平穏


月日が流れて、今では先生の家での暮らしにもすっかり馴染んだ。
昼は定食屋で働き、ちょっと作り過ぎたら隣のおばちゃんにお裾分けして、月一回町内会のドブ掃除をして、洗濯物をしている時にご近所さんに会えば挨拶し、そのまま世間話。特に変化の無いそんな毎日。

ただひとつ、変わったことといえば
「たっだいまー!」
「きり丸、お帰んなさい」
「ただいま」
「お帰りなさい土井先生」
二人の帰宅する回数が多くなった。初めは月一回だったのがいつの間にか半月に一度になり、今では月三回。休みのうちの半分は帰ってくる。それも午後に帰宅が殆どだったのに、近頃は午前中に帰宅してばかりだ。先生、仕事忙しくないのかな。
「ななしさん、忘れないうちに今月の家賃を大家さんに払って来ようと思うんですが」
「あ、待って先生。これもお願いします」
家賃は半々。最初先生は『私の家なんですから』と言って私から頑なにお金を受け取ってくれなかったのだが、私があんまりしつこく払う払う言い続けるもんだから途中で諦めたようだ。タダで寝床にあり付くなんて私にとっては有り得ない。
「それじゃあちょっと行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私から家賃の半額を受け取ると足早に家を出て行く先生。その背を見送ってからきり丸と二人並んで円座に座った。
「ねえ、きり丸」
「はい?」
「最近帰宅の回数増えたね。先生、仕事暇になって来たの?」
時期的なものかし。
「・・・」
きり丸は私を見てやれやれと溜め息を吐く。なんだよその失礼な反応! 訊いただけじゃんか!
「ななしさん、大人の癖して自分絡みに関しては本当鈍いですよね」
「鈍い? どして?」
「べつに」
教えてくれてもいいじゃんよケチ。あ、ケチはこいつにとって褒め言葉だった。
「まあいいや、事情聴くのも面倒臭いから。ところで今日はなんのバイト手伝えばいいの?」
「んー…」
私から視線だけ逸らして唸るきり丸。次に聞かされたのは意外な言葉。
「いっすよ。今日は俺、一人でバイトしますから」
「え?」
「たまにはゆっくりして下さい」
「なんで? バイト一本しか取れなかったの? きり丸にしちゃ珍しいね」
「や、べつにそういうんじゃ無いっすけど…」
なんだろ。何本かあるけど全部一人でこなせるからってことかし? よく分からん。
「ただいま」
あれ、土井先生ってばもう戻って来たよ。早くね?
「きり丸、今日のバイトは?」
帰って来るなり私と同じこと訊いてる。あはは私達って似た者夫婦〜、なんて心の中で笑ってみた。
「今日は一人でバイトしますから。先生は家でゆっくりして下さい」
「へ?」
「んじゃ俺、あんまりのんびりしてたら子守りのバイトに遅れるんで」
そう言ってタタタッと先生の横を通り過ぎる彼。
「行ってきまーす!」
「あ、おい、きり丸」
先生の呼び止めを無視してきり丸はさっさと走って行った。いったい何なんだ。残された私達はキョトンと顔を見合わせた。
「・・・あ」
分かった、かもしれない。
「きり丸、私達に気を遣ったんでしょうか」
思ったことをぽつりと呟いてみる。先生は少し考えてふっと笑った。
「敵いませんねえ」
本当、あの十歳児には頭が上がらない。時々私より年上なんじゃないかと錯覚するよ全く。
先生は炭櫃を挟んで正面の円座に座った。
「ゆっくりしろと言われてもなあ…」
困ったようにぼやく先生。私も今同じことを思った。今度の休みは珍しく連休になったからきり丸と二人で泊まりに帰ります、と事前に文があったため今日は仕事を入れてない。
要はやることが無い。暇だ。
ううんと唸って考えながら先生は自分の首筋に手を置く。何気無い仕種にどきどきする。あ、そうだ。
「肩叩きしましょうか。先生、仕事忙しいから凝ってるでしょ」
「え?」
「他にやること無いし、こういう時じゃないと叩いてあげられませんから」
腰を上げて先生の後ろ側まで歩く。
「いや、悪いですよ。せっかくの休みにそんな」
「遠慮しないで。たまには妻らしいことさせて下さいな」
「妻って」
眉を下げて先生は笑う。
最近、先生は私が嫁だと周りに勘違いされても真っ先に否定しなくなった。いくら説明しても周りが信じないから諦めたのだろうけど、それでも私はちょっぴり嬉しかったりする。
先生の逞しい肩幅目掛け、袖捲りしてトントンと叩いた。案の定やっぱ凝ってんな。
「すみません。ななしさんだって凝ってるでしょうに」
「あはは。お手隙ならあとで私にもお願いします」
「分かりました」
背中を丸めて随分と気持ち良さそうだ。土井先生苦労性だから普段肩叩きなんて誰にもしてもらってないだろう。
「わあぁったしのだァいじィなだァんなさっま〜♪」
「…ななしさん、歌はあんまり得意じゃないんですねぇ」
「あっ、失礼な! こういう曲なんですっ」
「選曲シブ過ぎですよ」
くすくす笑う先生が愛おしくて仕方ない。まるでじじばばみたいな私達のやり取り。幸せだなあ、きり丸にあとでお礼を言おう。
「楽になりました、ありがとうございます。交替しましょうか」
丸めていた背を伸ばして腰を上げると先生は私の背後へ回った。その後トントンと肩から伝わる振動。心地良いリズム。
「くぁ〜」
「ぷっ、どっから声出してるんですか」
「いや、あんまり気持ち良いもんで、つい」
「それは良かった」
なんだかんだ私も肩叩きされるなんて久し振りなもんで。ついオッサンみたいな声が出たんです、許して。
「…ななしさんがここまで辛抱強いとは思ってませんでした」
肩を叩きながら先生は背後でふとそんなことを言った。穏やかだけど真面目な声。
「え? 何がですか?」
「私を待つと言ってくれたことについてです」
「あれぇ、私ひょっとして疑われてたんですか」
「そのうち私を待ちきれずに飛び出して行くだろうと、正直、そう思ってました」
「ひどーい。私ってば試されてたんですかぁー」
「すみません」
先生ときたらどこまで疑り深いんだろう。私は今この状況だけで充分幸せだからもうこのままでもいっかなーなんて若干思い始めちゃってるぐらいだ。やっぱり私のことは受け入れられないという答えをいつか先生が導き出すなら、もうこのさい一生宙ぶらりんでいい。そう思う。
「私の先生への愛の深さが分かったところで、そろそろキープちゃんから愛人ぐらいに昇格してくれてもいんじゃないですかねぇー」
ケラケラ笑いながらいつもの冗談。…のつもりだったのだけど
「・・・」
私の肩を叩いていた先生の手がぴたりと止まる。あれ? 私、今の何かヤバかった?
「先生?」
気分を害したかと少し不安になって後方へ首を捻れば、先生は私の視界から逃げるようにして立ち上がった。
「昼ご飯、何か食べたいものはありますか」
「えっ?」
「食材、何か買ってきます」
真っ直ぐ前方だけを見据えて言う先生。何故か顔を合わせてくれない。やっぱり私どこかマズかったかなあ。
「私は何でも…」
「なら適当に買ってきます」
そう言って先生は草鞋を履くとそそくさと家を出て行った。なんだというのか。男心はよく分からない。
「うーん…」
まあいいや。帰ってきた時の先生の様子次第で謝ろう。
今度こそやることが何も無くなってしまった。暇だなあとぼやきながら何となく後ろを見る。と、
「あれっ」
先生ってば財布落としてってる。これじゃ買い物できないじゃん。時々こういうお茶目なことやらかすよね、あの人。
「やっぱり私に似てるなあ」
彼、本当は忍者に向いてないんじゃないかとたまに思う。結構情に脆いし。
先生が店で恥かく前に届けてあげよう。そう思って腰を上げ掛けた時、玄関の方から誰かが入ってくる足音が聞こえた。
先生、財布取りに戻って来たのかな。
「おかえりなさ、」
庭に立っている人物を見て私は面食らった。
「久しぶりだなあ、ななし」

そこに、怒った様子の雅さんが立っていた。


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