せんせい、


 4年ぶりに足を踏み入れた数学準備室は、泣きたくなるくらい何ひとつとして変わっていなかった。カーテンの柄も、机の配置も、参考書の種類や数だって。大きな窓から西日が差し込んできて、そんなに広くない室内がオレンジいっぱいに染まり上がるところも。
 生徒用に誂えられた机を撫でる。端っこのネコの落書き、懐かしい。数学があんまりにも分からなくて、理解できなかった時、苛立ちを晴らすように先生の目を盗んでペンを走らせたのだ。その後すぐに先生に見つかってしまったけれど、彼は怒らなかった。ただ一言『かわいなァ、それ』と言って笑った。受験間近だというのに数学の点数だけ振るわない私のことを、思い遣ってくれて。不死川先生はとてもやさしい人だった。
 先生にかわいいと言ってもらえた羨ましいネコは、年月と共にインクが掠れ落ち、片方の耳だけすっかり消えてしまっている。可哀想に、と私は小さく笑って、すぐに唇を結んだ。もう戻らない過去が一番残酷な形で目の前にある。今ここで耳を描き直してあげたところで、一度失われたものは直らない。

「……実弥先生、あのね、」

 無事に大学も卒業して、4月から就職のため都外に出る私が、母校であるキメツ学園に訪れたのはずっと呼べなかった不死川先生の名前を口にするためではない。

「すきです」

 ましてや、告白なんてするつもりもなかったのに。
 初めて紡いだ4文字は、思ったよりも呆気なく空気に溶けて消えた。グラウンドでサッカー部が練習する様子を窓から眺めている実弥先生は、私に背を向けたまま。胸元のボタンは豪快に開けっぴろげている癖にベストだけはきっちりと身につけていて、そのアンバランスさに包まれた背中は相変わらず広い。元より体を鍛えている人だったけれど、三十路となった今もジム通いを続けているんだろう。一度でいいからその背中に抱きついてみたかった。

「ずっと、ずっと好きだったんだよ。私の初恋だったの」

 一度開かれてしまった心は、もう閉じることはない。胸の奥から先生への想いが燃え盛る炎のように熱い熱となって溢れ出てくる。熱は私の胸を焼き、喉を焼き、まともに呼吸をする術を奪ってしまう。

「知ってたよ」

 一拍置いて帰って来た先生の返事に、私は最後の一呼吸まで奪われてしまった。
 知ってたの? 震える声は明確な言葉にならなくて。あの頃の思い出が堰を切ったように蘇る。──職員室前の廊下にも指導用の机は並んでいるのに、頑にここに来たがる私を呆れた目で見ていた先生。友達と揉めている時に何も言わず飴をくれた先生。卒業式の後2人で写真が撮りたいという私に、SNSには上げるなよォと笑って承諾してくれた先生。あの頃の先生の言葉、表情、声音のすべてが、私の心を知ってのことだったら。

「……言ってくれればよかったのに。バレてたなんて恥ずかしいなあ」

 ……拙い恋だった。もしも恋愛の試験があったのなら、数学と同じく赤点だらけだったろう。恋というものをまともに知らないまま私は先生に恋をして、身を焦がした。何もかもを先生に奪って欲しかった。唇も、体も。
 美しかったあの想いは、今ではもう遠い遠い昔の出来事。私は髪を染めメイクを覚えて野暮ったい制服以外の服を着て過ごすようになり、ファーストキスも処女も、先生ではない男に奪われてしまった。この数学準備室はあの日のまま変わらないのに、恋と憧れの区別もつかないような黒髪の女子高生はもうどこにもいない。この世のどこを探したって存在しない。

「もし私が先生と同い年だったら、彼女にしてくれましたか」

 そこでようやく先生は振り返った。困ったように眦を下げて。キラキラ眩しいのは、彼の左手薬指に嵌っている指輪が、夕日に反射しているからだ。
 あまりにも眩しくて、ぽろりと一粒涙が溢れた。

「こんな俺の、どこが良かったんだァ?」

 ああ大人だな、と頭の片隅で思う。そうやって避けるやり方は大人にしか出来ない。狡い。

「低い声が好き。先生の書く数式が好き。自分にも他人にも厳しいところが好き。…厳しいのに頑張ったらこっそり、チョコレートとか、くれるところが……っ、…大好き、だったよ」

 言葉が詰まって息が詰まって、苦しい。下手くそな私の告白を、先生はひとつひとつやさしい顔で頷きながら聞いてくれて、それがまた辛くて、泣いた。
 すき、すきでした。貴方の全てが好きでした。もしも自分の願いをひとつだけ叶えられる魔法があったら、迷わず実弥先生の心が私のものになりますようにと、身勝手に願ったのに。

「……せんせ…っ、ぅ、…先生、不死川先生」
「……あァ」
「奥さんと、幸せになってね、絶対幸せになってね」

 大きく息を吸い込んで、ここに来た本当の目的を果たす。今度はつっかえないように、丁寧に丁寧に言葉を紡ぐ。最後の、言葉を。



「結婚おめでとう、不死川先生」

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