新居


部屋の中で一人、壁に寄り掛かったまま膝上のラビちゃんと戯れた。戯れたといっても丸まってる背を撫でる程度だけど。掌があったかくて気持ち良い。
「お前はイイコだねえ」
ラビちゃんに会うのも随分と久し振り。このコは昔から…私が杭瀬村に初めて来たときから人懐こかった。眠たいのか、私に撫でられながらウトウトと瞼を閉じかけている。兎なのに猫みたいな仕種。

あのあと結局、店は閉めた。これからここで暮らすために。
急遽売りに出したところで買い手なんか見付からないだろうから、土倉の抜天坊あたりにタダで譲って好きにしろって言おうかと思ったんだけど、何の御縁か店の外で細々と片付けをしていたところ土井先生んちの大家さんにばったり出くわした。大家さんに事情を話したら「ななしさんにはときどきお茶を御馳走になったしね」と言って快く買い取ってくれた。めちゃくちゃ安値だったけど。
「ここは静かで落ち着くねえ、ラビちゃん」
町家とは違う、閑静な一軒家。久し振りに訪れた雅さんの家は相変わらず小ざっぱりしてて生活感が無かった。辿り着いてから荷物を置いて、包みを開けることもせず壁に凭れて一休みしてると、どこから現れたかラビちゃんが膝上へ飛び乗って来た。かくして今に至る。
雅さんは外で畑仕事の最中だ。帰宅してから部屋へ上がることもせずに踵を返したもんだから手伝おうかと声を掛けたのだけど、私の顔を見て「寝不足の奴は足手まといだから寝てろ」と笑って出て行った。
「寝てろって言われてもねえ…」
ふすー、と無防備な寝息を立てつつ寝に入るラビちゃん。幸せそうな寝顔が羨ましい。
そりゃあ昨日は眠れなかったし、その前だって飲み会でろくな睡眠を取れてない。だけど寝てろと言われたところで簡単に寝付けやしない。たとえ足手まといでも畑仕事を手伝う方が今の私には良いのにな。何かしてた方が気が紛れる。
正直、今はあんまり一人になりたくなかった。一人になるといろんなことを思い返してしまうから。寝付く余地もないぐらいに。
私ときたらずいぶん寂しがり屋になったもんだ。
ラビちゃんが寝息の隙間で鼻を鳴らす。ふすふす、って変わった音。鼻の通りが悪いのか、単なる個性なのか。まあ可愛いから良し。きっといつもは私じゃなくて雅さんにこうされてるんだろう。あんなイイヒト捉まえて幸せ者だね、君は。
『ななしさんが居なくなったら、半助の部屋はまた空き部屋になってしまうなあ』
ふと去り際に大家さんが呟いた独り言を思い出した。大家さんは、どことなく寂しそうだった。私の泣き腫らした顔を見て気を遣ってくれたのか、出て行く理由に対しては何も訊ねてこなかった。あれは大家さんなりの優しさだったんだろう。今にして思えば挨拶だけでちゃんとしたお礼を言えなかったな。お世話になったのは私の方なのに。ああそういえば隣のおばちゃんにはお礼どころか挨拶も出来なかった。あれだけお世話になったのに。よそ者の私にいつも良くしてくれたのに。先生の居ない家で一人暮らししてた私にとって、世代は違えど良き茶飲み友達だった。店で余った料理をお裾分けすると、いつも笑いながら「ななしちゃんの料理は美味しくてウチでとっても評判良いのよ。みんなまた喜ぶわ。ありがとう」って、今度は自分の処のおかずを私にお裾分けしてくれて。私にとってはおばちゃんの料理の方が何倍も美味しかったんだ。母の味ってきっとこんなかな、なんて、母親がどういうもんか私はよく知らないけど何となくそう思った。何の挨拶も無く出て来ちゃったけど今ごろ不躾な女だと思ってるだろうか。
「・・・」
今さら何をどんなに後悔したところで時間は巻き戻らないし、あの家にはもう帰れない。
世の中、なんでも一期一会だ。
大家さんにも。
隣りのおばちゃんにも。
…土井先生にも。
二度と、会わない。
この先、何十年――死ぬまで、口を利くことも無い、顔を見ることも無い。
あそこでの生活が、日常が、今の私から切り離されたように別世界の話になっていく。まるで何もかも嘘だったみたいに。夢を見てたみたいに。
何もかもが"ただの過去"へと変わっていく。
『あなたの想いに対する答えを考える時間です。私があなたを知るのに、時間が欲しいんです』
『出てってください』
ぜんぶ全部、過去の出来事。それでいいんだと頭では分かってる。だけど心の隅っこの方に、どうしても過去の出来事として受け入れられない自分が居る。過去として割り切りたくない、どんなに小さな御縁でも土井先生とどこかで未だ繋がっていたい自分が居る。

それはまだ、私が土井先生を好きだから。

この気持ちがうまく消化できない限り私はきっと右にも左にも行かれない。どうにかしたい。苦しくて死にそう。
典型的な失恋症候群だ。絵に描いたような症状で、なんだか自分で笑えてきた。
 ―ぐぅぅぅ―
途端、場違いにも腹の虫が喚いた。ラビちゃんが耳を立てて瞼を開ける。お腹の音で起こしちゃうとか不可抗力だよね?ごめん許して。
「…お腹空いたね」
そういえば午前いっぱい店の片付けに費やしたから、なんだかんだで今日はまだ何も食べてないや。雅さんはお腹空かないのかな。私の店へ来る前に何か摘まんできたのかし。
ラビちゃんを両腕で抱えてのろのろと外へ出れば、雅さんはすぐ傍の畑に居た。
「お腹空いたよ大木センセェ」
「何だお前、寝てなかったのか」
「眠気より食い気」
「あっそ」
「食材の場所教えてよ。そしたら自分で作るから。ってか雅さんも食べる?」
「食う」
作業を一休みして畑から上がって来ると、私の横へ並ぶ彼。
「食ったら寝るか?」
「何? やたら寝かし付けたがるな。寝てられた方がいいとか、私ってばどんだけ子供扱いされてんだコレ」
「しんべヱぐらいには思ってる」
「ええ確かに食欲しかないですよ私は!」
「家の裏手に野菜桶があるぞ」
「相変わらず人の話聞かねーな」
「米は玄関入ってすぐのところに、」
「ああ、あったね。そういえば」
頭上で飛び交う私達の会話に、腕の中のラビちゃんが顔をくるくるさせる。興味津々に察知するあたり、ひょっとしてラビちゃんもお腹空いてたのかな。気付かなくてごめんよ。
水を汲もうと井戸へ向かう雅さんの背に、何となく問い掛けた。
「雅さんさぁ」
「んー」
「食べたらまた畑仕事するー?」
「ああ、まあ。やりかけだし。なんで?」
「…べつにー」
「まさか一人で眠れないとかそんなオチか。しんべヱを上回るのか」
「うん。眠れない」
私は本気だったけど彼は冗談のつもりだったんだろう、少し驚いたような表情で振り向かれてから苦笑された。
「私、今日ばっかりは雅さん居ないと駄目だ。一人になるなら起きてる方がいい。雅さん居ないと寂しくて死ぬ」
「お前がラビみたいなこと言い出すと気色悪い」
「ああ!? 人が珍しく甘えたってのに! もう二度と甘えてやんねえ!」
へいへい、なんて気の無い返事をしながら水を汲み上げる彼に頬を膨らませるしかない。くそう、男はショセン釣った魚に餌をやらない生き物なんだ。どうせ私の存在なんて畑のラッキョ以下なんだ。今からラビちゃんと浮気してやる!



そんなこんなで雅さんが汲んでくれた水を使って料理開始。私が料理してる間、雅さんはやり掛けの畑仕事をキリのいいところまで進めた。
料理が終わるころ外へ呼びに行き、彼が戻って来るまでの間に食器を並べる。私の食器は包みの中なので、そこでようやく運んできた荷物を開いた。今この場で整理する気までは起きないけれど。
先にラビちゃんへ人参を与えれば、待ってましたと言わんばかりに齧りつかれる。思えばラビちゃんだけ先にご飯にしても良かったんだよね、生野菜だから。気が回らなくてごめんね。もう思考力の低下が著し過ぎて凹んできた。
雅さんは家の中へ戻ってくると囲炉裏を挟んで私の向かいへ座る。心なしか落ち着かない様子で。
「どしたの」
「いや…。よく考えたらお前の料理食うの久々だろ」
「何ソレ。案外、新婚亭主みたいなこと言うのね」
「現にそうだろうが」
「残念、私はさっきラビちゃんと浮気すると決めたんですー」
「いただきます」
「聞けや」
人の話も半ばに箸を取る雅さん。私も倣って自分の食事にありつく。あったかいゴハンが身体の内から沁みるみたい。やっとお腹が落ち着いた。
雅さんは何も言わないけれど口の中へ掻っ込むようにたいらげてるから、どうやら不味くは無いんだろう。簡単だからって適当に作った煮物だったけど、口に合って良かった。
『練り物だけはどうにも駄目なんですよ。ななしさんの料理は凄く美味しいんですけどね』
…ああいけない。誰かさんとの記憶がまた断片的にフラッシュバックする。私ときたらどこまで未練がましい女なんだ。
何をどんなに丹精込めて作ったところで、もうあの人の口へ入りはしないのに。
「・・・」
美味しくない。というか味気無い。今となっては自分の料理の味もよく分からない。味気無いのが料理なのかこの現実なのかすら、もはや判別が付かない。
さっきまであんなにお腹が空いてたのに急激に食欲がなくなってしまった。まだ二、三口しか食べてないけどもうお腹いっぱい。椀と箸をその場に置いて溜め息を吐いた。
椀の中に残っている大半のおかずを見詰めながらぼんやりしてしまう。もったいないことしたな。この料理だっていつもならとびきり美味しく感じただろうに。だって雅さんが作った食材だもの、本来なら美味しくないはずがないんだ。
「ごちそうさま」
正面から飛んできた声に意識を戻す。視線をやれば彼の椀には米粒一つ見当たらない。あっという間に完食してくれたようだ。
「お粗末様でした。お茶でもいれよっか?」
腰を上げて雅さんの傍へ歩み寄り、彼の前から食器を下げようと手を伸ばした。
ら、本日二度目の状況が訪れた。
「わぶっ」
また手首を引っ張られて彼の胸へ追突してしまう。だから急にされると痛いって言ってんじゃん!学べよ馬鹿!
「何?」
「一人じゃ眠れないんだろ?」
え?と思う間もなく、頭へ伸びて来た手が私を太腿へ寝かし付けてくる。どうやら膝を貸してくれるらしい。
午後も畑仕事だったんじゃないの、という言葉が出掛かったけれど呑み込んだ。それを言って気変わりされても困る。雅さんはたぶん、今日このまま私に付き合ってくれる気なんだろう。
「雅さんてばツンデレ名人2世〜」
笑って見上げれば、なんじゃそりゃ、とでも言いたげな苦笑を降らされた。だけど正直そう思ったんだもん。
「阿呆なこと言っとらんで寝ろ」
今度は両目に掌が降ってくる。
視界を遮られて真っ暗闇になったけど、今は怖くも寂しくもない。雅さんの掌や膝は温かくて私に安心感を与えてくれる。一緒に居るぞと体温で語るように、私を落ち着かせてくれる。
それから何より、
「寝てる間ぐらいは忘れろ」
彼の声は、ひどく優しかったから。
温もりに揺られるようにして私は、久方ぶりの深い眠りにあっさりと落ちてしまった。


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