シークレット・マスカレード


『確認した。任務はこれで終了だが対象者から目を離すなよ、ランサー。何をしでかすか分からんからな』
「へいへい、わーってるよ」

 イヤホンから聞こえた念を押すような声に適当な声音を返しつつ、ひとまずランサーと呼ばれた男──ランサーというのはコードネームであって本名ではない──は肩の力を抜いた。一般人に成りすまして能天気できらびやかなパーティーに忍び込むのはなかなかに辛いものがある。主に心労的な意味で。身分はアーチャーの手配で完璧に偽装されている。今やランサーはマフィアの構成員ではなく、どこぞの上流階級のお坊ちゃんだ。それ故、彼は貴族になりきるために血の滲むような努力を強いられたのだが、ここでは割愛しよう。
 ランサーはこの街ではそれなりに名を轟かせているマフィアの、実質使い走りのような扱いを受けているが一応、幹部である。アーチャーも同じく幹部で、本名をエミヤといい、その名は先代のドンのファミリーネームを受け継いだものだ。孤児であったエミヤを先代のドン──衛宮切嗣は拾い上げ自身の名前の一部を与えた。その数年後にまたもや子供を拾ってきて、後継者に据えた。それが、今のボスである衛宮士郎。士郎はまだ未熟者なので、こうしてボスのためにランサーたちが必死に外堀を埋めているわけである。
 ランサーはネクタイを緩めようとしたが、アーチャーの言いつけを思い出したので寸でのところで踏みとどまった。会場には無数のカメラが設置されていて、あの”弓兵”は鷹の目をもって”槍兵”を監視している。だらしない姿など晒せばあとでどんなお小言が待っているか分からない。まったく、これが後輩ならいけいけどんどんで乗り切れたものを。サポーターが口うるさい姑だと気も抜けない。
 仕方ねえ、女でも眺めて癒されるか。そう思っても気分は乗らない。ランサーの好みは気の強い女であって、蝶よ花よと育てられた淑女にはまったく心惹かれないのだ。
 それでもワインを舌の上で転がしながら目を走らせていると、自分と同じようにこの会場には相応しくない者を見つけた。壁にもたれかかり活気ある中心を眺めている東洋人の女。他にも壁の花になっている女はいるが、どれもこれもダンスの誘いを待っている者ばかりで、本当に心底つまらなそうな顔をしているのは彼女だけだった。
 一歩目は無意識で、後は自らの意思で踏み出した。一直線に、女へと向かう。近づいて分かったが、女はパーティーに集まっている貴族の中でも一等上流のご令嬢だった。なるほど、この娘が不機嫌顔を晒しているとなれば声をかける者はいまい。けれども、ランサーは止まらなかった。アーチャーが何か言っているのが聞こえるが、無視する。

「やあお嬢ちゃん。楽しんでるか?」

 自分でもふざけた態度だと思ったが、気にしない。丁寧なもてなしは必要ない。この女が望んでいるのはそんなことではない。
 数秒経ってから、女の瞳がランサーを捉える。感情のない、ガラス玉のような瞳だった。動揺していないのか、それとも巧みに隠しているのか分からないが、女がランサーに対して何も感じていないはずはなかった。女の口が開く。

「お嬢ちゃんなんて、随分な呼び方をするのね。貴方、どこの家の方かしら」
「ああっ悪かった!レディに向かって失礼だったな。では改めて、楽しんでますか?マイレディ」

 ランサーの軽口に、女は僅かに笑みを浮かべた。どうやら掴みはばっちりだったようで一安心だ。警備員に突き出されたらどうしようかと思った。

「これが楽しんでいるように見えるなら、貴方のその綺麗な瞳は本当に宝石でできているんでしょうね」
「ん?それは褒め言葉か?ありがとな」

 血の色だの悪魔の目だの言われたことはあったが、宝石に例えられたのは初めてだ。女に少し興味が沸く。
 「貴方は楽しいの?」逆に尋ねられたので「いいやまったく」と答えると女は今度ははっきりと笑った。よかった、私と同じ人がいて、と呟く声はどこか諦めたような色を持っていた。

「レディ、名前を聞いてもいいか」
「……名前。私、名前っていうのよ、かっこいいお兄さん」

 ファミリーネームを言わないということは知られたくないのだろう。会場にいる全員が知っているというのに、無駄な努力だ。だが、それもいじらしい。名前の望みに乗ってやることにしたランサーは彼女の立場も名字も知らないふりをする。

「貴方は、なんていう名前なの?」
「──クー・フーリンだ。好きに呼んでくれ。ただしクーちゃんはカンベンな」

 『たわけ、本名を教えるなど何を考えている』耳元でアーチャーが叫んだ。まったくだ。きちんと用意された名前があるというのに、馬鹿正直に答えるなど、本当にオレは何を考えている。自分たちの世界では真名を取られることはご法度だ。
 しかし、名前に嘘は吐きたくなかった。それはあまりにも酷い所業に思えたのだ。

「……私、こういう場って苦手なの。綺麗じゃないし、ダンスも得意じゃないし。だからどうしてもあそこで踊っているような綺麗な女の人たちと自分は同じだって思えなくて。私だけ取り残されたような、別世界にいるような気分になる」
「名前は綺麗だぜ。他の女よりずっと」
「ふふ、ありがとう」

 名前は笑うと子供っぽくなることにランサーは気付いた。体のラインが出るドレスを着ているが、その笑みには似合わない。

「ま、オレも同じだな。ここにいる奴らとは相容れない。絶対に、永劫。かたっくるしい正装して、作り笑いを張り付けていると表情筋が死んでいくのを感じる。いくらうまい飯と酒があっても、素潜りして魚捕ってる方がよほどいい」
「海を、見たことがあるの?」

 一瞬息が止まる。名前を見下ろすと、彼女はまるで親に何でもかんでも質問する子供のような純粋な瞳でランサーを見上げていた。「海を見たことがないのか」そんな、馬鹿な。この街は海に囲まれている。ちょっと小高い丘に登れば豊かな内海を臨むことができるというのに。
 怪訝が顔に出てしまったのだろうか、名前がまた諦めたような表情で俯く。

「私……あまり外に出たことがなくて。泳ぐのはプールがあったし、それに、」

 名前が口を閉じる。続く言葉がないことに気付いたのだろう。しばらく沈黙して、今までで一番感情にあふれた顔を、今にも泣きだしそうな顔をした。

「やっぱり私、貴方とも違うのね」

 心臓がぎゅうっと締め付けられたような感じがした。思わず名前のむき出しの肩を掴む。「オレが教えてやる。海がどんな色なのか、どんな温度なのか、どんな生き物が生きているのか、全部教えてやる。だから……そんな顔、するな」随分と必死なランサーに名前はぱちぱちと瞬きを繰り返して、ゆっくり目を細めた。「ええ、教えて、クー。貴方の知ってること、私に」
 海、それから山、自然のあらゆることに関してランサーは語りつくした。驚いたことに、名前は温室育ちどころではない生活を送っていた。自分の意思は介入せず、どこに行くにしても必ず誰かがついて回る。不思議なのはこれだけ徹頭徹尾過保護に扱われてきた名前が今、たった一人で放置されていることだった。

「クーの世界は広くて素敵ね」
「ん、ああ……まあな」

 血と硝煙の臭いに満ち溢れた世界だが、自由に生きられる分名前よりはマシなのだろう。
 「あ、」ふいにふらりと名前の体が揺れる。すかさずランサーは彼女を抱きとめて、頬にかかる髪を払った。「大丈夫か?」

「ごめんなさい……少し酔ったみたい」
「風に当たったほうがいいな。こっち来い」

 肩を抱いてバルコニーの方へ誘導しようとしたが、名前は動かなかった。代わりにランサーのジャケットの裾を控えめにひっぱっている。顔を覗き込めば熱に浮かされた目で見つめられた。

「いいえ、風は必要ないわ。部屋が用意されているの。そこで休みます。……看病、してくださらない?」

 ランサーは頷く。ちょうどいい。先ほどからずっと赤く濡れた唇に噛みつきたくて仕方なかったのだ。



 久方ぶりに抱いた女の肌はしっとりと甘く、心地よかった。名を繰り返し呼び手を伸ばしてくる名前はいじらしく、愛おしく、悲劇的で、儚かった。その手を取り握りしめても、名前は安心するどころかより一層泣きそうな顔をするのでランサーはもうたまらなくなって、何度も何度も抱いた。拾い上げたからには苦しめるものすべてを取り除いてやらなければならない。その一心で。
 ランサーは水で喉を潤しながらネクタイを締める。イヤホンとマイクは部屋に入る時に壊した。お小言どころか説教決定だが仕方ない。名前の声をアーチャーには聞かせたくなかったのだ。

「しかし、意外だったぜ。アンタは少し話しただけの男と寝るような女には見えなかったんだがな」

 名前はベッドに腰掛けている。またドレスを着るのが嫌なのか、シーツに包まったままだ。髪が下りているので幼く見える。

「私にだって、遊びたくなる時があるの」

 自嘲するように吐き出した名前に近づいて、ランサーは1枚のメモを押し付けた。メモには数字が並んでいる。「オレの電話番号だ。何かあったらかけてこい。力になるぜ」名前は驚いたようにメモをじっと見つめて、それからランサーに視線を移す。いいの?と問う彼女の両目には今度こそ本当に涙が浮かんでいた。ランサーはニカッと笑って、豪快に名前の頭を撫でまわした。



 ゆさゆさと揺さぶられている。奥を突き上げられても何も感じない。快感も、痛みも。横たわっているだけでは殴られてしまうので、一応声だけはそれらしく出す。だが、下手なポルノよりも演技じみた声だ。冷静な自分が馬鹿みたいだと嘲笑っている。腰を振るのに夢中で相手が特に気にかけていないことだけが救いだった。
 思えば、生まれた時から何もかもが決められていた人生だった。食べる物も、着る物も、会話をする相手も、好きになる人も。箱庭の中に閉じ込められて、最終的に自分の家より格上の家に嫁ぐ運命。それが名前のゴールだった。……否、ゴールなどではない。そもそも名前の人生は最初からスタートしていなかった。自分の意思はなく、親は己を道具としか見ない。名前は人形として生きて、人形として死んでいくのだ。
 男の吐息が切羽詰ってきたので、名前は瞼を開けた。自分を見下ろす男の目は青い。あの人とは真逆の色なのに、

「ぁ──」

 重なるなんて絶対にありえないのに、それでも、あの宝石みたいに美しい赤を思い出してしまった。
 思い出してしまって、一気に痛みが襲ってくる。痛い。苦しい。体中のどこよりも胸の奥が苦しくてたまらない。こみ上げてきた涙を必死になって堪える。泣けない、泣きたくない。こんな男の前では、死んだって涙なんて流せない。
 今思えば、あれは両親がくれた最初で最後の情だったのだろう。ひとりで箱庭を出されて、ひとりで存在することを許されたあの夜。パーティーはなにひとつとしておもしろくなかったけれど、彼に出会えたその事実だけで、一生親に感謝することができる。
 クー・フーリン。彼の名前。私に教えてくれた本当の名前。彼がパーティーの場に招待されていない人間だったことなんて最初から分かってた。渡された参加者名簿に彼の名前はなかったし、纏う雰囲気もいくら取り繕おうと他の者とは違っていたから。でも、それでもよかった。怖くなんかなかった。だって彼は、クーは、初めて私に声をかけてくれたひと。私を認識してくれたひと。私を綺麗と言ってくれた、私に世界を教えてくれた。
 私が初めて自分の意思で好きになった男の人。

「クー……っ」

 男の動きが止まった。しまったと思う前に拳を振るわれる。誰の名だ、とかなんとか言っているが名前の耳は受け付けない。今度は腹を殴られて、ぷつりと、頭の奥で何かが切れた。もう、どうにでもなっちゃえ。
 名前はありったけの力を込めて男を突き飛ばした。まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう、男は簡単にベッドから転がり落ちる。その隙に名前は部屋を飛び出て廊下を走った。必死に必死に、息を切らして。
 自分の部屋に飛び込んで鍵をかける。こんなものすぐに破られるだろうが、ないよりましだ。そして名前は電話を掴みとった。

「はぁ……はぁ、はぁ……」

 手が震える。何度も落としそうになりながら、それでも名前は電話を握りしめて決して落とさなかった。
 クー。もう一度あの人に会いたい。もう一度、もう一度だけでいいからあの暖かい腕に抱かれたい。あんな男と結婚なんてしたくない。この身を捧げるなら、クーがいい。
 彼へと繋がる番号は覚えている。幾度となくメモを見返して、叶わない夢に唇を噛みしめてきたのだから。
 耳に押し当てる。数回の電子音の後に、恋い焦がれた彼の声がした。

「クー……?」
『名前か?』
「ねえ、クー、助けて……たす、けて……っ!わたし、あんな、あんな人と結婚なんて、したくないッ」

 貴方がいいの。そう吐き出せば電話口の向こうで息をのむ気配がした。

『名前、今どこにいる』
「名字の家よ……」
『近くに港があるだろ。灯台のある港だ。お前の家からまっすぐ東に向かったところにある。そこに今から来れるか?』
「う、ん」
『よし、じゃあ来い。オレが迎えに行ってやる』

 港へ向かうにはこの家から出る必要がある。玄関からの脱出は論外。一旦廊下に出てもあの男が追ってくる。ならば、と名前は窓を見据えた。
 ガラスの割れる音が静寂に響く。



 ザザァ、と音がする。何の音だろうと近寄ってみると、どうやら波が引き寄せては遠くなる時の音らしかった。潮風が乱れた髪を攫っていく。名前は恐る恐る海水に足を浸して、擦り傷にしみたのですぐに逃げ帰った。次は海水の来ない安全なところに腰を下ろして砂に指を滑らせてみる。砂の城を作ろうとしたけれどさらさらと崩れてしまった。クーは海での楽しみのひとつに砂のお城を挙げていたのだが、作るのには何かコツがいるのだろうか。訊いたら、教えてくれるだろうか。

「名前」

 突然呼びかけられて名前は肩を弾ませた。立ち上がって振り返ると、クーがいた。遠くに車が見える。

「迎えに来たぜ、名前」

 ああやっぱり、宝石みたいだ、クーの目は。月明かりに照らされてもっとずっと綺麗に見える。
 差し出された手を取ろうとして、寸でのところで止める。本当にいいの?私の家は厄介よ?と問いかけると彼はやっぱり人好きのする笑顔を返してきた。

「オレは惚れた女を手に入れるためなら一家皆殺しだってする男だぜ」

 それにな、と彼は続ける。

「実はオレは悪いマフィアなんだ」

 名前はふんわりと笑って、クーの手を取る。

「知ってるよ」

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