依存症


この歳にもなれば失恋なんていくつか経験してきたはずなのに。
しつれん、なんて言葉で納められるほど想いの長けは短くなくて。
こんなに誰かを愛した経験がこれまでに無いから。
どうしていいのか、分からなくなる。
前が見えない。何も見えない。何も見たくない。何も見ない。
傍に置いてもらったその日から、目も耳も、指の先まで、全てを彼に捧げるとそう誓った。そう、誓ったから――彼がいなくなったその瞬間に、私の全ては無に化したんだ。手足も瞳も舌も心も全部切り落として、彼は私を捨てたんだ。私の全てを持っていってしまったんだ。

私はここから、身動きできない。




















杭瀬村に越してきてから何日か経った。
雅さんの手伝いで農作業に励む日々。最初は覚えることだらけだったけど、農作業はべつに人生初というわけじゃないからすぐに感覚を思い出した。畑仕事を終えたら一緒にご飯を食べて、たまに近くの川へ洗濯に行って、時々ラビちゃんを散歩に連れて行く平和な日常。
雅さんはいまだ私へ手を付けない。それどころか二式の布団を繋げようともしない。失恋症候群の私に気を遣っているのか、それとも褥の中でまで土井先生を思い出されたくないのか、理由は定かではないけれど。最初は意外に草食系なのかと思った。でもたぶん違う。数多のスキンシップの中で、彼の視線はときどき熱を帯びる。本能に抗うような自制の瞳。そんな時はいつも、ああ我慢させてるな、と少なからず心苦しくなる。だけど私はズルいから毎度気付かないフリをする。
そのたび、彼の優しさに甘えてしまう。

数あるスキンシップの中で雅さんがよくやるのは、頬を摘まんで引っ張ってくること。加減としては少し痛いくらい。そういう時、雅さんは決まって何か言いたげな顔をする。でも言わない。言ってくれない。
だから雅さんが私の頬を摘まんできた時は、何か不満があるんだろうな、と取り敢えず思うだけにしてる。





その日は朝起きてから体調がよろしくなかった。というのも、
「…おなか痛い」
女の厄介ごと、月モノが来たのである。厠を出てからどんよりした気分で家へ戻ると、少し遅れて起床した雅さんが呆けた顔で布団に座ってた。こっちを見てから大あくびを一つ。
「おはよ」
「おう」
「髭剃りの準備出来たら呼んでよ。私ラビちゃんにゴハンあげてくる」
広げたままの自分の布団を畳もうと話しながら布団へ手を伸ばせば、不意に手首を掴まれて雅さんの布団へ引き摺りこまれた。今更だけど、どうやらこの人は口より先に手が出る性分らしい。最初のうちは「予告してよ」と再三注意してたけど今となっちゃもう諦めた。お願いしたところで直す気無いみたいだから。
「何?」
「寝てろ」
「へ?」
私と入れ替わるように掛布団から這い出る雅さん。真意が分からなくて目が点になる。
「具合悪いんだろ?」
驚いた。私、至って普通に振る舞ったつもりなのに。どうしてバレたんだ。
「なんで分かったの」
「顔見りゃ分かる」
ガシガシと後頭部引っ掻きながら何てこと無いような物言い。気遣ってくれて嬉しいやら恥ずかしいやら。ちょっぴり口元が緩む。
「今日は何もせんでいい」
「え、そんなわけにいかないよ。具合悪いったって、女の行事だから毎月のコトだもん。こんなことぐらいでヘバってちゃ農家の嫁は務まらないでしょ」
「女手ひとつが一日なくなったぐらいで、うちの野菜は逃げたりせんわ」
「…ありがとう」
「んー」
「でもせめて自分の布団で寝るよ。失敗して雅さんの布団汚しちゃったら嫌だし」
「べつに構わん」
「やだ。私が構う」
のろのろと雅さんの布団を這い出て、膝歩きで自分の布団へ潜り込む。あー、横になったら少し楽んなった。
生理の時ってなんでこう眠くなるんだろうな。睡眠は充分とったはずなのにまたウトウトしてきた。
雅さんが腰を上げて遠ざかるのを床伝いに聞きながら、欲に負けてあっさり二度寝に入ってしまった。



次に目を開けたのは、鼻先にむず痒い感触が訪れたから。ぼんやり目蓋を持ち上げると何故か目の前にラビちゃんのどアップがある。むず痒かったのはラビちゃんのおヒゲが当たってたかららしい。飛び上がる程じゃないけど息が止まるぐらいにはまあ驚いた。
「こらラビ、起こすな」
すぐ傍でした声に首を捻れば枕元で雅さんが食事してた。朝ご飯?と寝起きの声で訊けば、昼メシ、と淡々とした声が返ってくる。ああそうか、今は昼なのか。
「お前は食うか?」
「ううん、今はいらない。あとで食べるから残しといて」
ああ、とだけ呟いてから再び椀を口へ運ぶ雅さん。布団上でトドのまま、寝ぼけ眼でぼうっと眺める。午前中は一人で畑仕事したんだろうな。このあともするのかな。ご飯食べたら片付けてまた外へ出るんだろうな。
私、午後も寝てていいんだ。楽だなあ。
そう思ったらまた微睡んできた。きっとこの睡眠欲は充足感からくるものかもしれない。胸の内からウトウトする。
土井先生の家に居た時は…いいや、今まではこんなことなかった。どんなにお腹が痛かろうが気分が悪かろうが、忙しく働いて目を回してた。だって常に一人だったから。こんな風に誰かが傍に居て休ませてくれるなんてこと、なかった。でも今は、私が体調こじらせて悲鳴をあげれば雅さんが外から飛んできてくれる。
…感情を無視して客観的に見れば、今の私は人生で一番幸せな時間に納まってるのかもしれない。
優しい旦那様が毎日傍に居て、気遣ってくれるし甘えさせてくれる。それって女としては最良の幸せじゃないか。
もしも私が土井先生を忘れることが出来たら、雅さんだけを見られるようになったら、この幸せは今後ずっと続くんだろうか。
どっちにしろ、あのまま土井先生と結ばれてたとしたら有り得ない境遇での幸せだ。
「・・・」
寝転んだまま掛布団ごと雅さんの元へ這っていく。甲羅を背負った亀みたいな私の動作に、ラビちゃんが隣りでくるくると忙しなく反応した。
「お?」
頭を雅さんの膝へ載せれば、茶碗越しの雅さんと目が合った。やや驚いた顔で見下ろされる。
「なんだ珍しい」
「甘えてみた」
正直に伝えたってのに彼は無反応。好きにしろと言わんばかりに変わらずご飯をつつき出す。まあいっか、リアクションが欲しかったわけじゃないし。
付き合ってから知ったことだけど雅さんはびっくりするぐらい恋人に優しい。知り合った当初は、たぶん亭主関白な人なんだろうと自分の中で勝手に決めつけてた。『何においても"ど根性"の一点張りで厳しい先生なんですよ』って、きり丸から聞かされてたその印象がだいぶ強かったから。口を開けば豪快だし。
だけどいざ付き合ってみれば、きり丸の発言を疑いたくなるほどに彼は尽くし型だった。本当、人って見掛けに寄らないよなあ。ちょうど鬼蜘蛛丸さんと正反対だ。
ふと雅さんが茶碗を置いた。湯呑にでも持ち替えるのかと思っていたら、寝転んだままの私の首を触って「冷てっ」と声をあげる。
「なんだお前、やたら冷たいな。布団もう一枚持って来るか」
「んーん、いらない。月モノん時はいつもこうだよ。冷え症なだけ」
本当はもう一枚あったら有り難いけど膝枕を逃したくなくてちょっと嘘を吐いた。今更冷たい布団をもう一枚掛けられるよりは膝枕の方があったかいし。
「私、なんで雅さんに惚れなかったんだろ…」
口にするつもりは無かったけど、気付いた時にはポロッと本音が漏れた。彼は束のま私を見詰めたあと急に怪訝な顔をして、
 ぶにっ
といつもの如く頬を摘まんで引っ張ってきた。あ、これは何か不満だったらしい。でも仕方ないじゃんか、思ったことが口からつい漏れちゃったんだもん。不慮の事故、放送事故。許して。
だって本気でそう思ったんだ。こんなイイヒトが傍に居たのに好きにならなかったなんて私の目は節穴だ。感情を抜きにしてハタ目から見た時、雅さんは年の功だけあって土井先生よりずっと大人なのに。包容力が比較にならないのに。
それでもいまだに土井先生を好きで、あの人を忘れられないでいる私は、もう節穴を通り越して風穴なんだと思う。
「なんかさあ」
「ん」
「戸惑う」
「何が」
「誰かからこんなに女のコ扱いされたことって無い」
私は至極真面目に話したのに雅さんは可笑しかったらしい、噴き出して笑われた。え、失礼じゃね? 人が真剣に自分語りしてるとこ笑うなや。
「なんか雅さんと居るとどんどん駄目な女になってく気ぃする。いやもともと駄目女ではあったんだけどさあ…」
「どう駄目なんじゃ」
「なんかこう、自立出来ないっていうか…涙腺が輪を掛けて弱くなった気ぃするし…年増の癖してただの女のコへ経ち返るみたいな」
「そりゃ願ったりだな」
「無性に甘えたくなんだよね。現に甘え過ぎてる」
「ワシは全然足りんけどなあ」
「女殺しィ」
「そう思うんなら早よ殺されてくれ」
鼻で笑って小突かれた。痛い。
「ねえ雅さん厠行きたい」
「行けばいいだろ」
「お腹痛くて動けない。連れてって」
「ついに介護までさせる気か」
「甘えてんのー」
回復したら礼貰うからな、なんてぶつくさ言いながら抱え起こしてくれる彼はやっぱり優しい。
自意識過剰だけれど、女の立場としては愛されてるような気になってくるってもんだ。


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