新生活


戸の向こうにある気配が揃って遠ざかったあと、何をするでもなく周囲をぼんやり見渡した。部屋の隅でラビちゃんが丸まって眠ってる。
「ラビちゃん、朝だよー」
膝歩きで近寄れば耳をぴくりと動かして頭を持ち上げるラビちゃん。が、私の姿を見るなり強張った表情で後ずさりしてみせる。まあそうか、昨日の今日だもんね。怖がられても仕方ない。
「昨日はごめんね…驚かせたね」
ある程度距離を保ったままで腰を落ち着けた。無理に懐かれようとしてもしょうがない。余計に怖がられるだけだ。
「もうすぐ雅さんが朝ゴハン持ってきてくれるよ」
ラビちゃんに嫌われるのはちょっと寂しいけど、これも自分で蒔いた種。素直に受け入れるしかないよね。
それにしてもお腹空いたな。まる一日なにも食べてないや。ラビちゃんは然ることながら私のゴハンも早くやってこないかなあ。雅さん、子供達へ野菜を手渡すのにあとどれぐらい掛かるんだろ?
自分で食材を取りに表へ出たいけど、それをしたらさすがに空気読めな過ぎ。そこの戸を閉め切って行ったってことは、彼は私の存在を隠しておきたいんだろう。そりゃそうだ、子供は詮索するに当たって遠慮ってモンを知らないから。バレたが最後、無遠慮に根掘り葉掘り傷をほじくってくるに違いない。このままここで暮らしていけばいずれバレるんだろうけど、土井先生をいまだ引きずってる私に対して雅さんなりに配慮してくれたんだろうな。
ふとお腹が鳴る。あらやだケッコーな大音量だよ、恥ずかしい。誰も聞いてなくて良かったな〜なんて思いながら腹の辺りを擦っていると、不意に膝上へ温かい重みが載って来た。よく見なくてもラビちゃんだった。私の様子を窺うように恐る恐る前脚を掛けてくる。
「…腹の虫、ラビちゃんに聞かれちゃったねえ」
つまるところ、このコは飼い主によく似てる。ひょっとして私のことを心配してくれてたのかもしれない。背中を優しく撫でれば安心したように後ろ脚も預けてきた。
「お腹空いたね。雅さん、早く戻って来ないかな」
膝上のラビちゃんに話し掛けながら背を撫でる。そういえば誰が来たんだろ、聞き覚えのある声だったけど。忍術学園は朝が早いよなあ、こんな時間に野菜貰いにくるなんて。それともあれかな、私が単に朝早くに感じてるだけで私も雅さんも実は目覚めが遅かったのかな。そういや今何時だろ?
窓の方へ目を向けると格子が部屋の中へ小さい影を作ってた。てことは日はだいぶ高いんだろう。お昼前なのかもしれない。なんだ、私ときたらまた寝坊助だったのか。
「ん?」
予期せず、ニョキッと。格子の間に小さな黒い影が現れた。目を凝らしてみればそれは、
「…ナメクジ?」
遠慮なく家の中へと侵入してくるそいつ。こんな天気の良い日になんでまた…アッ!?
「あー! 駄目だよナメ千代、勝手に散歩したら!」
「あっ、コラ待て喜三太! そっちは…!」
気付いた頃には時既に遅し。外から甲高い声が飛び込んでくると同時、わざわざ閉め切られていたはずの戸がスパンと開け放たれた。
登場したのは、白い陽射しを背にナメ壺を抱えた喜三太。
「…へ?」
私を見付けてうまく状況が呑み込めないのか、しばらく目をぱちくりさせていたんだけれど、
「ああああああ!!!!!」
最終的にはラビちゃんがキィと鳴くほどの大声を張り上げて私を指差した。
「ななしさんが居るううう!!!!!」
ラビちゃんどころか私の鼓膜も破けそうだわ。差してる指先をワナワナさせる喜三太にどう反応していいか分かんなくて仕方なく、ヤッホウ、なんてショーモナイ挨拶で手を振った。
「何だって!!?」
次に飛び込んできた外からの大声も、聞き覚えのあるもの。誰かと思えば庄左ヱ門が姿を現し、喜三太の隣へ並んで見せた。おお何だ、珍しい組み合わせだなオイ。本当だあ!なんて顔をして見せる庄左ヱ門の背後へようやく世帯主が現れた。決まりの悪そうな顔に「ばれちまった」ってモロ書いてある。君らその年齢にしてこの人の隙をつけるんだから将来有望だよ、末恐ろしいわ。
「ななしさん、こんなところで何してるんですか!?」
何してると訊かれても…かくれんぼしていたわけでもないし悪いことをしたわけでもないんだけど、何だか妙に居心地悪い。庄左ヱ門の質問に、こんなところは余計だ、と雅さんが後ろから彼の頭をハタいた。
「んー…何してるのと訊かれたら、ラビちゃんと戯れてた」
「そうじゃなくて!」
子供二人がヤキモキし出す。答えを濁して誤魔化すのは私の昔からの悪い癖だ。相手をイライラさせるだけだって分かっちゃいるんだけどさ。
「…住んでるんだよ、ここに」
「どうして!?」
「どうして、って…土井先生の家にはもう居られないからだよ。君らなら知ってるでしょ」
「それは、そうですけど…」
土井先生のことだから学園では私情を語らないかもしれない。けど、は組の子達は変なところで勘が良いから。たぶんきり丸あたりに真相を聞いてることだろう。
「でっ、でも僕達、ななしさんが大木先生と住んでるなんて知りませんでした!」
「そうですよ! 僕ら、ななしさんのことずっと探してたんですよ!?」
…え?
「探してた?」
「はい!」
「ななしさんを学園へ連れて行こうと思って!」
「…なんで?」
「なんでも何もないですよ!」
「ななしさん、いま土井先生が学園でどんな風だか知らないんですか!?」
「知ら、」
知らない、と言い掛けて言葉を切った。その先を聞くのがコワいから。
土井先生はきっと普段通り。この子達は私と土井先生の仲をあれだけ応援してくれてたから、何ごとも無かったように振る舞う土井先生の姿が許せないのかもしれない。
子供って何でもかんでも正直に話してくるから恐ろしいわ。慌てて両耳を手で塞いだ。
「いい。言わないで」
「どうして!」
「聞きたくない」
「ななしさん、もう土井先生のコト好きじゃないんですか!?」
子供は、こわい。
庄左ヱ門の質問が核心を突いていて、どう返答していいのか分からなかった。答えを言いあぐねて唇が震える。
「それぐらいにしてやってくれんか」
横合いから雅さんの助け舟。子供二人が振り返って彼を見上げる。
「立ち直ったばかりなんでな。あまり責めんでやってくれ」
みるみるうちに眉間へ皺を寄せる二人。喜三太はやり切れなさの矛先を雅さんへ転嫁した。
「大木先生も大木先生ですよ! ななしさんが土井先生の家に住めなくなったから今は杭瀬村に住んでるぞって、一言教えてくれればよかったのに!」
「阿呆。なんでわざわざそんな報告を恋敵にせにゃならんのだ」
「恋敵って…え!!?」
「なんだ、知らなかったのか」
「じゃ、じゃあ大木先生は土井先生からななしさんを奪ったんですか!?」
「まあ、そうなるな」
「いったいいつからですか!? ななしさんは最初から二股かけてたんですか!? ななしさん、いつから大木先生の家に住んでるんですか!?」
「待て待て人聞きの悪い。ななしはべつに二股かけとらんぞ。土井先生にフラれた日に、ワシが強引にさらって来たんだ」
そんな、その言い方はあんまりだ! それじゃあ子供達にとって雅さんが悪者になってしまう。私は好きでここへ来たのに!
「最低です大木先生!」
「一緒に学園へ行きましょうななしさん! 土井先生が待ってますから!」
子供二人は駆け寄ってくると両側から私の腕を引っ張って立たせようとする。違う、違うんだよ二人とも。とんだ誤解だ。
「私、行かない」
「ななしさん!?」
「ごめん。庄左ヱ門も喜三太も…他のみんなも、土井先生と私の仲をあれだけ応援してくれてたから凄く申し訳ないんだけどさ…私は行かない。行けない」
「なんでですか!」
「みんなにはちょっと難しい話なのかもしれないけど、土井先生とはもともとこうなる可能性もあったんだよ。私と暮らした末に土井先生が導き出した答えが私と"離れること"なら、淋しいけど私はそれをきちんと受け止めなきゃ」
私が自分の尻拭い出来ないからって、雅さんがそこまで悪人になる必要なんてない。
「土井先生のことをもう好きじゃないのかって訊かれたら、正直うまく答えられない。でもね、」
自分の尻ぐらい自分で拭ってみせる。もうイイ大人なんだから。
「私いま好きでここに居るよ。大木先生のこと、私ちゃんと好きだから」
驚いた顔で言葉を失くす子供達。
半分は自分に言い聞かせていたことも、誰かさんにはおそらくバレていて。泣きそうな顔で好きとか言うな、って小さな声が聞こえてきた。




















戻らなくて良かったのか

雅さんが私にその一言を投げてきたのはその晩、私が自分の布団を敷いてさあ寝るぞと横になった時だった。
とっくの昔に自分の布団へ先に潜り込んでいた彼は、片ヒジ付きながら妙に臆病な声音でそれをボソッと呟いた。
「…ひょっとしてその質問する為に今日一日悶々としてたの?」
「いいから答えろ」
「後悔してないよ。言ったじゃん、雅さんがいいって」
「あっそ」
「訊いてどうすんのさ」
「べつに」
「このヒト変なところでガラスのオッサンだなー」
「お前そのココロの声がだだ漏れる癖どうにかしろ」
横向きに寝ていた雅さん。ふて腐れて反転、私へ背を向ける。
…なんとなく。本当に、何となく。その背へ甘えてみたくなって、彼の布団に潜り込んだ。
「!?」
一瞬、彼の身体がびくりと跳ねる。相当驚いたんだろう、反転したばかりの身体を元に戻して正面から私を捕らえた。
「何だ、どういう魂胆だ」
「魂胆て何さ。べつに何も狙ってないよ。甘えたいだけ」
そう、本当に甘えたいだけ。布団の中で彼の背に腕を回してしがみ付く。ごく自然に抱き返された。ぬくい。たぶん、この温かさを一度知ってしまったから無性に甘えたくなるんだ。きっと私はこれが病みつきになってる。
「誘ってるのか」
「誘ってない」
「誘ってなくても誘ってるように見えたんだから仕方ないよな?ワシに罪はないな?」
「駄目。やだ。今そういう気分じゃない。もし手ェ出したら明日から一週間、納豆定食にすっから」
「…手ェ出しても出さなくても拷問だろうが」
リアルな処刑方法を一瞬だけ想像してしまったのか、顔付き変わるほど口角を下げて見せる彼。苦笑なんてもんじゃないその表情に思わず笑いが込み上げた。
なんだかんだ文句言いながらも、私が手を出すなと言えばこの人は出してこない。昔から…土井先生と出逢う前から、彼はこういう人。こういうところで"甘やかされてるなあ"って自覚する。
不意に頬を撫でられた。あれ?何?やっぱり手ェ出す気? 真意が分からずにキョトンとすれば優しく微笑まれた。
「やっと、普通に笑ったな」
ああそうか。彼はもう私の頬を摘まんだりしない。
「うん。雅さんのおかげ。ありがとう」
心から感謝。お互いに微笑んだまま暫らく見詰め合う。甘い空気。
なんだかこのままだとまた接吻を落とされそうなので彼の胸に顔を埋めた。今日は気分じゃないとさっき自分で宣言したくせに、うっかりすると気を許してしまいそうだ。駄目だよダメダメ、今日はオアズケ。その腕の傷が開くかもしんないからオアズケ。
「ねえ雅さん」
「あ?」
「明日なんか予定ある?」
いい具合に睡魔が寄ってくる。ポカポカし過ぎてだんだん眠くなってきた。
「予定? べつにいつもと変わらんが…」
「私、町へ行きたい」
「ああ」
夢の世界へ舟をこぎ出して、言葉尻が萎んでしまう。
「ケジメってほどのもんじゃ、ない、けどさ…整理しておきたいことが…何個か…ある…ん…」
吸い込まれるように視界はマブタの裏へ。

庄左ヱ門も喜三太も、今日のことちゃんと学園で報告してくれたかなあ。


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