転機


一瞬、開いた口が塞がらなかった。どうして彼がここに?と思ったけど、よくよく考えればここは定食屋だ。誰がいつ来店しても可笑しくはない。雅さんがふらりと立ち寄った食事処の経営者がたまたま私だっただけ。そう、ただそれだけ。私と雅さんが初めて出会った時みたいに。
だとすれば私がこの状況で取るべき行動は一つ。彼に私の現状を気取られないよう、自然に振る舞うしかないだろう。
寝不足で回転の遅い思考がそう結論付けた頃には、いつの間にか彼の方が客椅子へ腰掛けていた。
「何? 雅さんてばこんな朝っぱらから町の定食屋に来るなんて珍しいじゃん。どしたの」
「は?」
背負っていた籠をテーブルの上へ断りもなく置き放ってから怪訝な顔を向けられる。え?なんで?私の今の質問、何か可笑しかった? 自然に振る舞ったつもりだけど、どっか変だった?? っていうか久し振りに見せる一発目の表情がそれかよ。ヒトのこと言えないけど。
「ワシはここがお前の店だって聞いたから、杭瀬村からわざわざやって来た」
偶然じゃなく確信犯だったらしい。私の完全なる思い違いだった。ああもう何だよ、相変わらずの大胆振り! 調子狂うなあ。
「あ、そう。んで何用? 朝ゴハン?」
「いや、商売の話だ。またウチのラッキョを店で使ってくれんかと思ってな」
ああなるほど、それで籠いっぱいにラッキョを背負って来たのか。
「んー…」
はて困った。商売する側としては正直ありがたい申し出だ。雅さんのラッキョは客受けが良いから。
しかしまあ私の現状からして一つ返事は出来ない。何せ今は住居も決まってないわけだから、今後自分が何処へ身を置くか分からない。ひいてはこのさき店を続けていかれるかも怪しい。店を続けられるとしたらそりゃ取引したいけど、今の時点では何とも言えないなあ。
「…まあいいや」
思考力の乏しい頭が考えることを放棄した。腹が減ってはなんとやら。とりあえず朝ゴハンがわりに何かお腹へ入れたい。
「食べながら話そう。雅さんは朝ゴハンもう食べた? 簡単なものでいいなら何か作るけど、」
調理台へ向かおうと踵を返したところで不意に左手首を掴まれた。何をするんだと思う間もなく、気付いた時には腰掛けたままの雅さんの胸へ飛び来む形になっていた。
「痛っだぁ! 無理に引っ張んないでよ!」
疲労困憊の身体はろくに受け身も取ってくれない。顔面から雅さんの胸へ飛び込んだせいで鼻先強打してしまう。鼻モげるかと思ったじゃんよ馬鹿あぁ!
抱き寄せられたまま恨みがましく顔を上げれば、片手で顎を掴まれた。まるで私の視線を固定するみたいに。
「まずワシの質問に答えろ」
至近距離で言葉を降らせてくる彼。ヲイ何だコレ。何なんだこの状況。どうしてこうなった。想定してたよりだいぶ近いぞ。先日の鬼蜘蛛丸さん並み。
「はい?」
「お前の方こそ、なんでこんな朝っぱらから店に居る?」
ぎくり。痛いところを突かれて言葉に詰まる。今の冴えない脳味噌じゃウマい言い訳も出てきやしない。
「ワシはこの時間ならお前がまだ出勤してないと思ったから、わざわざこの時間を選んで来た。ラッキョと一緒に書き置きだけ残して帰るつもりだった。だけどなんでこんな早くからお前が店に居るんだ。ここで何してる」
「あ、と…」
真っ直ぐ見下ろしてくる雅さんの瞳が、私に問い質してくる前から実はもう全部知ってるんじゃないかと疑いたくなるほどに揺るぎない色をしてて、なんだか無性に居心地が悪くなった。顔を背けようにもガッチリと顎を掴んでいる彼の手がそれを許してくれない。
「徹夜の仕込があって、さぁ…」
「じゃあコレは何だ」
顎にあった親指でまぶたを撫でられた瞬間、ぴりりとした痛みが走った。声にならない悲鳴があがる。
自分じゃ気付かなかったけど、私ときたら今相当に泣き腫らした顔してるみたいだ。
「いや、ぁ、たまねぎが…」
「阿呆か。子供より嘘が下手くそだな」
「嘘じゃない!」
「土井先生と何があった」
人の話を聞いてないというよりは、たぶん初めから聞く気がない。彼は核心しか突いてこない。瞬きもせず見詰めてくるそれが何もかも見透かしてるようで、私の方はうろうろと所在無げに視線を泳がせた。返すに何かいい言葉は無いもんか。
「追い出されたか」
びくり、思わず肩が跳ねる。いやだ、カマ掛けないでくれよ。私が顔に出やすいの知ってるくせに。
「図星だな」
ここでようやく手を放されて首が自由になった。結局質問に対してまともな解答も出来ないうちに、雅さんの中で答えが見付かってしまったようだ。ううう情けない。
「不器用だなあ、あの人も…」
放した手で後頭部を掻きながらぼんやりと呟く。雅さんの言わんとすることはよく分からないけど、今のはたぶん独り言だ。私に向けられた言葉じゃない。
何となく、居た堪れなくて下を向いた。だって雅さんが次に言うコトバなんて分かってる。
それでもこの腕を振り解く気になれないのは、この胸から離れようと思えないのは、私が弱くてズルイからだ。
「ななし」
今の私にとってそれはただの好都合でしかない。
「ワシんところへ来い」
無意識に彼の服を握り返した。予期していたはずなのに、いざ言葉にされると胸の奥が締まる。どん底で感傷的になっている今の私にとって、怠惰で醜行な魅惑の誘い。楽に用意された逃げ道。できればこのまま甘えてしまいたい、けど、
「…それは駄目でしょ」
私の中の微かなモラルがそれを許さない。このあいだ散々雅さんに風当たり強くしてたくせして今になって甘えるなんて卑怯千万だ。私の中で雅さんをそこまで"都合の良い男"にしたくない。何より失礼だし。
「アホ、お前に拒否権なんぞ無い」
「は?」
「嫌だと言うなら無理矢理さらってくぞ。こんな機会を前に手ぶらで帰れるほどワシは物分かり良くないからな」
「…うわあ。すげえ殺し文句」
「心にもない相槌しよって」
ぷつり、ぷつりと。ここで一人昨日から張り詰めていた緊張の糸が切れていく。切れていくというか、彼に切られていく。
「お前の気持ちだのケジメだのワシは知らん。そんなもん、どうでもいい」
雅さんはやっぱり大人で。私よりずっと人生の先輩で。
私の考えなんて全部お見通しなんだ。どういう言葉を吐いたら私が甘えやすくなるのかもよく分かってる。
「…それじゃただの都合良い男に成り下がっちゃうじゃん」
「今更だろう」
「失恋の弱みにつけこむたぁなかなか姑息だねえ」
「ワシに弱みを見せたお前が悪い」
「ですよねー。すいません」
これから一人きりの生活に逆戻りしなきゃいけないんだと、寂しくて裂けそうだと、夜通し泣いて覚悟したばかりだけど。
明け方の寒さを痛感したばかりの身体に雅さんの体温は暖か過ぎて。
泣き腫らした目で不覚にもまた泣きそうになる。
「忘れられてるが先にツバ付けたのはワシの方だしな」
抱えてくる腕にいっそう力をこめてから、雅さんは私の背を優しく撫でた。
失恋の辛さをこの場で表に出したつもりは無いのに、それがまるであやしてくるような手付きだったものだから。
私にとって彼を拒む理由が見当たらない。
「今からはワシのモンだ」
つまるところ私はズルくて流されやすい、惨めな女なんだ。場当たりな言葉でも簡単に落ちてしまう。
「…私、自分の荷物あるから。籠は持って帰って」

杭瀬村へ移り住むのにあっさりと店を手放す私を、果たしてきり丸はまだ自分の姉と呼んでくれるだろうか。


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