本心


何をする気も起きなくて、雅さんが出て行った部屋の中で一人ぼんやりしていた。
視線の先に紅団扇の櫛。想い出が敷き詰まった無機物のかたまり。やるせなくなってそれを掴み部屋の隅へ投げ付けた。壁にぶち当たってパキンと音がする。細かい欠片が散った。歯が何本か折れたかもしれないけど、もうどうでもいい。こんなものに振り回されてまた雅さんを傷付けてしまった。最低最悪だ。
のろのろと視線を戻せば、仕分けられていない残り僅かの荷物がそこでダマになっている。これ以上作業を続けるのも億劫で、またの機会にやろうと自分に言い聞かせながら巾着の中へ残骸を詰め込んだ。袋の口を閉じて懐へ突っ込んでから、傍の壁へともたれ掛かる。
本当は分かってる。身動き出来ないんじゃない、身動きしないだけ。自分でこの場にとどまってるだけ。分かってるのに、それを受け入れられるはずの強い自分が何処かへ置き去りになっている。
今日はもう、何もしたくない。










どれぐらいそうしてただろう。気付いた時には外の陽が沈み始めてる時間だった。
ああいけない、雅さんは夕飯までに戻るって言ってた。もうすぐ帰って来る頃だ。化粧を落とせと言われたからせめて落としとかなきゃ。それから夕飯作らなきゃ。
重たい腰を上げてからおぼつかない足取りで再び井戸へ向かう。いざ辿り着くと朝食の時に使った食器が桶に突っ込まれたままだった。洗うことすら忘れてた。ゲンナリしながらあとで洗おうと思い直し、新しい桶を引っ張り出して水を張る。覗き込めば予想以上に化粧崩れしてる不細工面が映った。どこがおやま人形だよ、これじゃこけし以下じゃないか。内心で自分に悪態突きながら両手で掬って顔を洗った。暮れ時の水は少しヒンヤリしてる。
水面に映る自分を嘆きたくなった。落としても落としても化粧が落ちた気がしない。そこに現れたのが顔色の悪い能面だったからだ。頬が擦り剥けそうなほど何度も水で擦った。
私どうしてこんな顔してるの。つらい時でも笑顔を貼り付けるのが習慣だったのに。涙を奥に引っ込めて無理矢理にでも笑うのが常だったのに。うまく笑顔を作れない。笑えない。そもそも笑顔って何だったっけ。どういうものだったっけ。そういえば私、久しく笑ってない気がする。頬の筋肉を持ち上げるほど動かした記憶が無いもの。いったいいつから笑ってないんだろう。今の今まで気付きもしなかった。
…ああそうか。雅さんが私の頬を摘まんで引っ張ってたのは不満があったからじゃない。きっと、あの人は、
「ッ」
水面の中の死んだ魚みたいな自分と目が合って、不覚にも背筋が寒くなる。一瞬本物の死人に見えたからだ。
ふと、さっき突っ込んだばかりの巾着が懐から零れ落ちた。トサリと軽い音を立てて地面の上で形を崩す。拾い上げようと手を伸ばしたけれど、掴み上げる気力すら何故だか湧いてこなかった。
縁日の想い出が詰まっている巾着。六年生のみんながお金を出し合って買ってくれた巾着。
紅団扇柄の、巾着。
『"飾らない美しさ"か! なるほど、ぴったりだな!』
不意にあの時の七松くんの台詞が私の感情を乱してくる。紅団扇の花言葉は、恋にもだえる心と、飾らない美しさ。
ぴったりなもんか。私ほど醜くて惨めな女なんて他に居やしない。自分を可愛がっては他人を傷つけてばっかりの救えない人間。化粧をすればこけし以下だというのに、素顔はまるで能面なんだ。飾っても飾らなくても、それこそ笑えるぐらいに貧相で価値の無い女。
価値の無い、女。
「・・・」
伸ばしたままの手を再度動かした。手に取ったのは巾着じゃない。その横にある、桶に入ったままの皿。一枚を掴み上げて地へ叩き付けた。派手な音を立てて割れたから、視界の隅でラビちゃんが遠くへまた脱兎していくのが見えた。破片の中から切っ先の鋭そうな大きなものを一つ選びだして、それを右手に握り締める。
『あまり心配掛けないで下さい』
記憶の蓋は、さっきから閉じられないまま。
ヤケになるのとは少し違う。
土井先生に嫌われたままこのさき一生を過ごして何か楽しいことはあるんだろうか。本当に、あの人は私にとってのすべてだったんだ。あの人がいなくなったら何一つ楽しいことなんてありはしない。何一つ笑顔になれることなんてありはしない。一生、笑うことなんてない。そう思ったら生きてる意味がよく分からなくなった。私は何のために生きてるんだろう。これから何のために生きていくんだろう。良いことなんてこの先どうせありはしないのに。
つらい思いをするためだけに生きていくなら、今ここで終わりにした方がよっぽど楽に決まってる。
『それまで、待てますか?』
彼と出逢う前の私に戻れるほど、彼と共に過ごした月日は私の中で軽くはなくて。
こんな想いをするぐらいなら最初から土井先生の傍で暮らすんじゃなかった。断られた時に潔く引き下がれば良かった。あの人をよく知らないままでいれば良かった。
出逢わなければ、良かった。
『待っていられますか? 私を』
昔の私ならこんな発想、絶対にしなかった。友達が揃って恋愛に苦しんでた時も何を恋愛ごときでと鼻で笑ってた。だけどそれは私がここまで誰かを本気で愛したことが無かったから。自分のすべてを掛けられるような人に出逢ったことがなかったから。今思えば浅はかだったな。知らないって恐い。
『じゃあ、帰りましょうか』
自分の存在が馬鹿馬鹿しくなったんだ。もう何もかも終わりにしたい。
破片の先端を首筋へ宛がって、ぷつり、小さく埋め込んだ。赤が零れ出したんだろう、咽喉元にじんわりと温かい感触が広がる。あとはこの先端を押し込んで横に引くだけ。
「土井先生」
振り回してすみませんでした。貴方の理想になれなくてすみませんでした。傷付けてすみませんでした。
…大好きでした。
ひとしきり胸の内で遺言を告げてから握り締める右手に力を籠めた。その時、
「阿呆!!」
意識の無い方面から手が伸びてきて私の右手首を掴んだ。力ずくで引き抜かれた欠片の先端に赤が映える。
振り返れば、タイミング悪く帰宅したらしい雅さんが焦った様子で立っていた。
「何やってる!」
「…なんにも」
やっぱりヤケなだけかもしれない。返事をするのも面倒で覇気なく答えたら、雅さんはこれに腹を立てたらしい。
「んなワケあるか!とぼけるな!」
ああ、ああ、責めないで。お願いだから責めないで。
あと少しだったのに。あと少しで、楽になれるところだったのに。
「放して」
「断る!」
「放してよ」
どうして邪魔するの。どうしていつも私の邪魔ばかりするの。雅さんはいつだって、あと一歩のところで私に地獄を見せてくれる。

『あのまま大木先生のあとをついていけば良かったのに』

いつだって。

「放して!!!」
ヒステリックに叫んでついには暴れ回った。左手で彼を突き飛ばしたけれどそれでも放してもらえなくて、右手首を抑えている彼の腕に容赦なく噛み付いた。小さく呻いて力が弱まったその隙に、乱暴に手を振り解く。一瞬の隙で放してしまった手を彼は再び伸ばしてきたけれど、どうしてもそれを拒みたかった私は後先考えずに破片を真っ直ぐ振り下ろした。ザッ、て鮮明な音がして雅さんの腕に赤い切り口が現れる。だけど彼はそんなのお構いなしに怯むことなく私を取り押さえようとするから、私も自分の咽喉へためらいなく破片を突き立てようとした。
したのに、
「いッ!」
予期せぬところから痛みが走って声を上げてしまう。咄嗟に足元を見るとラビちゃんが私のふくらはぎへ全力で噛み付いていた。それが刹那の油断だった。私の手にあった破片は、雅さんによって届かぬ距離へ弾き飛ばされてしまった。すぐに追いかけて手を伸ばすも、それは掴めずに終わってしまう。雅さんが私を手繰り寄せて正面から抱き留めたからだ。ここまできてもまだ死を諦められない私は噛んだり爪を立てたりして散々暴れ続けたけれど、今度こそ雅さんの腕はビクともしなかった。圧倒的な力の差が悔しくて、ここでようやく、
「はなして」
瞳から感情が決壊して流れた。
放して。お願いだから放して。楽になりたい。逃げ出したい。
「放さん」
「後生だから」
「死にたがりが後生とか言うな」
抱き留めたまま私の肩口へ顔を埋める彼。表情が窺えない。
「忍者たるもの、いつ何処で誰がおっ死んでも割り切る気じゃったが…」
耳元で喋る彼の声は、ひどく震えていた。
「ワシは、お前の墓だけはどうしても作りたくない」
その声音が、土井先生を失う前の私にそっくりだったから。途端に私はどうしていいのか分からなくなった。
涙腺だけじゃない。心の奥の栓まで外れてしまう。
「ごめんなさい」
「ああ」
「雅さん、私、」
「ああ」
「私、土井先生が好き」
「ああ」
「好き。大好き。今も好き。死ぬほど好き」
言葉尻に嗚咽が混じり出す。思うことがたくさんあって、だけど気持ちは言葉にならなくて。
土井先生が好きだった。本当に大好きだった。優しく話し掛けてくれた彼も、練り物を出すたび怒ってた彼も、生徒と楽しそうに笑ってた彼も、大家さんに怒られてションボリしてた彼も、全部ぜんぶ大好きだった。彼は私のすべてだった。
「つらい。苦しい。逃げ出したい」
本当は独り占めしたかった。何処へなりとも閉じ込めて毎日一緒に過ごしたかった。朝から晩まで世話を焼いて壊れるぐらいに愛したかった。私の名前だけを呼んで私のことだけを囁いてほしかった。そんなドロドロの感情も押し出せないまま、ほんの少しの愛しか表に出せなかった。結局私は、あの人にとって聞き分けの良いイイコちゃんで終わろうとした。今の私がそれで終われるはずもなかったのに。
あの人は、なぞのななしから土井半助を取り上げたら私がどうなるかなんて、微塵も知りはしないんだ!
「雅さ、」
思うことは、たくさんあるのに。
声が出ない。声にならない。
「たすけて」
たった一言、絞り出せたそれすら掠れてしまって。けれど私を包んでいるこの人には伝わっていた。
「やっと吐いたな」
くしゃり、大きな掌で頭を撫でられる。まるで最初から今の一言を望んでいたような、そんな声音。
感情を声に出せないかわり、彼の胸へ顔を埋めてただひたすら泣き叫んだ。あられもない大声でみっともなく喚きながら。
それでも、叫びにならない私の声は雅さんに届いてたと思う。


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