五話 | ナノ


Episode.5 
「お願いだから、私の大切なものを守らせてくれ…ッ!」




ざぷん、と、海面が盛り上がる。


腰に巻いている帯にくくりつけていた大きな網を獲物でいっぱいにしたレイがこれで十分だと判断し、水面に浮上してきたのだった。
額に張り付く髪を払うように鬱陶しそうにぶんぶんと首を振ると、同時に耳元の細い金のピアスが揺れた。


そのピアスは、マーサがレイと姉妹になった後、自宅にて渡したものだ。
今もそれはレイの耳元で光り、同じようにマーサの耳元でもきらめいている。
二人の絆の証だった。

水にぬれ、背に封印の紋を浮かび上がらせているレイが、陸へ上がろうと両手に剣を持ったまま泳ぎだしたときだった。
水中からなにか鈍い音が聞こえる。


「……グリューネ……?」

ぽつり、と呟いて、レイが振り返る。
その瞬間――レイの目前の水面に、巨大な獣の首が水しぶきを纏って浮上した。


レイはその長い首の先にある頭を見上げる。

一見深い青に見える鱗が光を浴びて煌く様は、まさしく海そのものの色だ。
水上には首から上しか出ていないが、それでも相当の巨躯であることがわかる。
竜のそれにも似た姿のその海獣の名は、グリューネ――この周囲の海、グリューネ海の守護獣であった。


白い鬣を備えた頭がレイに視線を合わせるように下降し、目前に赤い瞳が現れゆっくりと瞬く。

《――レイ、聞け。狭間に危険が迫っている――》

落ち着いた、低い声がレイの脳内に響く。
レイはそのアイスブルーの瞳を見開いた。


「どういうことだよ、グリューネ。危険って……」
《――嵐のことではない。ヒトだ。ヒトが鋼鉄の箱に乗って大勢やってきた――》

危険とは嵐のことであれ、と考えていたレイの胸中を見透かしたように、グリューネが否定をする。
鋼鉄の箱とはおそらく船のことであろう。
海賊だろうか、とまで考えて、レイは己がその船の存在に気づけなかったことにショックを受けた。


海はレイにとって空気と同じようなものである。

水上、水中に限らず異様な気配があればすぐに気づけたはずなのに、レイはその存在を知らなかったのだ。
しかもそれが島に向かっているにもかかわらず。
ギリ、と奥歯をかみ締め、急いで島に戻ろうときびすを返す。

しかしそれを止めるように、グリューネの長い首がレイをぐるりと取り巻いた。
レイは眉間にしわを寄せて感情のない顔を見上げる。

「ッ、どうしたんだよグリューネ!教えてくれたのはありがたいけど、私は早く行かなきゃ――ッ」
《――落ち着け。聞けといったはずだ――》

グリューネは至極落ち着いた声音でレイをたしなめた。
彼のいうことはわかる。
しかし島に危険が迫っているとわざわざ伝えに来たはずのグリューネが、それを救いに行こうとするレイを止めることが理解できなかった。

「だから、なんなんだって!」
《――やつらの目的はお前だ――》
「……え?」

目を見開き、口を薄く開いたまま固まる。
とっさのことで、その言葉の意味がまるで理解できなかった。
いや、どこかでは理解したくなかったのかもしれない。


《――旅の鳥が教えてくれた。やつらはお前を…竜を求めてやってきている。存在が知れたのだ。今行けばお前は確実にとらわれるであろう――》

レイは驚きに言葉が発せないでいる。
赤い瞳がふっと伏せられて、人間ならば眉間とよぶべきであろう部分の筋肉にしわが寄った。



《――これを聞いたとき、知らせねばと思った。島に行ったのだ。お前はいなかった――》

《――人々が慌しかった。お前はすでにとらわれてしまったのかと、心配で、心配で――》

《――ようやく見つけた。よかった、お前がいて。お前が消えてしまったら……――》


グリューネはそこで大きく息を吸い込み、すうと頭を移動させると、レイの額にそっと鼻先をつけた。
海獣なりの口付けだった。


《――……わたしはきっと、またひとりになる――》


「……グリューネ」
レイは水中で、片方の手に剣を二本持った。
空いたほうの手を水面に上げて、海獣の冷たい鱗に覆われた頬をそっとなでてやる。

「お前はわたしを心配してくれたんだな。ありがとう、わたしは大丈夫だよ。――だから、」

その手がするりと滑り落ちて、海獣の鬣の中に入り込む。指先が首の後ろに触れた。
グリューネはレイが行おうとしていることに気づいて慌てて首を引っ込めようとするものの、すでに遅い。


レイは指先に力を込め、ぐっ、とその場所を強く押した。

とたん、グリューネの身体から力がするすると抜けて、太い首がレイの肩にのしかかってくる。
それをそっと外して手を離すと、その巨躯は水中にゆっくりと沈んでいった。
赤い瞳は閉じられまぶたに隠れている。


「お願いだから、私の大切なものを守らせてくれ…ッ!」




レイは竜人の僕たる海獣――本人は家族だ友達だと言い張るが――のことは熟知している。
海ひとつを司る守護獣とて例外ではない。


海獣の身体に潜むいくつかのツボのうちのひとつを突き、グリューネの意識を奪ったのだった。
本来なら、海獣を傷付けかねないこのような行いは決して働かないはずである。

己のせいで島に危険が迫っている、という事実が、一時の気を狂わせたのかもしれない。


グリューネの巨体が柔らかな砂地にゆっくりと横たわったのを見て、レイは剣を両手に水面近くを物凄いスピードで泳ぎ始めた。



海を駆る。



しかし、レイは島に近付いたところで動きを止めた。
水面から顔を上げる。

震えが、とまらない。


「……なんだよ、これ……」


美しき薄氷の瞳は大きく見開かれて血走り、唇には血の気がない。
吐き出す声までもが震えていた。

ここから程近いところにある港に、大きな黒い艦が何艘か停泊しているのが見える。
島の中からは――――






「ヒトの……気配が、しない……!?」




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