化粧
全てを持っていかれたから、ここにいる私は空っぽなんだと思ってた。
でも違った。むしろ空っぽになってたら良かった。
ここには痛みだけが取り残されてた。
ひたすら、ただ、じくじくと。
身動きできない私を蝕んで、腐らせる。
辛くて苦しくて、逃げ出したい。
逃げ出したい。逃げ出したい。逃げ出したい。
逃げ出したいのに
誰か
誰か 新しい腕と新しい脚を下さい。
身動き出来ない私に、逃げるすべを下さい。
「・・・」
部屋の隅にあるそれと睨めっこを始めて、早やどれぐらい経っただろうか。
いつかは通らなきゃいけない道。避けては通れないそれ。一人でガン飛ばしてみたり。
「気が進まないけど、しゃあないよねえ…」
膝上に乗ったままのラビちゃんへ語り掛けてみるも、どうでもよさげに鼻で溜め息を吐かれた。ヲイなんだ!変なところで飼い主に似てんなチクショウ!
「…やりますか」
自分へ言い聞かせて手を伸ばす。
何を隠そう、ここへ来てからずっと放りっぱなしだった私の荷物である。未練がましく片付けを後回しにしていたのだけれど実際そうもいかない。そろそろホコリ被って来た。今にも蜘蛛の巣張りそう。
「開けんのがコワいよー」
何も無くたって土井先生を引きずりまくりの私。荷物を開けたら更に身動き出来なくなる可能性大だ。しかしいいカゲン整理しなければ。
ちなみに家主はラッキョ協同組合の会合があるとかで今朝がた家を出て行った。すぐ戻るとは言ってたけど。
本音じゃこんな時こそ居て欲しいと思うものの、これをする為にわざわざ留守の時を選んだのだ。今の私がこれに手を付けること自体、あの人はきっと良い顔しない。だからさっさと終わらそう。あの人が帰って来る前に。
「ええい、ままよ!」
ヤケになって開けた包みを逆さにひっくり返す。ドサドサと派手な音を立ててホコリが散った。膝上のラビちゃんが驚いたらしくて背を伸ばしてから脱兎する。
食器やら生理帯やらの大きめな物は先に取ってしまったので、出て来た荷物は至極少ない。さあさあ片すぞ、頑張れ私。
「…あれっ」
逆さにひっくり返したから必然、一番上に現れた荷物は普段最も使われない物なわけで。何とはなしにそれを手に取った。
「引っ越しの時に捨てたと思ってた…」
まず使われることのない、化粧道具。
私ぐらいのオバハンは本来毎日使って当然の必需品だけれど、いかんせん面倒臭がりの私は年に数回しかこれを使わない。中を開ければほとんど減ってない紅やら白粉やらがツクモになって祟るぞぐらいに主張してる。
…使ってみようか。たまには。
使われないまま駄目にしちゃっても勿体無いしな。うん、そうだそうしよう。いい気分転換にもなるし。
当初の目的は何処へやら、お片付け出来ない性分を引っ提げて思い立つまま井戸へ向かった。
簡単な化粧を終えてから、脱兎したラビちゃんを迎えに家の周りをぐるりと一周する。
「ラビちゃーん」
おお、居た居た。家の裏で壁に擦り寄るように丸まってる。
「おいでー」
両腕を広げれば足元へ走り寄ってくる可愛いコ。よしよし、いい子だな。びっくりさせてごめんね。オバサン配慮が足りなかったね。
ラビちゃんを抱え上げて家の中へと戻り、再び荷物と向かい合った。
「…さてと」
整理の続きに取り掛かりますか。お次は何だ。見るのもコワいけどやるしかない。
「あ、結紐」
掘り出し物発見。ここに来てからずっと同じ結紐を使っててそろそろ限界だったんだ。替えなんて無いと思ってたからこれはラッキー。良いこともあるもんだな、よっしゃ。
「モゾモゾと何やっとんじゃお前は」
不意に背後から掛けられた声に背筋が伸びる。ざりっ、と地を踏み締める音。ああヤバい、帰って来るまでに終わらせようと思ってたのに家主がご帰還したようだ。ちぇ。
「おかえりなさい」
振り向いて出迎える。と、普段は笑い目の彼が私の顔を見て団栗眼になった。え、何その反応。喧嘩売ってんの?
「私そんなにおてもやん?」
「誰か来たのか」
「来てませーん。私が何も無いのに化粧してたらおかしいですかー?」
「おかしいな」
「ちょ、即答かよ!傷付くだろ!」
「どういう心境の変化だ?」
「べつに。荷物の整理してたら化粧道具出てきたから使ってみた。そんだけ」
ふーん、と相槌を打ちながら家の中へ上がってくる雅さんにラビちゃんをバトンパスした。こうなりゃ開き直り。バレちまったからには一緒に荷物整理手伝ってもらおう。
雅さんの方は最初からそのつもりらしく、当然のように私の隣へ腰を下ろした。おっしゃあ、一人の時より幾分か心強いぞ。隣に雅さんが居てくれればちょっとぐらいメンヘラになってもどうにかなる!…はずだ、うん。
もう出ないと思ってたホコリをさらに舞いたてながら作業続行。当初荷作りした時はまあまあ気が動転してたから、私ときたら傍にあったものを適当に詰め込んだんだろう。要るもの要らないものがぐっちゃぐちゃに混ざってた。心折れそうになりながら一つ一つ地道に選り分けていく。
「ああもう。ガラクタばっか」
ふと、隣から伸びて来た手に頬を撫でられた。突然のことに思わず肩が跳ねる。私ってばいつぞやの雅さんを笑えない。何事かと手を伸ばしている当人へ目を向ければ、感心したようにポロリと一言。
「化けるよなあ」
ラビちゃん片手に私の頬を擦りながら一人ごちる彼。なんだこのヒト、人の顔ばっかり見てて片付けを手伝う気は毛頭無かったらしい。アテになるようでなんないなもう。
「・・・」
「・・・」
何て言葉を返せばいいのか分からず、意味も無く見詰め合ってしまった。変な沈黙。
するり、親指が顎の先をなぞってくる。
あ。この空気はまずい。
掌を拒もうとまでは思わないけど、何となく顔を逸らしてしまった。彼の瞳が心なしかまた熱を帯びたように見えたから。こういう時の雅さんは自分の欲求と葛藤してる時だ。
まあいいや、好きにお触りさせとこう。ほっぺたにセクハラし続ける雅さんを放って荷物整理を続けた。ええと…覚えのないハンカチやら、覚えのある足袋やら。だいぶ減って来たな、あとちょっと…
「・・・ッ!」
私の中の何かを叩くように、視界に飛び込んできた紅色。
「何だ? どうした」
それを、見付けてしまった瞬間
「何でも、ない、」
心臓を掴まれた気になった。
紅団扇の、櫛――
『紅団扇柄があったので、つい買ったんです』
全身が震えて歯の隙間をカチカチと鳴らしてしまう。体温が散らばって身体じゅうに氷を突き刺されたみたいだ。
なんで、これがここに、
「ななし?」
どうして、
『返されたところで、私は櫛なんて使いません』
どうして持ってきてしまったんだろう。
どうして。どうしてだ。私の阿呆。
「あ…っ」
うまく息が吸えない。苦しくて涙が滲んできた。視界がぼやけてくる。
嫌だ。記憶の蓋が、開いてしまう。思考が、感情が、あの人一色に染まってしまう。
『少し、妬きました』
けれど果たして捨てられただろうか、あの時にこれを。
今の私は捨てられるというのか、これを。
私はこれをどうしたらいい。どうしたらいいの。
どうしたら
どう、したら、
「ななし」
分からない。分かりたくない。考えたくない。
『髪型変えられたんですね』
『似合ってます』
『驚きました。その…とても綺麗なので』
嫌だ。開いてしまったら閉め方が分からない。いやだ。くるしい。
体温を逃さないように両腕を抱えても、記憶の氷柱は私を責め立てる。
苦しい。くるしい。助けて。くるしい。
『ななしさんはもともと美人じゃないですか』
たすけて――!
「ななし!」
気付いた時には雅さんへ飛び付いていた。突然しがみ付いた私を抱きとめたせいでラビちゃんが居場所を失う。
呼吸困難で上手く酸素が取り込めない私をあやすように、雅さんは私の背を撫でた。きっと察したんだろう、そこに転がっているそれが、土井先生がくれた物であることに。
記憶に押し潰されて死にそうで、助けを求めるように雅さんの胸へ顔を埋めた。宥めてくる掌が呼吸を落ち着けてくる。急に酸素が気道へ飛び込んできたからむせ返った。
馬鹿みたい。ああ馬鹿みたいだ、何もかも。
少しずつ立ち直れてると思ってたのに。ここへ来てから、違う幸せを見付けられたかもしれないってほんの少しでも感じてたのに。
全部錯覚だった。何も進展してなかった。何も変わっちゃいなかった。あの日あの時あの瞬間、私の中に居たなぞのななしは土井先生との想い出と一緒に道連れにされてしまった。
身動きできない。何処にも行かれない。ここにいる私は死人も同じなんだ。
「ななし」
「雅さん、ごめん」
きっと私はこのさき一生苦しむんだろう。この想い、どうやっても絶ち切れない。土井先生に心を持って行かれたままずっともがいて生きるんだ。滑稽じゃないか。前の見えない闇の底で延々と溺れ続けるなんてさ。
「こんな時に謝る奴がいるか阿呆」
泣きたいのに
涙すらも詰まってしまう。
ああ。
もう、何がどうでもいいや。
「雅さん」
「何」
「抱いてよ」
背に回されていた彼の手が一瞬、震えた。
今の私が死人も同じ、ただの抜け殻だとするなら。自分を可愛がる必要なんてどこにもないし、誰かから大事にされる謂われもない。目の前のこの人が私へ触れたいなら好きにさせてやればいい。投げやりと叱咤されればそれまでのこと。
「ねえ」
我ながら中々名案だ。彼の方は葛藤する必要がなくなるし、私の方も気が紛れていいかもしれない。
「後生だから」
ここまでくれば安っぽい言葉なんていくらでも吐ける。顔を上げれば熱を孕んだ視線がそこで泳いでいたから、細めた瞳でそれを無理矢理に絡めとった。ああそういえば私いま化粧してたんだっけか。
「私、雅さんのモノになる」
眼前の彼はひどく揺らいでる。潤んだ瞳を頼りなく震わせて、長い長い息を吐いた。
理性と本能が葛藤している様子が傍目にもよく分かった。これだけ言葉を並べて誘ってるんだからさっさと手を付けちゃえばいいものを。いったい何とそんなに闘ってるんだろう。あくまで善い人でいたいのか?
「っ、断る」
やっと出て来た彼の声は、ほぼ絞り出したに近い。
「そんな抱き方でワシが喜ぶと思うか」
「雅さんがどうとか知らない。私が抱かれたい」
「お慰みは御免だ」
「お慰みじゃないよ。雅さんだからだよ。雅さんが良いんだよ」
「ふざけろ。人肌恋しいだけのくせして」
「うん。本当はだれでもいい」
「正直に言えとも言っとらんぞワシは」
「じゃあ何て言ったらヤらせてくれんの」
「金を積まれても抱かんな」
「恥かかせるんだ。非道いヒトだね」
「お前に言われちゃ終いだ」
背にあった彼の手が妙にぎこちない動きで私の両肩を掴む。次にグイッと押されて身を離されたかと思えば、彼は自分の袖口で私の顔を荒っぽく拭い出した。手加減無しで擦られてひりひりする。
「とりあえず化粧落として来い。おやま人形に言い寄られるみたいで落ち着かん」
あたたたメチャクチャ痛い! もっと加減してよ。
「おやま人形って…何ソレ褒めちゃってんじゃん」
「やかましい」
私の言動に大変機嫌を損ねたらしい雅さん。化粧を拭き取るどころか半ばグチャグチャにしたところで、おもむろに立ち上がった。
「どこ行くの?」
「晩メシまでには戻る」
振り返りもせず玄関を出て行く彼。どこか落ち着きを取り戻し始めた自分が、たった今やらかした一部始終の失態を頭の隅で警告し始めた。
…私ときたら今、雅さんになんて酷いことをしたんだ。
家から遠ざかる彼の背へ「独りにしないで」とはさすがにもう言えなかった。
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