味の薄いコーンスープ


「そこのかっこいいお兄さん、私を買いませんか」

 振り返った先に、頭のてっぺんから足元までずぶ濡れの元クラスメイトがいた。



 衛宮士郎には名字名前という友人がいた。容姿も勉強の成績も運動神経もすべてが平均並みの少女。特別親しくしていなければ卒業後すぐに記憶から消えてしまうような、良くも悪くも目立たない存在。
 そんな名字名前と初めて話をしたのは高校1年生の秋の頃。委員会の仕事を押し付けられ困っていた彼女を自分が手伝った、どこにでもある(特に衛宮士郎にとっては)ありふれた話。
 彼女と自分は波長が合ったのかそれ以来よく交流するようになった。手料理を振る舞ったこともあるし、逆に彼女から日頃のお礼だとバレンタインにチョコレートを貰ったこともある。あくまで義理だと彼女が無表情のまま強調するように、そのチョコレートは市販のものだった。それもバレンタイン用にラッピングされたものではなく、普通の、板チョコだ。
 自分たちはただの友人だった。手が触れ合うこともない。身を寄せて語り合うこともない。ただの、ありふれた、関係だった。

「お風呂、ありがとう」
「ああ……どうして服を着ていない」
「これからするんだから着るわけないじゃない」

 脱衣所から出てきた名字名前は布一枚纏っていなく、慌てて視線を逸らす。そしてため息。「いいから早く渡した服を着ろ」まさか英霊になった後に元友人の肌を見ることになろうとは。
 「これでいい?」名字名前は私の黒いシャツを身につけ帰ってきた。体格差が酷いため袖は彼女の指先すべてを隠し、裾は膝小僧の辺りで揺れている。ただ一番下のボタンが外されているせいで時折その奥の太ももがチラチラと見えた。シャツの黒と日焼け知らずの白い肌のコントラストが目に焼き付く。触れたらやわらかそうだと思った。
 いや、待て。ふっと短く息を吐く。10も年下の少女に何を考えているんだ、私は。

「インスタントだが。これを飲んで温まると良い」

 ソファに座る彼女へコーンスープの入ったマグカップを渡す。マグをじっと見つめた名字名前は小さく呟く。

「私、インスタントスープ作るの苦手なの」
「お湯を入れすぎて味が薄くなってしまうからか」
「そう。どうして分かったの?」
「勘さ」
「……つまらないわ、貴方。そこは“魔法を使ったんだ”くらいのジョークを言ってくれないと」
「これは失敬。だが生憎と私は“魔法”など使えなくてね」

 ついお湯を入れすぎちゃって出来上がるのは味の薄いコーンスープ。今度は入れすぎないぞって気を付けるんだけど逆にお湯が足りなくて全然粉が溶けてくれないの。そう、インスタントスープと格闘する話をしてくれたのはいつだったか。確か高2の、冬だ。1月の中旬。……聖杯戦争が始まる、直前。
 誰の記憶にも一様に埋没してしまう彼女のことを、私は不思議とよく覚えていた。いや厳密に言うと数十分前までは忘れていた。穂群原の制服を肌に張り付けびしょ濡れで佇む彼女の姿を見た瞬間、すべての記憶が脳内に舞い戻ってきたのだ。
 名字名前は息を吹きかけて冷ましながら一口一口丁寧にスープを飲んだ。こくり、と細い喉を通るその一口が異様に少ないのは、彼女がここから帰りたくないと思っているからだろう。味が薄くなってしまっても構わないからもっと大きなマグカップに入れてやればよかった、そんなことを考える己の思考に蓋をする。

「それで、何があった?君は売春をするような娘には見えない。一瞬の気の迷いなら止めておくことだ」
「貴方、私を抱いてくれないの?」
「抱かない」
「家に連れ込んで、シャワーも浴びさせて、スープも提供して、なのに手を出さないの?」
「今にも泣き出しそうな顔をした女性に手を出せるほど私は落ちぶれていない。ここに連れて来たのは、放っておけば君はどこかへ消えてしまいそうだったからだ」

 少女は小さく微笑む。子供のように無垢で、売春婦のように妖美な笑みだった。「やさしいのね貴方。衛宮くんみたい」細い、乱暴に扱えば簡単に砕け散ってしまいそうなほど儚いガラスの声に、喉元が締め上げられた。
 その衛宮という男が、君を悲しませている原因なのか。私はそう言葉にして問うたのかもしれないし、問わなかったのかもしれない。どちらにせよ彼女は語り出した。

「衛宮くんっていうのは私のクラスメイトで友達。ものすごくお人好しなの。地球をひっくり返して探したって彼以上のお人好しはいない、って断言できるくらい。……彼を初めて知ったのは中学生の時。夕日に真っ赤に染め上げられたグラウンドで、彼はひたすらに棒高跳びの練習をしてた。誰が見ても飛べっこないって言うくらい高いの棒なのよ?でも衛宮くんは何度もチャレンジして……それしか知らないんじゃないかって、そう体にプログラムされてるんじゃないかって思うくらいだった。それで……ああ、こんなことはどうでもいいのよ。とにかく私は、」

 彼女はそこで一度言葉を切り、マグカップをテーブルに置いた。

「私は、彼が好きだった。そしてついさっきその恋は破れた」

 赤く薄い唇が歪む。決壊しそうなダムを無理矢理押し留めるように下唇をきつく噛む。それは泣き出しそうな人間がする仕草だった。

「彼の近くに行けないことは最初から分かってた。彼は私なんかが触れていい人じゃなかった。だからまあ、失恋したことはいいのよ。最初から決まっていたことだったから。……ただ、衛宮くんにとっても私はありふれた友人で、記憶に残らない思い出以下の人間で、そう、味の薄いコーンスープみたいな存在なんだろうなあって考えたら……少しだけ悲しくなっちゃった」

 そんなことはないと、否定する権利を当然私は持ち得ない。実際に彼女を忘れ彼女を思い出以下の少女にした男が『君は特別な人間だ』と述べたところで、それは塹壕で賛美歌を歌うくらい滑稽なことだ。こうして彼女と会話をした記憶でさえ、座に戻れば消え去る。記録として残りもしないだろう。

「ねえ貴方、衛宮くんに似てるね」

 少女が近づいてきて、その冷たく小さな手でオレの頬を撫で上げた。

「一度だけでいいから“名前”って呼んでみてくれない?」

 彼女の頭を引き寄せ、耳に口を近づける。
 彼女の姿も声も記録されることはない。

「名前」

 ただ、たった一度名を呼んだことだけは、

「あはは、やっぱりそっくりだ」

あの荒野に刺さる錆びた剣の柄くらいには、刻まれるかもしれない。


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