記憶の海
ぼんやりと目蓋を開けて、覚めきらない頭で周りを見渡してみる。ここは、ええと…ああそうか、雅さんの家だ。っていうかアレッ?
「雅さん?」
彼の姿が見当たらない。上半身を起こして視線をぐるりと一周させる。どこ行っちゃったんだろ。そもそも今何時?
「…布団?」
よく見れば私は布団の中に居た。あれれいつの間にこんな状況に? 私は確か雅さんの膝枕で寝落ちたハズだけど。雅さんが敷いてくれたんかな。
不意に腹の辺りでもぞもぞと何かが蠢いた。突然の感触に声も出せないまま驚いてたら、掛け布団の下からラビちゃんが頭だけ出して、起き抜けの顔であくびし始めた。
「ラビちゃん!? うおおびっくりしたぁ」
いつからそこに居たの君。通りであったかいはずだよ。ってか潰さなくて良かった。
「おお、やっと起きたか寝坊助」
背後から聞こえた声に振り向けば、髪を解いた寝間着姿の雅さんが玄関から上がってくるところだった。ラビちゃんそっくりのあくびを見せながら傍まで歩いてくる。
「どこ行ってたの。起きたら居ないから寂しかったじゃん」
「厠」
「あ、そう。今何刻?」
「何刻も何も…朝だっつの」
「へっ!?」
思わず間抜けな声が飛び出した。寝付いたのはお昼ご飯を食べたあとだったのに、まさかまさかでそのまま日付を跨いでしまったというのか。私ときたらどんだけ爆睡してんだ。アリエナイ。
「よく寝てたなあ。心配して損したわ」
笑いながら当然のように板敷へ座る彼。明け方のそんなところへ座ったら冷たいんじゃなかろうか。あっ、つーか、
「コレひょっとして雅さんの布団?」
私が占領しちゃったのか、もしかして。雅さんからしたら寝るところが無かったのかもしれない。一人暮らしのこの家に布団が二式あるわけないもんな。私ってばお世話になる身のくせしてどうして今までそこに気付かなかったんだ、最低。
「ああ、まあ。いつまで経っても起きんから勝手に敷いた」
「やだ、起こしてくれて良かったのに。雅さんてば板敷の上で寝たの? 寒かったでしょ」
「要らん気を回してるようだから言わせてもらうがワシは忍者だぞ。布団なんぞ無くたってどこでも寝られる」
「やっさしー」
「朝メシ食うかラビちゃん」
「ちょ、せっかく褒めてんだから聞いてよ」
「お前はどうする?」
「んー…私はいいや。食欲無い」
「ったってお前、昨日からろくに食ってないだろ」
「動かないからお腹空かないんだもん。大丈夫、放っとけばそのうちまた腹減ったって騒ぎ出すから」
「あっそ」
雅さんは腰を上げると再び外へ向かった。私の方も伸びをしてから、あくびを一つ。会話してるうちにだいぶ目が覚めたかも。
布団から抜け出して膝立ちのまま掛布団を捲り上げる。布団の上で丸まったままのラビちゃんがぶるりと身を震わせた。私よりこの子の方が寝坊助かもな。起きろー朝ですよー。
観念したラビちゃんがのろのろ退散したあとの布団を畳んでいれば、雅さんが大根の切れ端を持って戻って来た。ラビちゃんの今日の朝ご飯はそれですか。
「私もちょっと厠行ってくるー」
「んー」
生返事する雅さんの隣を通って外へ出た。空にはすっかり朝日が昇っていて、室内に籠もりきりの目には若干痛いぐらいだった。本当だ、私ときたらエライ寝坊助だったなこりゃ。
厠で用を足したあと、顔でも洗おうと井戸へ向かえば、行動の早い雅さんがいつも通りの格好でそこに立っていた。なんだか難しい顔で桶に張った水と睨めっこしている。
「どしたの」
「うああ話かけんな」
気が散ったと言わんばかりの情けない声が返ってきた。よく見れば彼の手には剃刀がある。
「あー切れた…」
ボソッと独り言を呟いて顎を擦る彼。どうやら髭剃りの最中だったらしい。
「ウソ。話し掛けてゴメン」
「いや…」
はあ、と溜め息を吐きながら剃刀を桶の中へ突っ込んで洗い出す。…もしやもしや、ひょっとして。
「雅さん、髭剃り苦手なの?」
一瞬、梅干しを食ったような顔をされた。ああバツが悪いんだなこの顔は。余裕のある年上なイメージしか無かったけど、なんだかちょっと可愛いく見えてきたじゃないか。
誰かさんが練り物嫌いなのとおんなじで。
「細かい作業が嫌いなんだワシは」
「剃ってあげよっか?」
「え!?」
途端、目を爛々に輝かせてこっちを見るもんだから噴き出してしまった。こんな雅さん初めて見た。なかなか新しいんですけど!
「可愛いなあもう」
「あ!? お前いまちょっと馬鹿にしたな!?」
「してないしてない。はい、剃刀貸してー」
不貞腐れながらもあっさりと剃刀を渡してくるからまた笑えてしまう。だけどここで笑ったら余計に機嫌を損ねるから黙っておこう。
とはいっても私だって慣れてる方じゃないから、真剣にやらなきゃ手元が狂ってしまう。集中しなければ。
少し上向きの雅さんの顎へ向かって刃を向けた。チョリチョリと小さな音を立てながら髭を剃り落としていく。
「・・・」
「・・・」
喋れば切れてしまうので、当然だけれど暫しの沈黙が訪れる。この人、本当に私のことを信頼してくれてるんだろうなあ。もし私が敵方のくノ一だったら、このままあっさり咽喉元かっ斬って殺せそうだ。
『朝ご飯私が作るんで、先生は髭剃りでもどうぞ』
『はあ…でも…』
『剃ってあげましょうか』
そういえば土井先生の家へ最初訪れた時もこんなやり取りあったな。結局あの人は最後まで私に何もさせてくれなかったけど。こんな風に…雅さんみたいに心を開いてくれること、無かった。やっぱり私はあの人にとって最初から必要無い存在だったんだろう。そうやって考えたら片想いしてたこれまでの日々が馬鹿馬鹿しく思えてくる。淋しさや哀しさより虚しさの方が先に立って、また気分が沈んできた。
不意に雅さんが剃刀を持っている私の手を掴んだ。意識を引き戻されて目をパチクリさせれば、さっきよりもムスッとした顔で見下ろされる。
「人のツラ見ながら他の男を思い出すってのは、どーゆー了見?」
ああいけない、まるっとバレてる。雑なようで勘が良いんだからこの人はもう。
「ごめんなさーい」
「いいかげん泣くぞワシも」
「まだ途中だから放してよ。説教なら終わってから聞くから」
「・・・」
「次はちゃんと集中します」
しぶしぶ手を放されたので作業を続ける。思ってた以上に妬きやすいんだなこの人。知らなかった。
「・・・」
再び沈黙。私達の間には髭剃りの音だけ。
こうやって至近距離で向かい合わせて顔をまじまじ見る機会、そうあるもんじゃない。こうして見れば雅さんはやっぱり男前だ。普段はその豪快さに紛れて意識すること無いけれど、男らしい顔つきの中に人懐こい犬歯が特徴的で、素直に格好良いと思う。私なんかにゃもったいないよなあ。私なんかがイイだなんて、この人すんごく損してる。
「はい終わりー。イイ男になりましたー」
「おう。ありがとう」
顎元を水でパシャパシャ洗い流す。雅さんが退いたら私も顔洗わなきゃ。…おや?
「あ、待って雅さん。剃り残し発見」
まだ髭が残ってた。何の気なしにその部分へ手を伸ばして撫でてみたら、指先が触れた瞬間、
び く り
と、雅さんの肩が面白いぐらいに跳ねたので逆にこっちが驚いた。
「え?」
何だ今の。
「・・・っ」
私に視線を向ける雅さんの顔は心なしか赤い。何ともいえない間抜けな表情。突然触られたから決まり悪いというよりは、肩が跳ねたのを目撃されたから決まり悪いという感じの。
「…雅さんてば今ひょっとして意識した?」
カ、と赤みが一気に増したからこれは図星なんだろう。え、え、うそ、何ソレ。雅さん可愛すぎ。乙女な反応し過ぎ! うわははは新鮮!
「わ〜意識したんだ意識しちゃったんだ〜」
「お前な…」
「うひゃひゃ、テレてるテレてる」
「お前が意識しな過ぎなん、」
「テレ隠しテレ隠しー!」
「ワシを親切なオッサンぐらいにしか思っとらんだろ」
「すねてるー! かーわーうぃーうぃー!」
調子こいてたらグイと後ろ髪を引っ張られた。上を向いた瞬間、痛いと思う間もなく唇を塞がれて呼吸困難になる。まさかそう来るとは思ってなかったので今度は私の方が顔面沸騰した。不意打ちに対して不意打ちで仕返しされた感じだ。
唇を離されて酸素を吸い込む頃には、借りてきた猫みたいに大人しくなるしかなかった。
「意識した?」
「はい。図に乗ってましたすいません」
やっぱ彼の方が私より何枚もウワテだった。本気で反省しましたすいません。
「さすがにもう寝ないか」
家の中へ戻るなりそんなことを言い出す彼にどういう表情をすればいいのか分からなかった。だからありのままの表情を向けてしまった。
「私って雅さんの中でそんなに寝坊助?」
「いや、そうじゃない…」
ウーンと腕組みをして唸る雅さんに疑問の視線を投げたら、町へお前の布団を買いに行こうと思うんだが、と一言だけ返された。ああそうか、私を連れて町へ行くことに躊躇ってるんだ。昨日の今日だから私が町へ行くのは忍びないだろうって、気を遣ってくれてるに違いない。
現に私も今町へ行けと言われたらあまり気が進まない。杭瀬村に居る間でさえこれだけ想い出の波に捕らわれてるのに、町へ戻ったらきっと記憶の海に溺れてしまう。そこから身動き出来なくなる。
「何か仕事ちょーだい。そしたら私、留守番してる」
「とは言っても…お前、農作業の経験は?」
「…孤児院に居た頃、手伝いでチョコチョコやってたぐらいかなあ。でも何年も前だからほとんど忘れた」
「じゃろうな」
「教えてくれればやるけど…すぐに覚えられるようなもんじゃないよねえ?」
「んん…」
「家の掃除…っても雅さんちキレイだしな。あ、洗濯物は? さっき着てた寝間着とか褌とか、何かあれば洗ってくるよ」
「ああ、なら頼む。こっから東の方に川があるぞ」
「はーい」
「一人だからって身投げするなよ?」
「自信無いからラビちゃん連れてってもいい?」
「自信無いんかい」
苦笑しながら、頼んだぞラビ、なんてラビちゃんの背を撫でる雅さんにこっちが苦笑してしまった。
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