交錯
「久しぶりだなあ、ななし」
何も言葉が出てこない。どうして雅さんがここに居るんだろう。
雅さんは私を見据えたまま草鞋を脱いで部屋へと上がってくる。
「なんで、ここに」
気が動転して上手く喋れない中、やっとそれだけ絞り出すことが出来た。
「ワシの台詞だ」
怒った様子で歩み寄ってくる彼。そのあまりの気迫に思わず後ずさる。
どんっ、と背中に何かがぶつかった。どうやらすぐ後ろは壁のようだ。あっさりと追い詰められた。
いけない、冷静になれ私。状況を整理しろ。ここは土井先生の家で彼は部外者なんだ。
落ち着け、くノ一だったあの頃を思い出せ。
「…ワシの台詞、って何」
なんとか動揺の上に線を引くことが出来た。よし、このまま!
「お前はワシに店を閉めると言った。町に越すからだとも言った」
「そうだよ」
「だが行き先が土井先生の家だなんてワシは聞いとらん」
「言ってないもん」
「なんで黙ってた?」
声まで怒気に満ちている。だけど、怯んだらそこで終わり。
「雅さんに必ず報告しなきゃいけないことなの?」
彼は目の前でグッと拳を握りしめた。この返答には相当腹が立つだろう。
「お前が教えてくれなかったら、ワシは誰に訊けばいい」
「でも現にここに来てるでしょ」
「しんべヱがたまたま溢した。本当にぽろっとだ。あれが無ければワシは今も知らんままで…!」
ああそうか、なんとなくそんな気はした。でも今のこの状況はしんべヱのせいじゃない、彼を責めることは出来ない。
このまま勢いで殴られるかもしれないな。でもそれも仕方ないと思う。私はそれだけのことをしているから。
「…殴って、いいよ」
自分でもよく分かる。
私、最低だ。
雅さんが私に気があることを知っていて、私は彼の気持ちをあえて無視していた。酷い時には利用すらした。
彼が私に告白しなかったんじゃない、私が告白する隙を与えなかった。告白させなかった。彼にとっては告白出来なかったんだ。
理由は、面倒臭いから。ただそれだけ。
雅さんとこういう関係になるのが嫌だった。ギクシャクしたくなかった。平和にお友達でいたかった。ただ、それだけ。
だけどもう潮時だ。見て見ぬふりをしていたツケが今になって回ってきたんだ。
私は自分勝手でわがままで、彼には本当に酷なことをしたと思う。
だってもし、私が土井先生で雅さんが私だとしたら
土井先生が私の気持ちを知っていて、黙って他の女性の家に転がり込んでいたら
今日という日までそれを知らずに生活していたと分かったら
雅さんの立場が私だったとしたら、そのとき、きっと私は
「また…ワシがお前を殴れないと知ってて言ってるんだろ…?」
悔しそうに唇を噛み締めて嘆く彼。
「違う、今のは本心」
雅さんが私を殴れないというなら
私はもっと最低な女になってやろう。
そうしたら、あなたは私を殴れる?
「謝っても今更だから私、謝り方が分かんないよ。雅さんには悪いけど私には土井先生しか居ないから」
最後まで告白させてやらない。一片の隙も与えずにフってやる。
このまま私を嫌ってくれたらいい。
―ダンッ―
風が頬を掠めた。
私の顔のすぐ左に雅さんが右腕をついたのだ。鼓膜が驚いたけれどそんなことは頭からすぐ消えた。
「ワシは…」
「…え?」
「どうしてワシは、こんな非道い女が好きなんだろうなぁ」
どくり。
心臓が波打つ。
今にも泣きだしそうなその切ない表情が、いつもの豪快な人柄とはあまりにもかけ離れていて。
不覚にも、先程やっと引くことが出来た一線から動揺が顔を出し掛けた。
嫌だ、私が好きなのは土井先生なんだ。
あんまり揺さぶらないでくれ。
「お前がどう思ってようと諦めんからな」
強い口調。このテのことには臆病だった雅さんもついに腹を括ったようだ。
もう、あとには引けない。
「ななしさーん」
玄関先から土井先生の声が聞こえたのはその時だった。
咄嗟に我に返る。まずい!この状況は実にまずい!
「お恥ずかしながら私、財布を忘れたみたいで」
そのまま先生がこちらへ向かってくる足音。いかーん!! 見られたら一大事だ、これはいかああん!!!
血相変えた私を見て目の前の雅さんはますますムッとした。しかしそんなこと気にしちゃいられない。すぐ横にある雅さんの右腕をくぐり抜けようと膝を折る。が、
「!!?」
雅さんは余った左腕で私の顎を掴むと、そのまま私を背後の壁に押し付けた。身動きが取れない。まさか、嘘でしょ
「落ちてませんで、し、」
土井先生は私達二人を見付けて硬直した。
ああもうなんてことだ。
雅さんは、私に噛み付くように接吻した。
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