箱舟の虜囚


「・・・・・・卿には、好きな女はいないのか」
几案の上に頬杖を突いたまま、揺れ動く彼の背中に問いかけた。
彼の右手に握られたペンが紡ぎ出す小気味良い律動を聞きながら、飽和してしまいそうな気怠く緩やかな空気に浸る。
「――何故だ」
彼は不意に手を止め、小さく呟いた。
俺はゆっくりと視線だけを彼に向けると、その何処か遠退いた瞳に、そっと微笑みかける。
「いや、特に意味はないが・・・・・・卿は恋などないのだろうな」
茶化すように明るく謂えば、彼は軽く眉を顰めた後、咀嚼するように声を押し出した。
「そう、だな。理論的に説明出来ないものなど、下らない」
彼の瞳は、只管揺るぎない色を浮かべていて、顔を背けることすら出来ない。
「成程・・・・・・嫌いだからしない訳か・・・・・」
唇から漏れた声は、酷く掠れていて、歪んだ泡のように宙を滑って消える。
本当は彼が虚勢を張っていることを望んでいる自分を自覚すると、意味のない焦燥感が込み上げてきて、無性に苛立つのを感じた。
堅く瞑目し、息を低く洩らす。
「まあ、卿もその内いい女に出会える筈だ、エヴァのようにな」
伸し掛かってくる息苦しさに堪え切れず、また一つ嘘を塗り重ねる。
俺は彼が欲しいのだ、我慢できない位に。
それでも我儘な自分は、あの心優しい妻を捨て置くことは出来ないのだろう、きっと。
絡み合う鎖は、もう何も感じない程の重さを抱えて、それでも尚、理性を縛り上げていく。
衝動的な欲望を振り払うように、緩慢な動作で腰を上げると、唐突に腕を捕らえられた。
彼は唯黙って俺を見上げたが、その瞳が、何処か縋るような、媚びるような色合いをしていたのは嘘ではないだろうか。
薄いシャツ越しの熱が染み込むように伝わってくるのを感じながら、俺ゆっくりと驚きという感情を思い出して瞠目した。
「最初に云った、卿が悪い」
詰るようなその口調に、堪らない程安堵する。
彼の掌が微かに躊躇うように背に回り、俺はそっと髪を梳く。
「っあ――――」
確かめるように奪った唇は、淡い珈琲の香りがして、柔らかな甘ささえ感じられた。
「ん、んぅ、う・・・・・・」
彼の唇からもれる甘ったるい声に、脳髄から痺れていく。
この声を誰か他のものに聞かせたことがあると考えるだけで、狂おしいほどの気分に陥る。
俺は彼の肉の薄い頬を押さえつけ、更に深く舌を絡める。
薄く開いた色の異なる双眸が涙で潤み、譬えようもない程の凄絶な色を放って揺らめいた。
大人しくされるがままになっている彼が何処までも愛おしい。
暫くの時が過ぎ、その深い接吻から解放されても、彼は唯無言で俺の顔を見詰めていた。
彼はその左手を宙に泳がせ、徐に口を開いた。
「ミッターマイヤー・・・・・・」
その口調が余りに頼りなく、儚げな所為で、俺はもう、彼を求めることすら出来はしない。
その甘くて苦い檻の中に、閉じ込められ囚われるのを自覚するだけ。
願わくは、彼の苦しみが俺の夢だけであることを――――





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