▼里菜さまへ捧げます
私には現状を知る術はない。今が朝か昼か夜かも分からないし、勿論社会状況も同じだ。他にも時間だって友達だって家族のことですら情報が入ってこない。そもそも私にそういった類いの人が居たのだろうか…?そんな思考の中ただ一つ、私にだって唯一認識している事がある。それは自身の生だ。己を見失おうとも辛うじてそれだけは理解出来た。何もすることが出来ない私が漸く挙げられた成果だった。
どんな情景を思い浮かべれば楽になれるのだろうか。それは無駄な努力だってことは何となくわかる。今までだって色々忘れて来たことがあったが、最近はそれが顕著に現れているような気がして焦りが生まれた。が、一度眠りに就いて目覚めた後は何に焦って何に怯えていたのか殆ど…いや、全くと言っていい程覚えていないのだ。しかしいくらなんでも可笑しい。昔はこんなんじゃなかった筈。だけど、その思い描いている昔ってなんだろうか…?いつの事を指しているのかも判断にあぐねてしまう。だから今の惨状を如実に伝えることはこの先きっとどう足掻いても無理だろうと悟った。
「お待たせしました><ちゃん、起きたの?」
「?…ゎだ、じ、」
「もう、ちゃんと口回り拭かないと汚いでしょ?」
そう言いながら近付いてくる男の顔はこの暗い部屋に居る限りはっきりと拝むことは叶わない。入室する際射し込む頼りない光では輪郭を臼ぼんやり写すのがやっとの様だ。
これは彼が頻繁に訪れるので完璧に忘れきる前に記憶が上書きされ漸く頭の片隅に残っている情報だが、何方か知らない彼が毎回私を訊ねていることは言動からそれとなく察することが出来た。
そしてその人はだらしなく開けられた口元から流れる唾液をぐいっと少し強めに拭った。容赦なくぐいぐいされる。イタイ。
「それにしても、」
「ぅぐっ」
続いて無造作に髪を掴まれた。またもや効果音でも付きそうな程勢い付いて上に向けられる。僅かに溢れ落ちる自身の掠れた呻き声が静まり返る室内に小さく響いた。
「この髪も随分長くなったよね。…とっても綺麗だよ、凄く似合ってる。だから言ったんだ、髪を伸ばしたらって。早く僕の言うこと聞いてればよかったんだ。お待たせしました><ちゃんはずっとショートを好んでいたみたいだけど僕の予想はピッタリ当たったでしょ!」
「………」
「ねぇ、褒められたら“ありがとう”だって何度言えば覚える…?」
「ぁ、り…どぅ」
「良くできました」
ふわりと纏う雰囲気を和らげた目の前の男は髪を握っていた手を放し、するりと頬を撫でる。その手付きはとても優しいものだった。そう、何も持ってない私がすがり付きたくなる程には神々しく映った。まるで慈しむかのようなその動きに目を閉じた刹那、とんでくる衝撃。追い付かない思考。一体何が起こっているのだろうか。
「誰が目を瞑っていいと言った?開けろ」
「………」
「何か言いたげだ。でもお待たせしました><ちゃんは殆ど喋れないから意味ないけど」
だって僕がその喉を潰したんだもの。
くすくす、本当に楽しそうに笑っている。何がそんなに愉快なのだろう。私はこんなにもイタイのに。あっちこっち熱を持っているカラダも、涙を流しているこのココロも。
「初めはね、キミを見ているだけで良かったんだ。例えば土方さんの隣に居ても」
だけど、
いつしか楽しげに笑うその表情も、優しげに緩められたその眼許も、照れた時の指先を弄るその仕草も。全てを僕のものにしたくなった。誰にも触れさせたくなくなった。勿論他者の視界にだって入れられたくなかったよ。そうしたらお待たせしました><ちゃんは言ったんだ。『今の沖田くんはちょっと変だよ』って。あぁ、こうも言ってたね。『怖いから近寄らないで』って。僕は傷ついた。とっても傷ついた。それっきり目線だって合わせてくれないし、会話なんてもっての他。見せつけるかの様にいつも土方さんにべったりだった。僕はそれだけはやめてってあれだけ言ったのに。悔しかった。悲しかった。どうして僕を選んでくれないのだろうと何度も自身に問いかけた。…残念ながら答えなんか出やしなかったけど。それから暫くしてね、とてもいい情報を手に入れたんだ。お待たせしました><ちゃんの幼馴染の平助のお陰でさ。この僕が言うのもなんだけど彼も大概いい趣味してると思うよ。
だって、この
“監禁”
だって彼の話からヒントを得たのだから。
バラすなよって言ってたけど、言うはずないじゃんね。こんな有益なオハナシ。
それからこの案を決行するまでの間、とてもわくわくしたなぁ。毎日飽きずに昼夜問わずお待たせしました><ちゃんとのことばかり考えた。キミが来たら何して遊ぼう、とか、どんな話をしようか、とか。そうしたらだんだん興奮してきて三日三晩寝られなかったのは記憶に新しい。
それなのにさ、
お待たせしました><ちゃんときたら大人しく声を掛けても全然話を聞いてくれないし、仕方ないから無理やり連れてきちゃった。抵抗された時の手の甲の傷、まだしっかりと残ってるよ。深かったから。見る?ほら、ここ。これを見る度嬉しくなってさ、今じゃ暇さえあれば撫でてるの。愛おしいんだ、お待たせしました><ちゃんと一緒で。
そう言えば、
この部屋ね、女の子ではお待たせしました><ちゃんが初めてなんだよ。嬉しい?そうだよね。良かった喜んでもらえて。
でもさ、
可笑しいよね。あんなにじたばたしたの。どうして?酷く錯乱していたみたいで驚いた。だってあんなに取り乱したお待たせしました><ちゃん見たことなかったもん。思わず手足に装着させた鉄枷なんて意味なかったね。あれはキミが悪いんだよ、僕の言うこと聞いてればこんなことにならなかった筈なのに。きっと複雑骨折してるだろう、その四肢は。
彼は語る。嬉々と語る。
ホントは可哀想だから病院にも連れていってあげたかったんだけど、奴等に見付かる訳にもいかなかったからしょうがない。なのにお待たせしました><ちゃんときたら泣き喚いて我が儘ばかり言うんだもん、困っちゃうよね。この綺麗な顔だけはとっておきたかったから打たなかったけど、これも仕方ない。身体中赤黒く腫れちゃったけど服着てれば気にならないし。それでも諦めなかったから喉潰したんだけど。他にもいろいろしたなぁ。手入れの行き届いた爪は剥がして大事に保管してあるし、土方さんに先を越された唇も膣内も僕でいっぱい埋め尽くしてあげた。これだけお待たせしました><ちゃんにこの身を捧げてるのに最近じゃ記憶をなくして自分を守ってるんだね。僕が『沖田総司』だって忘れちゃってるみたい。
「………」
「お待たせしました><ちゃん、無理だって分かってるけど もう一度だけでいい、あの笑顔で名前を呼んで…」
「…?」
「っ…こんなに傷付けちゃってごめんね、」
「………」
「こんな風になるなら、キミを、好きになんて…ならなきゃ良かった……っ」
目の前の『沖田総司』と名乗る男が唐突に顔を歪めて静かに涙を流し始めた。急に変わる態度や雰囲気に困惑する。何をそんなに後悔しているのだろう?涙を流したいのはこちらなのに。身勝手だよ、そんなの。ねぇ、今の話って私の事なんでしょ?
刹那、忘れていたこれまでの出来事が走馬灯のように甦る。…そっか、私、この人に監禁されてあまつさえ愛されていたのか。今までの仕打ちは愛情の裏返しだったとでも言うの…?
そう思うと胸にストンと何かが落ちてきた。納得、出来たのだ。ここに来るまでの行動の意味が。ずっと気付きたくなくて知らない振りをしていた。心地好い友人関係を崩したくなかった。だからいきなり豹変した彼に恐怖したのだ。非は少なくとも私にだってある。彼を避けるだけでなく、話すらまともに聞いてあげなかった。なら沖田くんはどうやって私に気持ちを、思いを伝える?…こうやって無理矢理するしかないじゃないか。ここまで追い詰めちゃったのは私なんだ…。ごめん、ごめんね。愛してあげられなくて、純粋だった貴方を曲げてしまって、本当にごめんなさい。
でも、この動かない身体ではどうにもならないや。沖田くんを抱き締めてあげることすら出来ないよ…。
「お待たせしました><ちゃんもいい加減疲れたよね?…僕も何だか疲れちゃった」
「…っ」
「もういっそのこと一緒に逝こうか。そして来世(つぎ)こそは二人で幸せになりたいなぁ」
ねぇ、泣かないでよ。そんな寂しいこと、言わないでよっ…!
こうさせてしまった原因は私にだってあるんだ、大丈夫、生きていればまた一からやり直せる…!今度こそ私は貴方を受け入れるから!だから、
「……っ」
「もう時間がないんだ、時期にここに警察が来る。離れ離れになるくらいならいっそ…」
「………」
「………」
「………ゎ…った。ぃ、…ょ」
「…え?」
「ぉ、ぎだ、…んど、ぃっじょ…ぃぐ、」
「ホント…?ぼ、僕と一緒に逝ってくれるの…?」
こくん、精一杯声を出して頷く。今の私にはこれくらいでしか償うことが出来ないから。
意識がしっかりしてきて悟ったのは最早先が長くないことと彼の痛くほど深くて重い愛情くらいだ。よく分からないけれどどうやら血も多く流したらしい。元々視界も良くなかったが目すら霞んできた。
「ありがとね、お待たせしました><ちゃん」
頬を両手で挟まれ額がこつんと合わさる。漸く沖田くんの顔がはっきり見えた。…なんだ、綺麗に笑うことが出来るじゃないか。さぁ、もうこれで最後だ、しっかりと目に焼き付けておいてあげる。
「来世(こんど)こそ幸せにするから、」
それまで待っててね。
あんまり遅いとどっかに行っちゃうんだから。早く迎えに来てね
「総司くん」
「っ!」
ありがと、大好き、愛してる、さようなら、またね、
たくさんの気持ちと共に私の胸に銀色のナイフが突き刺さる。途切れる意識の中、最後に見えたのは幸せそうに自身にナイフを食い込ませる歪んだ愛を持った男の姿だった。
(来世 - こんど - こそ僕を愛して)