった。ハチ、ななしちゃんにフラれたんだろー」
三郎が冗談めかして笑う。たとえ悪気が無くても、今の俺を怒らせるには充分な一言で。
つい、三郎を見る目がきつくなった。
「・・・嘘だろ?」
三郎の顔色が変わる。
「お前ら、ついさっき学園を出る前まであんなに仲良かったじゃないか。いったいどうして、」
彼らの素朴な疑問も俺にとっては追い打ちに過ぎない。ああもう駄目だ。会話しているだけでイライラする。
三郎の言葉を聞き終えないうちに、乱暴に自室の戸を開けて中に引き籠もった。
ずぶ濡れの身体を拭くことも忘れ、押し入れから引っ張り出した布団に包まる。
…何がいけなかったんだろう。俺、あの子に何をしたんだろう。ついさっきまで、いつもみたいに隣でにこにこ笑ってたのに。乱暴に手を引っ張り過ぎた? 唇を重ねたのがいけなかった? いいや、そんなんじゃないだろ。原因なんて他にいくらでも考えられる。俺には欠点がたくさんあって、あいつは俺にはもったいない娘だった。もともと奇跡みたいなもんだった。欠点だらけの俺に我慢が出来なくなったのかな。それとも初めから全部アソビだったのかな。あんなに楽しそうに隣で笑っていたのも全部ウソだったのかな。彼女はくのたまだから、可能性は否定出来ない。本当に? 彼女、あんなに楽しそうだった。分からない、分からない。何も分からない。
愛想を尽かされたんだとしても、初めから全部ウソだったんだとしても、俺は

やっぱり、ななしが好きだ。

「ちくしょう…」
布団の中でぐずぐずに泣いた。濡れた布団は雨のせいなんだか、涙のせいなんだか。



翌朝。
幾分か落ち着いた頭で俺はこっそりくのたま長屋へ向かった。
昨日、布団の中で泣きながら、少ない脳味噌で必死に状況を整理した。
まずはちゃんと話し合おう。納得するのはそれからだ。俺にいけないところがあったなら直すように努力するし、初めからアソビだったなら本気になってもらえるよう尽くすから。だから理由が知りたい。なんで別れたいと思ったのか。
そう考えていたのに。
結局シナ先生に見つかって怒られて、最後にとんでもない一言を聞かされた。

彼女は、学園を辞めていた。昨日付で。

先生は理由を教えてくれない。信じられずに食って掛かると、昨日まで彼女が使っていた部屋に案内された。中はがらんどうで誰かが住んでいる気配は少しもなくなっていた。
俺に何も言わずに、彼女は姿を消したのだ。せっかく整理のついた思考があっけなく乱された。

自室に戻ると部屋の中で勘右衛門が俺を待っていた。
「お帰り、ハチ」
相変わらず会話する気にはなれなくて、俺は片手を上げて気力無く振って見せた。勘右衛門はしばらく言葉を探してから、意を決したように俺に話しかける。
「あのさ…俺、実はななしちゃんに前から相談されてたんだ」
相談? 何を、
「ハチと別れたがってること」
気付いた時には、勘右衛門の襟を掴んで壁に追い詰めていた。自分のその行動に気が付いたのは、勘右衛門が背中を壁に打ち付ける音が聞こえてからだ。
「待って、ハチ!」
少し焦ったような勘右衛門の声。俺はよっぽど酷い顔をしていたのだろう。
「ななしちゃんはハチのことまだ好きだよ! ななしちゃんがハチには言うなって言ったから、俺、言いたくても言えなかったんだ!」
「なんだよそれ。どういうことだ」
八つ当たりだと分かっていても、語尾を荒くせずにはいられない。
「ななしちゃん、良縁の結婚が決まったんだ」
な、にを、言って、
「俺も事情はよく知らないけど、政略結婚で断れなかったんだって。それでハチと別れなきゃならないけど、ななしちゃんはハチのことが大好きだし、ハチのこと傷付けたくないし、どうしようってずっと悩んでたよ」
「嘘だろ? なんで言ってくれなかったんだよ!」
「ハチに言ったらきっと納得しないから言わないでくれって。それに、ハチとの残り少ない幸せを噛み締めたいからって。そう言ってた」
刹那、まるで隕石のように俺の上へ後悔の念が降ってきた。なんで俺は昨日のうちにあいつを追い掛けなかったんだ。
「そんっ…俺、は…っ…」
もう、うまく言葉も喋れない。それでも言ってほしかった。相談してほしかった。だってこんなの、あんまりだろ。俺、もうななしに会えないのかよ。二度と会えないのかよ。ふざけんな。俺、お前と一緒に行きたかったところ、まだたくさんあるんだぞ。してやりたかったことも、あげたい言葉も、まだたくさん残ってるんだ。たくさん、たくさん、残ってるんだ。別れるななんて言わない。ただ、ただ俺は、
お前のこと好きだって言い足りない。
どうしてだ どうしてだよ
「なんでなんだよ!!」
叫ぶように泣き崩れた。恥とかプライドとかそんなもんはどこかへすっ飛んで、幼子みたいに泣き喚いた。
背中をさする勘右衛門の手が温かくて、俺の涙腺、壊れたみたいだ。



それから毎日、俺はあの丘で一人、夕日を眺めるのが日課になった。ここに来ればななしが「全部冗談だよ」って言いながら笑って戻って来る気がして。何せここは俺達二人だけの秘密の場所なんだから。
まあそんなことは方便に過ぎないんだけど。本当は俺がななしへの想いを断ち切れないだけ。
ここに来るたび、あいつとの想い出を一つ想い返す。そんな日々。

俺がここへ来る時間帯はいつも決まって晴れている。俺は晴れ男だった。
頭の後ろで腕を組んで寝っ転がり、夕暮れにはまだ少し早い空を眺めた。
たまには大雨でも降りゃいいのに。感傷に浸るのも馬鹿らしくなるぐらい、良い天気だ。
「泣くことも出来ねえや…」
とんでもなくでっかい台風でも来て、全部吹っ飛ばしてくれればいいのになあ。何もかもリセットして、最初から全部やり直したい。
「あいつは雨女だったなぁ…」
対してななしは雨女で、あいつが俺を誘ってどこかへ行こうとする時はいつも必ず土砂降りだった。そのままでも充分可愛いのに精一杯めかし込んで、いざ行こうと張り切って戸を開けたら外は大雨で、肩を落としてしょんぼりする。そんで俺を振り返っていつも「ごめんね」って謝るんだ。べつにななしのせいじゃねーのに。
だから何処かへ出かける時はだいたい俺の方から誘ってた。あいつが行きたいところがあると俺が察してやらなきゃいけない。あいつが俺を誘うと決まって雨になるから。
今考えるとだいぶ笑えるなあ、俺達。
あいつが実習から帰ってくるといつもだいたいずぶ濡れで、「どうして私のところだけ雨が降るんだろう」って羨ましげに俺を見つめてた。くのたまのすぐ側で実習をしていた俺達には雨なんて少しも降りゃしなかったのに。
兵助にのろけたら「この時期は仕方ないさ、夕立は馬の背を分けるって言うぐらいだし」と返された。馬の背って何?と聞き返したら兵助に「そんなことも知らないのか」と真顔で指摘されて、ちょっとムカついたのを覚えている。意味は、馬の背半分ずつで天気が違うほど夕立は局所的なもの、なんだそうだ。早速ななしに教えてやると、じゃあ私も夏が過ぎれば晴れ女になれるかな、なんて笑ってた。



変わらない毎日。
ななしが居なくなってから、あっという間にひと月が過ぎた。
相変わらず俺は丘通いを続けている。来るたび来るたび、あいつへの想いは募る一方で

『ハチは凄いね! 私も虫について最近ちょっと詳しくなってきたよ!』
『みんなはハチの髪ボサボサだって言うけど、私は好きだよ。あのね、寒い日とかに包まるとあったかいの! 知ってた?』
『今日ね、実習でお菓子作ったよ! これ、ハチ専用の毒無し! 食べて食べて』

あいつとの想い出に磨きをかけるだけ。
俺は… 俺は、どうしたいんだろう。何を求めてここへ来るんだろう。ここへ来たってもう何もありゃしないのに。

『私ね、最近、雨がちょっと好きになれたんだ』
『へえ、あんなに雨嫌いだったのに?』
『うん。雨に濡れるとさ、嫌なこととか全部流れ落ちた気になるの。綺麗にリセットされた気分になるんだよ』
『ふーん。だったら俺も雨に濡れたいな』
『無理だよ。だってハチは晴れ男だもん』

雨が…
「雨が、降りゃいいのに…」
どうして俺は晴れ男なんだろう。あいつと最後にここへ来たあの時以来、夕立は一度も訪れなかった。
雨が降って全部、流れ落ちたらいい。俺のこの想いもあいつとの過去も、全部全部、消えてなくなれ。
そしてまたゼロからスタートするんだ。新しい出会いを求めて。
「…あれ?」
ぽつり。
俺の頬を雫が濡らす。驚いて空を見上げると、夕立雲から雨が降り始めていた。俺の気持ちが天に通じたのか。
「はは…やった…」
あっという間に土砂降りになる。雨の中、俺は顔を綻ばせた。
これでようやく大泣きできる。何もかもリセットできる。

・・・。
ふと、背後に誰かの気配を感じた。振り返ろうとして、俺は固まった。
その気配がひどく懐かしいものだったから。
ひと月前まで傍に居た、大好きだったそれとそっくりだったから。
ここは
ここは、俺と彼女だけの秘密の場所。

『どうして私のところだけ雨が降るんだろう』

心臓が早鐘を打つ。

急に、夕立が訪れたのは、















また、ゼロからスタートするんだ。新しい出会いを求めて。

だったらこれが新しい出会いになったらいい。
一から全部やり直せたらいい。















神様
神様

どうか
どうかお願いです















振り返った先にいるのが――




























竹谷にとって夢主は夕立のように掻き乱す存在である、ってことを表現したかったんだけど…補足せな全く分からんなコレ…無駄に長いしorz
ぎゃふん!めっそりくおりちぃ!

えらく難産でした。
いろんな竹谷を考えた。没を省いて5パターンぐらい捻り出した。みんな大好きネアカ竹谷だったりとか、俺様竹谷だったりとか…。
これはその中でのターン4、ロマンチスト竹谷です。他の4通りについては日の目を見るにはちょっと出来栄えがあんまりにもアレなんで(アレってなんや)、丁寧に丁寧に埋葬します。さようならw

素敵企画に参加させていただき、ありがとうございました!


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