すばらしい夜が露になったこと
「あれ?ランサーは?」暖房の効いた暖かい部屋に入ると、そこにいたのはギルだけだった。つけっ放しにしているテレビの画面を熟れた果実のような瞳でぼうっと眺めている。テレビでは聖夜に浮かれた学生たちが起こした事故のことについて報道していた。
「駅前でサンタ帽被ってナンパに精を出していたぞ。目は死んでいたがな」
「ナンパじゃなくてバイトでしょ?ランサーはギルと違ってクリスマスも頑張って労働してるわけ」
クリスマスの定番ソングの鼻歌を歌いながらテレビのチャンネルをバラエティー番組に変える。司会者はサンタとトナカイの恰好をしていた。たいしたことないギャグで大笑いしている出演者にギルが端正な顔を顰めた。
「奴らは何故こんなにもクリスマスで騒ぐ?キリスト教徒などごくわずかだろうに」
「日本人はイベントにかこつけて騒ぎたいだけなの。ハロウィンもバレンタインもそう。理由がなきゃ、みんなと一緒じゃなきゃ、仮装も告白もできない。そういう生き物なの」
「そう言う割には、貴様も随分と浮かれているようだが?」
「もっちろん!だってクリスマスだよ?今騒がなくていつ騒ぐのよ!」
冬は行事がたくさんあって好きだ。クリスマスに大晦日、お正月、バレンタイン。心躍らずにはいられない。その楽しさは、寒さも吹き飛ばしてしまう。
ほらほらギルももっと元気にいこうよ、とバンバン彼の背中を叩けば、ギロリと睨まれて手を払い落とされた。「それより今まで何をしておったのだ。我を退屈させおって」
「綺礼の手伝いに行ってたの。今日は大忙しだからね。さーて、そろそろこっちも準備しましょ」
冷蔵庫からケーキを持ってきてロウソクを何本か立てる。それからチキンやピザを並べて、ワイングラスとビールジョッキをテーブルに置いた。
ちょうどそこで、「たでーま」と間延びした声が聞こえた。段々と大きくなる足音に、豪快に開かれるドア。振り返れば鼻の頭を赤くさせたランサーが立っている。
「おかえりなさいランサー!」
「おうおう、ただいま名前」
抱き付いて広い背中に腕を回せば、ランサーは両手で私の頬を包み込む。「ひっ!冷たっ!」氷みたいに冷たい手に肩が跳ねる。やめてよ〜と逃げようとする私を捕まえたまま、彼はからからと笑った。「ランサーってば、鼻赤くしてトナカイみたい」
「トナカイだぁ?オレとしてはサンタの方がいいんだがな」
もちろんお前だけのな、とウインクをしてみせるランサー。まったく、彼も私と同じように浮かれているみたいだ。
「それで、私だけのサンタさんは、一体何をプレゼントしてくれるの?」
手のひらサイズの小さな箱を取り出して、サンタさんは笑う。
「いい子で待っていたお前にとびきりいいものをやろう。メリークリスマス、オレの愛しい──」
ゆっくりと現実に引き戻される。安いビジネスホテルの暖房は全然効いていなくて、薄っぺらい毛布にぐるぐる包まって熱を逃がさないようにするしかない。カイロとかあれば、便利なんだけど、生憎この国で見かけたことは一度もなく。コタツにも、もう何年も入ってない。──ああそれよりも、あの夢。先ほどまで見ていた夢の中は、とても暖かかった。
王様も神父も、私が恋した人も、みんないて。どこにも寒いところなんてなかった。懐かしい、あれからどのくらい経ったんだろう。今更帰ったって、待っているのは空っぽの教会しかないんだろうけど。
「なんだ、起きたのか」ぐるりと寝返りを打つと、ちょうど扉が開いて士郎が現れた。
「おはよう」
「もうこんばんはだよ、名前」
「ケガはない?」
「ああ。今日は一時休戦らしい」
なんでかは知らないけどな、と士郎は緩慢な動作で赤いマフラーを外し、黒いコートを脱いだ。そのままベッドに腰かけて、するりと私の髪を梳く。
「それは今日がクリスマスだからよ」
士郎の手が止まる。「クリスマス?」「そう、クリスマス」
ぱちり、と瞬きをする士郎は、本日がクリスマスであることをすっかり忘れていたようだった。無理もない。今のような生活に身を置いてから、ハロウィンもクリスマスもバレンタインも私たちには関係なくなってしまったから。お菓子を強請る子供も、キッチンで並んでチョコを作る姉妹の後ろ姿も、聖夜に聖書を持つ神父の指先も、もう見ることはない。多分、一生。
今なら分かる。イベントとは忙殺される日々から束の間でも抜け出して息を吐くチャンスだったのだ。それを忘れてしまった私たちはこの生活から抜け出すチャンスを失ってしまった。それが悲劇なのかどうかも、もう判断つかない。
「クリスマス休戦って知らない?第一次世界大戦中、西部戦線で起きた一時的な休戦状態」
12月24日から25日にかけて生じたそれは、当時西部戦線で争っていたドイツ兵とイギリス兵が武器を置き、共にクリスマスを祝ったと言われている。ツリーを飾ったり、キャロルを歌ったり、プレゼントの交換、サッカーの試合が行われたりした。
「美談だな」そう吐き捨てた士郎の顔は酷く疲れているように見えた。
「ひねくれちゃって」
それが、彼を救うことのできない私にできる精一杯の返答だった。
ふいに、視界の隅で白が落ちた。窓の外を見やれば雪が降っている。ホワイトクリスマスだ。
「クリスマスの定番曲、あるじゃない?」
鼻歌を歌ってみると、思い当ったのか士郎はああ、と手を打った。クリスマスの数週間前から浮かれた雰囲気で満ちあふれ、イルミネーションで彩られた街中で、毎日と言っていいほど耳にした曲。その歌詞は、驚くくらい私の胸を詰まらせた。
「あの曲ね、”サンタさん、連れてきてよ。私の望む人を、お願いだから連れてきてよ”……って和訳なの。……本当に、連れてきてくれたらいいのに」
士郎が息を呑んだ気配がして、肩を掴まれる。真正面から捉えた彼の瞳は、どう頑張ったって赤色に見えることはない。いつまで経ってもあの人の影を追いかけ続けている自分に自嘲する。
「──なんてね。いくらサンタさんでもそんなことできるわけないよね」
明るいメロディーのくせに妙にリアルで切実な願いが込められたあの曲は、彼がバイトしていた駅前でも流れていたのだろうか。
「メリークリスマス、士郎」
あの箱の中身は、一体何だったっけ。