真相
たとえば一本を一気飲みだとか。たとえば頭から浴びるだとか。
何かきっかけがあったなら、ここまでヤバくなる前に止められたんだけど…。
「ぎゃっははははぁ!くすぐったははは!」
「ななしさんて酔うとゲラなんですね」
白南風丸にワンコ酒されたななしさんは鮮やかなほど絡み酒の癖を発揮した。じわじわ酔ってたらしく誰もその事実に気付けなかった。今はもう呂律も回ってない。さっき彼女が間切にトドメ刺した時点で笑い話にせず止めておくんだった。
「ゲラらにゃい!ゲラらにゃい!」
「ゲラでしょ」
義兄ィとななしさんはさっきから二人してベッタベタだ。紅一点の自覚無しでこれだけベロベロになるななしさんもかなり問題だけれど、義兄ィも義兄ィで悪ノリが過ぎると思う。手癖が悪いと言おうか何と言おうか…こっちが瞬きをしたほんの一瞬で彼女の肩に手が回り、こっちが視線を逸らしたほんの一瞬で彼女の腰を抱えていて、こっちが厠一回済ませる間には後ろから抱っこになっていた。どこで歯止め掛ければ良かったんだか今となってはもう分からない。呆れを超えて感心してしまう。
「くすぐるのやめれ!ひっひっひっひ!」
「ちょ、コラ暴れない。酒こぼしますよ」
楽しそうにイチャつく二人を見る分には何も問題無いし、こっちだって見てて楽しい酒になる。ななしさんが崩れようが乱れようが正直俺達はあんまり気にしない。ななしさんには悪いけれどあまり興味無い。
ただ一つ、何より問題なのは、
「…視線が痛いよな」
「うん」
航と一緒にショボショボと小さくなる。今現在、何より問題なのは館の一番奥に居る彼。
「先生、かなり怒ってるなあ」
「そうだな…」
奥でお頭達と呑んでいる土井先生がさっきから瞬きもせずにこっちを見てる。酒のせいか怒りのせいか、座った瞳を僅かの間も逸らすことなくだ。ビシビシとした殺気が離れた処に居る俺達まで届くほど。チクショウ、まさかのとばっちり。
「あの、義兄ィ」
「ん?」
「さすがにそれはちょっとヤバいんじゃ…」
周囲に居る俺達としては気が気じゃない。たぶん向こうに居るお頭達だってそう。両手あげて楽しい酒が飲めないこの感じ、頼むからどうにかしてほしい。
「かまやしないだろ。役得」
しかしまあ義兄ィからは予想通りの答えしか返ってこなかった。だって義兄ィはさっきから分かっててやってる。いったいどういうつもりなんだか、わざと先生に見せ付けてるのだ。
「あー!溢したー!はははは!」
…ななしさんの方は頭んなか空みたいだけど。人の気も知らずに楽しそうでいいなあ。
「あーあー、人の膝に酒こぼしやがって。勘弁してくださいよー」
「ごめんらさい…」
「拭いてくれません? そこに手拭いあるから」
「はーい」
「素直でよろしい。ななしさんこれから俺に会うときは一杯引っ掛けてきてください」
「はーい」
言われるがまま手拭いを手に取り、言われるがまま義兄ィの太腿あたりをぺたらぺたらと拭い始めるななしさん。
本気で勘弁して下さい、このままじゃ俺たち殺気に潰されて死ぬ。
さすがの網問も無口になってきてるさなか、当の酔っ払いは手を動かしながらポツリと呟いた。
「いつもごめんらさい先生」
は?
「迷惑かけてごめんらさい」
全員でぱちくりと顔を見合わせる。どういうことだ今の発言は。
「先生って…俺ですか?」
義兄ィの質問に返ってきたのはまた、ごめんらさい、の一言。ななしさんは手元の手拭いを見たまま顔を上げようとしない。
ここでようやく合点がいった。ななしさんはアタマ空っていうか、酔いが回り過ぎてそもそも義兄ィと先生を最初から取り違えているらしい。
これはかなりキテるな。たぶん視界だって見えてるけど見えちゃいないんだろう。人間本気で酔っ払うと本性が出るっていうけど、この人の場合はおそらく土井先生しか見えてない。視界に土井先生しか居ない。というか普段から土井先生しか頭に無いんだ。きっと他の存在は頭の隅にも無い。
…明日あたり白南風丸はみんなにシメられるだろうな、確実に。
少しの間だけ静寂。固まってる俺達より先に反応したのは紛れもない、義兄ィ本人だった。
「ブッ」
クククと口を押さえて笑いを堪えるその様子に、なんだか得体の知れない悪寒が走る。悪い予感。
そしてここから俺達は、義丸という男の真骨頂を見る羽目になった。
「ななしさん、俺のこと好きですか?」
自分の掌で彼女を目隠したあとそんな質問をする。
義兄ィときたらまさかまさかで先生に成り済ますつもりらしい。悪戯を思い付いたような酷くヒトの悪い笑顔を浮かべてたもんだから、俺達の背中を滝のような汗が流れ落ちた。
「好きれす!」
条件反射のようにななしさんが喚く。
「どれくらい?」
「大好きれす!」
ここでもう一つ驚いたのはななしさんが義兄ィに向かって正面から抱き着いたことだ。どしーん!と体当たりに近い形で飛び付いたから色気もクソもあったもんじゃないが。
「好きれ好きれショーガナイんれす!」
「ふーん」
「なんれ先生は私を嫌うんれすかあああ」
ああもう何からツッコめばいいのか。
「ななしさん、それ土井先生じゃなくて義兄ィ…」
「私先生の言うことならなんれも聞きますからあああ」
「だから先生じゃなくて義兄ィ」
「捨てないれくらさい土井センセぇえぇ」
「ただの義兄ィ」
だめだこりゃ、俺達の存在まで脳味噌アウトしてる。救いようがないな。
しかし何をどうすれば義兄ィを土井先生と取り違えられるんだよこの人は。共通点なんて年齢ぐらいしか見当たんないだろ。傍に居たのが義兄ィじゃなくて俺や網問でもあんなことになってたのか?
…ああ、だから"絡み酒"なわけだ。
一瞬。義兄ィが土井先生の方を盗み見た、気がした。
「あ」
義兄ィとは長年の付き合いのもと、これは何かよくないことをやらかす兆しだ、と瞬時に察知したのは俺達だけじゃない。それまで黙って見ていたお頭がさすがに腰を上げてこっちへ向かってきた。
が、時は既に遅く。
「ひゃあ!」
義兄ィは目の前で彼女の衿をひん剥くと、あっという間に口付けを落としたのだ。
さしもの俺達もこれには慌てふためく。
「義兄ィ、さすがにそれは…!」
俺達の言葉に口を離したかと思えば、また口を付けて。啄ばむとはまさしくこのことだろう。
されている当の本人はくすぐったくて堪らないのか義兄ィの背をバシバシ叩きながら始終大爆笑してる。この人およそ空気読めない。
「おいヨシ。いい加減に、」
お頭が義兄ィのすぐ後ろに立って肩を掴んだその時だ。
「わ!?」
そんなお頭を後ろから押し退けて前へ出たのは他でもない、
「土井先生…」
怒り心頭の土井先生だった。彼の名前を呼んだのは俺だったか、それとも他の奴だったか。今となっちゃ分からない。彼の青筋の浮きっぷりにもう言葉も出てこない。だってめちゃくちゃ怖い。
先生は一言も喋らないまま義兄ィからななしさんを無理やり引き剥がし、彼女の手首を掴んで持ち上げた。人間、怒りの頂点を迎えると人格まで変わるのかーなんてどこか冷静な自分が心中で呟く。
ななしさんは土井先生に掴み上げられたまま力無くその場に立つと、思考が追い付かないのか何度も目をしばたたいていた。なんだか仕草がババ臭いなと思ったのはたぶん俺だけだ。
ここで俺達は肝心なことを忘れていた。それは大きな大きな盲点だった。
実はこの時すでに先生もかなり酔ってたんだ。
「え?」
「あ」
「へっ!?」
それぞれが思い思いの言葉を口にする。無理もない。
あの土井先生が、みんなの前でななしさんの顔を持ち上げて、
彼女の唇に喰らい付いたから。
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