ジェンガの初手
昼間のぬくさは何処へやら、空気の冷え込む夜のこと。
虫一匹鳴かない静かな空間で。
近頃はラビちゃんと一緒に布団へ潜っているから、その日もラビちゃんと一緒に寝るつもりだった。
「寒いね〜。早よあったまろ」
下半身だけ布団に潜り込ませて、掛布団に載っかっていたラビちゃんを抱っこしたその時、
――ガタン
背後で家の戸が乱暴に開かれる。この時間に戸を開けるのは雅さんしかいないので、久し振りに帰って来てくれたのかと笑顔で振り返った。けれど、
「おかえりなさ――」
そこにいたのは確かに大木雅之助だった。でも雅さんじゃなかった。
忍装束の色が変わる程にまみれた赤はどう見ても彼の血じゃない。何をするでもなく玄関で立ち尽くす彼を見て、ああこれはいつもの獣がご帰還したんだと瞬時に察知した。
沈黙を続けていても仕方ないから、何か言葉を掛けようとして暫し考える。だけどうまい言葉が何も見付からず、彼の寝間着を取り出すために黙ったままいつも通り引き出しへ向かった。
「・・・」
何となく、目を合わせられない。
べつに彼のことを汚いと思ったわけじゃないし面倒と思ったわけでもない。ただ怖かった。部屋の隅へ逃げ出したラビちゃんと同じで、私のこれはきっと動物としての本能的な感情だ。彼が私を手に掛けることなど有りはしないのに、彼の纏う気迫を、存在を、直感的に恐ろしいと感じてしまった。目を合わせたが最後、視線だけでい殺されそうな気さえする。
その時、ふ、と背後から伸びてきた両手が視界の端を掠めた。
「っ!?」
瞬間の出来事。
彼の腕をかわそうと身をよじったことが裏目に出る。練達な獣の俊敏さに私が敵うはずもなく、半端な姿勢で突き飛ばされてしまい、箪笥へ横向きで激突してしまった。派手な音と醜い悲鳴をあげてから、箪笥を背でなぞるように尻餅をついてしまう。ズリズリと服の裂けそうな音付きで。
けれど飢えた獣はそんなことなどお構いなしに私の上へ覆い被さり、酷く性急な手付きで私の着物を剥がしに掛かってきた。
「ちょっ、雅さ…!」
乱暴にも程がある。薬でも盛られたのかそれとも人肌恋しいのかそんなの知ったこっちゃないけれど、とにかくこれは雅さんであって雅さんじゃない。私の知る大木雅之助じゃない。姿カタチが同じだけの別人だ。
「やだ!!」
腕の下をすり抜け、着崩れて不恰好な四つ這いで逃げ回る。彼と身体を繋げることは初めてでもないのに恐ろしくて仕方がない。肌蹴た着物がうまく足を進めてくれずもたもたしていると、片手で首根っこを引っ掴まれ床に強く押し付けられた。顎先をぶつけて痛みに目眩がする。押さえ込んでくる握力に深く息が吸えない。軽く咽ていれば背後で帯を解くような布擦れの音がした。確認しようにも首が動かせない。
まさか、
「やめて!」
首を押さえている方とは逆の手が、私の腰を力尽くで抱え込んできた。
信じたくない。こんなの強姦以前だ。本物の獣の所業じゃないか。
「やだっ!放して!」
四つ這いのままみっともなく泣き喚く。青ざめたところで時既に遅し。
刹那、愛撫も何も無かったそこへ後ろから強引に男根を突っ込まれた。
「ぅ、アッ!」
あまりの激痛に唇を噛み切ってしまう。間髪入れずにがつがつと無遠慮な律動を開始され、まるで身体の内側から熱砂で焼かれてるみたいだ。腰を引きたいのに許されない。背を反らしたいのに許されない。身動きできない。快楽からはるか掛け離れた性交に全身が震えて拒否を示した。
なんで。どうして。いったい何故こんな目に。彼に何が遭ったっていうの。どうしてここには獣が居るの。優しい雅さんはどこに行ったの。私が帰りを待ってたのはいつもの優しい大木雅之助であって、こんな獣じゃないのに!
「ぐ、ぅ…!」
床へ爪を立てて痛みに堪えているうち、さほど時間を要さずに獣は私の中へ吐精した。やっと終わったかと安心したのも束の間、髪の毛を後ろにグイと引っ張られて身体を反転させられる。足首を掴み上げられると同時、抜かずに二発目の律動を始められてしまった。嫌だ嫌だ、痛い、痛い、痛い!
「もうやめ、っ、」
訴え掛けて言葉尻を呑み込んでしまった。仰向けになり瞳を開いて、私はそこでようやく気が付いたんだ。
覆い被さっている獣がひどく頼りない表情をしていたことに。
「雅、さ、ん、」
今にも泣き出しそうなほど悲痛に歪んだ顔。まるで道に迷った子供のような。
「ん、っ」
咽喉から出掛かっていた拒否の言葉も苦痛の声も表へ出る前に飲み下す。何となく、今は堪えてあげるべきだと思った。怖がっちゃいけない。受け入れてあげなくちゃいけない。眼前のこの獣だって間違いなく大木雅之助の一部なんだ。根拠は無いけどとにかくそう思った。
痛みを堪えて両手を伸ばし、憤懣をぶつけるように腰を振り続ける彼の首へ腕を回す。こういう時は、ああそうか、あやしてあげると良かったんだっけ。後頭部から背に掛けて優しく撫でてみた。やっぱりこれが好きだったのか、吸い寄せられるように自然と私の肩口へ顔を埋めてくる彼。
…鼻をつく血の臭い。
雅さんでも私でもない、知らない人の臭い。たぶん、今はもうこの世にいないだろう人の臭い。
「っ、」
何故だか分からないけど私も急速に不安を覚えて、彼の背を手繰るようにきつく抱き締めた。
雅さんに何があったんだろう。いったい今何を苦しんでるんだろう。分からない。知りたい。知るのが怖い。聞きたい。聞けない。聞いたらいけない。感情がぐるぐると渦を巻いて痛みごと麻痺していく。
『内に溜め込んじゃって自分の感情を外へ吐き出せない、損な性分だわ』
『誰よりも感情の吐露が下手くそです』
『大木先生はいろいろと溜め込む人のようなので』
みんなが教えてくれた彼の本質…文字通りにここまで痛感する日が来るなんて。
『大木先生は土井先生と同じぐらい不器用よ』
いつも独りで抱え込んで苦しんで。だからこそ、こっちまで締め付けられるように苦しくなる。
『大木先生は優しい人です。凄く優しい人』
何があったか分からないけれど、優しいからこそ何か傷付いてしまったんだろう。彼の心の傷に比べたら、今の身体の痛みなんて安いものだ。熱を通して痛みを分け合えるならそれで良いとすら思える。
噛み切った唇を再び噛み直し、焼け付くような痛みを暫く享受し続けた。
それからようやく腰が止まったのは彼が四度目の精を吐き出した頃だった。身体を繋げたまま私に覆い被さって肩で息をしている。
さっきから私の肩口に埋もれっ放しで延々言葉を発してくれない。後頭部に手を置いて軽くポンポンしてみた。
「…落ち着いた?」
それでも反応無し。言葉どころか顔も上げてくれやしない。むしろちょっとグッタリしてる。あ、分かったぞ。気まずいからってこのまま寝に入ろうとしてんなコレは。さすがにそんなのは許しませんよ! すかさず後ろ髪を引っ張ってムリヤリ彼の頭を持ち上げた。
「あだだだ!」
「あだだじゃないよバカー。私だってさっきおんなじコトされたんだからなー痛かったんだからなー」
「…すまん」
心底後悔してるらしい、謝罪の言葉を探しておろおろと視線を泳がせてる。ああ、これはいつもの雅さんだ。安心してつい笑みが零れた。
「おかえり」
「お、オゥ。ただいま…」
「・・・」
「あーと、その…なんだ…とりあえず気ィ済むまで殴ってくれて構わん」
何その謝罪。不意打ち過ぎて内心ややウケしたわ。お言葉に甘えてボッコボコにしたろか?
「やだ。そんなんじゃ済まさない。許したげない」
「っ、だったら好きにしろ」
「煮るなり焼くなり? 切るなり潰すなりネジるなり?」
「・・・ぉ、ぉぉ」
「返事が小さーい。新妻の機嫌取りに必死な人なんじゃなかったの?」
「どうすりゃいんだ」
「本当に悪いと思ってんならさ。まずはお風呂入って、」
そう、お風呂に入って。
私の知らない人の臭いを、雅さんを悩ませるその赤を、ともに苦しめてしまう心の傷を、まずはキレイに洗い流してきてください。
「そんで、最初からちゃんと手順を踏んで抱き直して下さいまし?」
よろしい?と組み敷かれたまま彼の瞳を見上げれば、彼は一瞬だけ驚いた顔をしてから眉尻を下げて笑った。
「…ああ」
甘やかしてくれやがって。
そう呟く雅さんの表情は一瞬だけやたらと幼くなった。あたかも私が母親なんじゃないかと錯覚するぐらいに。
『表に吐き出す習慣をしつけてあげるといいわ』
脳裏を過ぎるシナ先生の助言。甘やかしてるつもりは無い。私はただ、雅さんの助けになりたい。
「ねえ雅さん」
「あ?」
「べつにさ…泣いたっていんだよ?」
何があったかなんて話してくれなくていい。何を悩んでるか教えてくれなくたっていい。そこは真髄の忍者だろうから。けど、せめて泣くぐらいはイイんじゃないのかな。
雅さんはつかのま瞳を見開いてから複雑に顔を歪め、最後に無理やり口角を持ち上げてみせた。
「馬鹿言え」
ああこれは、
「男が泣くか」
いつか善法寺くんが言ってたのと同じ――。
『いつも通りの笑顔なのに、何故だか僕にはまるで泣いてるように見えたんです』
この人はなんて不器用なんだろう。泣きたい時に泣けないなんて。私と全くおんなじだ。きっと人前での泣き方を、甘え方を知らないんだ。とんだ似た者夫婦じゃないか。無理に貼り付けた笑顔って傍目にはこんなに痛々しいものだったんだ。
『男はさ、好きな子にはむしろ泣かれたいし、頼られたいし、甘えられたいんだよ』
いつだか雑渡さんが私へくれたアドバイス。あれは男に限ったことじゃない、女だって同じ。
もっと頼ってくれていいのに。もっと甘えてくれていいのに。どうして泣いて縋ってくれないの。どうしてそう壁を作るの。私に頼り甲斐がないから? 甘える隙が無いから? 目の前で独り抱え込まれるほどツラいことってない。
雅さんの支えになってあげたいのに、私はいつだって何も出来ない。させてもらえない。
…あのとき
『悪いのは私の方です! すみませんでした!』
あの時、土井先生にとって私はどう見えてたんだろう。こんな風に見えてたんだろうか。
今更考えたところでどうしようも無いけれど。
「それって、頭から納豆ぶっかけられても?」
「それは泣く」
「だめじゃん」
ああそうか。
みんなが今まで私にくれた忠告は土井先生を諦めて雅さんの想いに応えろという、切り替えの薦めなんだと思ってた。でも、
『ななしさんがしっかり手綱を握ってあげてね』
『ななしさんがここに居ると知ってほっとしています』
『ななしさんの支えはかなり重要だと思います』
ひょっとしたら私は…みんなの言葉の真意を取り違えていたのかもしれない。
『あのひと時々目測を誤って一人で無茶するのよ』
『たぶん忍者として致命傷なんじゃないかってぐらい』
『あなたの存在は支えそのものですから』
…みんなの言葉の真意に今ごろ気付くなんて。だいぶ時間を要してしまった。
私はやっぱり鈍感だ。
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