スカーレット・フレイム


 まだ少し冷たい夜の風がゆるりと吹く朝焼けの下、僕は足早に歩を進めた。
 纏わりつく重く沈んだ黒い風を引き連れて。
 川を渡り、木々を抜け、坂道を上れば、いつもの丘へ。
 約束なんかしていない。
 何時だって、何処だって、僕たちは約束などしないのだ。


 なだらかに傾斜するその丘にはかつての様すら思い出せないほどに、小さな白い狐桜がどこまでも平らかに咲いていた。
 辺りをぐるりと見渡せば、むこうの小高い林の側によく知る白皙の横顔を見付ける。
 彼の両手からは紅色が溢れていて。振りかえった瞳は僕を捉えると、唇はその名前を象って。
 僕が駆け寄る速度よりもゆっくりと、掌の小さな花が一輪はらりと散った。


「お前が来るまでには間に合わなかったな」
 背にした木々の根元を見やると、両手を広げたくらいの大きな穴が掘ってあり、その中には紅い狐桜がどっさりと捨てられていた。
 きっとこの丘咲いていた紅色の花だけを摘み取ってここに運んできたのだろう。
 丘を見やると所どころ草花が薄くなっている箇所が見て取れた。
「もう少しで埋め終わるはずだったのだが……。だめだな、俺は、いつも間に合わない」
 今度こそ、おまえにはきれいな景色を見せてやりたかったのに。
 さみしそうに笑う桂に僕は何も云わず、その手を引張り彼を道連れにへたり込む。
 選別された紅い花はぱらぱらと彼の手を離れ、僕たちの足元を鮮やかに濡らしていった。


 花の絨毯に座りここから見下ろす風景は、明け方の薄暗い空気に狐桜のその白さが不自然なほどくっきりと浮かびあがっていた。
 彼はどのくらい一人で花を摘み取っていたのだろうか。
 もう少し早く来ることができたなら、一緒に手伝うこともできただろうに。
 けれども桂はいつだってこのような漂白の工程を僕にだけは見せまいとしていることも知っているから、これでよかったのかもしれない。


「狐桜というのはな、桜草に化け損ねた花、という意味だそうだ」
「ふうん」
「でもこの花自身は桜草になりたかったのだろうか」
「さぁなぁ」
「本当はこの姿こそが目指した形なのかもしれないだろう」
「そうかもなぁ」
「……彼らは、何に成れたのだろうな」
 そう云って桂は地に手をついて静かに呟いた。

 例えば。かつて踏み荒らしたこの丘や、目を瞑ればいつでもくっきりと現れる黒い影達も。
 本当は何かになりたかったなんて。なれるはずだったなんて。
 覚束ない目的や存在しない選択肢を遠い次元から夢想するようなそんな救いのない話は、僕はごめんだった。
 けれども二人で占めたこの早天の下で。あの時節に置き去りにされた彼の心が、それでも尚、喪った分岐の前でひとり立ち尽くすというならば。
 僕と君の選択は間違っていなかったのだと、確かに証明するように。繋ぐ手の、感触に、感覚に、願いを込めて。花に埋もれたその手を取るよ。

 一陣の風が君の髪をさらってゆくけれど。
 強くしっかりと握り返された掌に、僕は少しだけ泣きたくなった。



 もうすぐ夜は明ける。
 キノコの雲がぷくりと浮かび、黄色いカラスが渡ってゆくような。何時だって、何処だって、そう変わらない景色を迎え。
 そしてまた、無意味なものや大切なものをひとつひとつ捨ててゆかなければいけない時代が来たとしても。
 何度だって僕たちは。色とりどりに咲き乱れる花に目を瞑り、薄墨に滲む影の唸りに耳を塞ぎ。
 そうやって二人はいつまでも。同じ空の下で、同じ時の元で。
 息を詰めるように、生き続けてゆくのだろう。

 空に咲き誇る大輪の花弁がくるくると動きだす。
 君はふわりと笑って今来も僕を許すから。
 霧は晴れ、二人で朝に夢を見る。









Lots of love for your birthday.
生まれて、来てくれて、本当にありがとう!



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