井上大地の事件簿。1
深夜の社内。
事務職の連中が帰って常夜灯だけが灯る薄暗い廊下をサンプル片手に歩きながら、俺の口からは思わず愚痴がこぼれ落ちた。
「あー、早く帰りてぇなー」
チラリと確認した腕時計の文字盤は、既に日付を跨いでいる。
製造部勤務がキツいのは分かっていたつもりでも、この不規則な生活は想像以上にしんどくて、入社二年目に突入した今も慣れそうにない。
『井上君、製品管理室にサンプルを持って行ってくれないかな』
土下座でもするんじゃないかという勢いで俺にサンプル入りのパックとファイルを手渡してきた課長の申し訳なさそうな顔を思い出すと、ため息をこぼさずにはいられなかった。
本当はもっと早くに管理室に回せるはずだったサンプルの完成が、開発課との間にちょっとしたトラブルがあったせいで遅れ、こんな時間になってしまったのは、まあ仕方ない。
ただ、本来であればそれなりの役職者が対応して管理室に詫びを入れるべきところを、下っ端の俺に行かせるというのは上司としてどうなんだろう。
自分にも他人にも厳しい製品管理室長と顔を合わせて、サンプル完成の遅れについて手厳しく指摘されるのが怖いんだろうなというのは分かるけど……。
俺だって、あの室長は怖い。
“サイボーグ”の異名を持つ男前の堅物エリート、数見忠広室長の顔を思い浮かべて、俺はサンプルを投げ出してそのまま直帰してしまいたい気分になった。
待ちくたびれて、既に帰ってくれていたりすると個人的には超ありがたいんだけど。
「うわ、電気ついてるし」
どんな仕事も完璧にこなす責任感のかたまりのようなエリート室長は、サンプルの完成を待っていたらしい。
製品管理室には明かりがついていて、こんな時間まで残業させてしまったことで数見室長の機嫌が急降下してしまっているんじゃないかと思うと、目の前のドアを開けるのがひたすら恐ろしかった。
「ん? 話し声……?」
さすがに室長以外の人間は帰っているだろうと思ったが、他に誰か残っているんだろうか。
中から微かに聞こえる声に耳を澄ませて、俺は自分の幸運に感謝したくなった。
「西先輩じゃん!」
数見室長と何かを話しているらしい相手の声は、営業四課の稼ぎ頭である西陽介先輩のものだった。
営業部の人間と直接的なつながりはあまりないものの、体育会系気質で兄貴肌の西先輩はよく若手社員を集めて飲み会を開いてくれている。
出会った瞬間「お前、軽そうだな」の一言で俺を軽い男認定した先輩は、自分自身もチョイチョイと要領よく遊ぶ軽い男らしく、「そういう軽さは重要だぞ、社会人としても男としてもな」と、入社以来軽い男仲間として俺を可愛がってくれていた。
どちらかと言えば“精悍”という言葉がピッタリ当てはまるような、男らしい硬派なイメージの西先輩だけど、アレでかなりの武勇伝を持つ遊び人というのだから、要領のよさに脱帽するしかない。
というか、話すとそれなりに軽い感じはするけど、そこまで遊んでいながら女の気配をまったく感じさせないのが凄い。
滲み出る軽さを隠しきれず、弟達にまでヤリチン扱いされる俺とは別次元の遊び人なんだろう。
西先輩がいるなら、数見室長の氷点下の視線にもフォローを入れてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を胸にそっと製品管理室のドアを開いた俺は、次の瞬間、自分のうかつさを死ぬほど後悔する羽目になった。
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