決別


「…え」
長い長い沈黙が下りる。
彼は今、私になんて言ったの? 聞き間違いじゃなければ私に出てけと言った。出てってください、って。今そう言った。
突然のことで思考が追い付かない。現状を理解出来ない。いいや本当は頭で理解してるけど、気持ちが受け入れを拒んでる。
どうか聞き間違いであってくれ。
「せ、んせい?」
「・・・」
絞り出た声は震えていたかもしれない。けど今はそんなことすら判別できない。この空気を飲み下すのに精一杯だ。息苦しくて目眩がしてきた。
彼は長らく無言だったけれど、もう一度息を吸い込んで一音一音噛みしめるように呟いた。私以上に酷く小さな、震える声で。
「出て行って、ください」
聞き間違いじゃ…なかった。
「わ、たし、」
声どころか唇から指先まで全身に震えが起こる。まるで糸が切れたように私の中で何かが音を立てた。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。そんなの嫌だ。
「私、本当に反省してるんです。本当なんです。先生に何か他の失礼があったなら今からでも原因を考えます。お酒だって呑むなとおっしゃるなら二度と呑みません。だから、そんなたった一つのことで、」
堰を切ったように言葉が流れ出てくる。情けなくも必死で食い下がった。このさいプライドなんていらない。
「違います」
「違う? だったら教えて下さい。私、何でもしますから。水軍へ足を運ぶなとおっしゃるなら二度と伺いません。先生が何処へも行くなとおっしゃるなら何処へも出ませんし、誰にも会うなとおっしゃるなら会いません。ここで家事だけしますから、小間使いだけこなしますから、だから、」
体裁も資産も自由も無くていい、先生に捨てられずに済むのなら他の何だって切り捨ててやる。先生がいれば何もいらない。
だからどうか、
どうか、出て行けなんて言わないで。
私の居場所を失くさないで。
「お願いですから」
「そうじゃ、なくて」
「私自身に許せない部分が少しでもおありなら遠慮なくおっしゃってください。私、直します。頑張って直してみせます。もしも先生が今までの積み重ねでそれをおっしゃってるのなら、私、これから欠点の無い女になってみせます」
「・・・ッ」
「だからどうか、」
「あなたがいなければ…っ!」
咄嗟に先生が声を張り上げる。静かな空気を裂いて空間そのものが振動した気がした。
「あなたがいなければ、こんなに頭を悩ますこともなくなる」
彼の言葉が、私の鼓膜を突き刺して、脳天を叩いて落ちる。
「あなたがいなければ、ここまで胃を痛めることだって無い」
視界から、色が消えていく。まるで体内から死に水に浸かるように底冷えした。
「最初から、あなたが現れなければ…」
最後まで私に顔を見せない彼の声は、空気に霞んで消えた。かわりに小さな吐息が聞こえて。
先生は今、泣いてるらしかった。
ああ、これは本当に駄目だ。きっとこのさき何一つまともに会話出来やしない。最低だ。

私は彼にとって、最初から居ない方が良かった存在なのだ。

私を受け入れてもらえる隙などもう何処にも有りはしないのだろう。
「…分かりました」
次の瞬間に自分の口から出て来た言葉は信じられないほど淡々としていた。まるで自分の声じゃないみたいだ。
「これまで、お世話になりました」
立ち上がって先生の横を通り過ぎ、部屋の奥で私物の荷作りをする。今行動しているのは紛れもない自分自身なのに、頭の隅でもう一人の自分がぼんやりとそれを眺めていた。自分の動作がまるで他人の所業に見える。とりあえず想い人をこれ以上泣かせてはいけないという意思だけが、くり人形のように粛々と私を動かした。
きっと、今するべきことだけを理解していて、実感というものが追い付いていないんだ。私は。さっき底冷えした瞬間から。
もともと最小限の荷物でここへやって来たから、包む物もそう多くはない。あっという間に荷が完成してしまった。軽く背負って、先程から少しも動かない彼の横を再び通り過ぎ、玄関へと向かう。
「…先生」
玄関を出る前にもう一度だけ。
「今まで、本当にありがとうございました」
その掌で隠したまま、最後まで彼は私に顔を見せてくれなかった。





「どこへ行こっかな…」
アテもなく町中をぷらぷらと歩き回る。今はまだ昼八ツ時。人通りも多くてそこかしこでいろんな店が呼び込みをしてる。
いまだ実感が追い付いてこなくて、さっきの土井先生とのやり取りがまるで別世界のことのように思えた。今まで何度となく傷付いたけれど、いざ本当に失恋した時ってこんなもんなのかな。今はまだ悲しさ寂しさよりも虚無感の方が強い。
「そこのお嬢さーん!野菜が安いよ!いらんかね!?」
「お姉さんコレ今日獲れたての魚!お買い得だよ!」
「田楽、一つどう!?」
ああもう、通り掛かるたび喧騒がわずらわしい。とりあえずどっか一息つけるところに入ろう。あ、あの茶屋なんていいかも。
「あれ?ななしさん?」
背後から聞き覚えのある声。肩をトントン叩かれた。
「はい?」
振り返ってみればそこに、一つ結びの美人さん。
「あ、照ちゃん!」
「やっぱりななしさんだ!お久しぶりでーす」
ひらひらと手を振りながら明るい顔を見せてくれたのは、お久しぶりの北石照代ちゃんだった。
「ななしさん、今日は何してるんですか? 荷物多そうですけど買い物帰り?」
「んーん。なーんの予定も無い。いま時間潰しにそこの茶屋にでも入ろうかなって思ってたとこ」
「あ、本当ですか? 奇遇ですね、私も今あそこに入ろうとしてたんですよ」
「マジ? じゃあせっかくだから一緒にお団子でも食べようよ。私おごるから」
「え? いーですって、今回は私が出しますよ」
「なんで?遠慮しなくていいのに」
「だっていつもお店で御馳走してもらってるから。たまには私にも出させてくださいなっ」
弾む足取りで私の手を引く照ちゃんに少しだけ癒される。一人で居るより誰かと話してる方が今は気が紛れて良いかもしれない。
「んじゃ甘えちゃおっかなあ」
「よし来た! 遠慮せずに食べてください」
照ちゃんに連れられて茶屋の軒先に二人で腰掛ける。間もなく店主が注文を取りにきたから団子を頼もうと口を開いたんだけど、とりあえずお団子二人前、と照ちゃんが一緒に注文してくれたので私は声を引っ込めた。
「照ちゃん、今日はお休み?」
「んん、今日はっていうか今日もお休みです。最近、派遣の仕事すらあんまり入らなくて…」
「あららー大変だね」
「世の中不況でヤんなっちゃいますよ。この間なんて女中の長期バイトしちゃったぐらいです」
「くノ一だけだと食べてくのに辛いもんねー」
「さすがななしさん、分かってくれます?」
「分かるよ。私も挫折したクチだもん」
「あ、やっぱりななしさんもくノ一だったんだ」
「はるか昔だけど」
「こうも仕事の依頼が無いとイイカゲン心折れそうになりますよ。私もそろそろななしさんみたいにイイ人みつけて納まった方が良いのかなー…」
彼女の発言は悪意が無いだけに凄まじいホディブローだった。今その話をされると私また顔に出ちゃうよ。せっかく頭の隅で紛れてたのに。
「お待たせしました」
その時、私の引き笑いを逸らしてくれるかのようなタイミングで店主がお茶と団子を持って来きてくれた。ナイスだよオッチャン。空気の読める男。
「あ、きたきた。さっそく食べましょうななしさん」
照ちゃんと私の間に置かれた団子皿へ二人揃って手を伸ばす。一本掴んでぱくり。あ、美味しい。この店穴場かも。
口の中で団子もぐもぐさせながら、はしたなく会話。
「近ごろ顔見ないけど、利吉くん元気? 最近は一緒に仕事してない?」
「してますよー。利吉さんてばホンッット短気! 私のやることに怒ってばっかりなんだから!」
やべっ、これまた地雷踏んだかも。照ちゃんの怒りに火を点けてしまった!失敗!
「そ、そうなの?」
「この間も私に『余分なことするんじゃない!』って頭ごなしに怒鳴ったんです!」
「なんで?」
「それがですね…。あ、ななしさんは"四龍の宝玉"の話、知ってます?」
「え?何?知らない」
「中国から渡って来た古美術品で、クロハツ城の殿様が今一番大切にしてるお宝なんです」
「クロハツって…ああ、あの評判悪いトコだよね」
「そうそう。戦好きの」
「あそこの殿様、古美術品なんて興味あるんだ」
「というか、その四龍の宝玉自体が凄く高価なんですよ。だからクロハツ城主以外でも欲しがる人は山ほど居て」
「ふーん。どんなの?」
「単なる四つの水晶玉なんですけどそれぞれに龍が掘ってあって、傍に置いておくだけでありとあらゆる幸運を呼び込むって言い伝えがあるんです」
「何ソレ。確かにちょっと欲しくなるね」
「でしょ? でも実際に見たことあるのはクロハツ城主しか居ないって噂なんです」
「めっちゃアヤシイじゃん。本当にあんの?それ」
「だからこの間『本当にクロハツ城に四龍の宝玉があるのか確かめてこい』って依頼を受けて、利吉さんと一緒にクロハツ城へ潜入したんですけど、」
あれ? 照ちゃんてばポロッと忍務の内容こぼしちゃってるけどコレ大丈夫なの? え、大丈夫じゃないよね? 本人気付いてないよねコレ? まあいいか、予期せず忍務の内容知っちゃったけど私のせいじゃない。不可抗力。
「それで?」
「確かにクロハツにあったんですよ、四龍の宝玉」
「へえ! 実際に見てきたんだ、凄いね!」
「だから一個だけちょろっと拝借しようとしたんですけど、利吉さんてば私に怒鳴ったんです」
「・・・」
そりゃ利吉くんも怒るわな。
「四個あるんだからべつに一個ぐらい良いと思いません? それに私の運気が上昇したら返すつもりだったし」
「四個あるうちの一個って…それアリなの? 四個揃ってないと意味が無いとか、そういう類の古美術品とは違うの?」
「四龍の宝玉は四つの玉それぞれに意味があるんですよ。私が拝借しようとしたのは白龍の玉で、主に健康と、あとは、まあ…」
「まあ?」
「縁結び、とか…」
「やだ、照ちゃんカワイイ」
ああなるほど。それで利吉くんから頭ごなしに怒られて角が立ったワケだ。
「ななしさんてば茶化さないでください」
「他の三個はどんなやつ?」
「体力知力の黒龍と、仕事運の銀龍。あとは金運の金龍」
「金龍とかあるのか。ウッカリきり丸の耳に入った日にゃ大変だな」
「ですねえ」
団子を呑み込んでからお茶を啜り、照ちゃんは何てことない様子でまたボディブローをかましてきた。
「拝借出来てたら、ななしさんにも譲ってあげられたのになー」
ああ私たぶん今また顔に出てる。引き笑いを見られたらいけないと、咄嗟にお茶を流し込んで表情を隠した。
何となく。何となく、だ。
今この場でさっきのことを言ったらいけない気がした。どうしてかは分からないけど。
たぶん、私の中で事実を言霊にする勇気が無い。
「そういえば最近学園にも行ってないな。土井先生、元気にしてます?」
「うん。…元気だよ」
元気だろうな。土井先生はきっと嘘みたいに元気。
『あなたがいなければ!』
私が居なくなって今ごろ清々してるはずだ。
「…ななしさん?」
不意に私の顔を覗き込んでくる照ちゃん。
「どうしました? 先生と何かあったんですか?」
ああ、照ちゃんはやっぱり現役くノ一だ。驚くほど勘が良い。
「ううん、何も無いよ。ただ今日のお昼に練り物出そうと思ってたから、また怒られるかなあって考えてた」
「ななしさんてば懲りないですねー」
「そりゃあね」
眉尻を下げて愛想笑いしてくれる彼女は、きっと心のどこかで私の言動を最後まで疑ってたと思う。


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