陽炎


 官邸の執務室の奥に無理を云って作らせたのは、六畳程の小さな和室だった。防犯上窓を開けることは禁じられていたが、障子から差し込む橙色が黄昏時を知らせている。
 床の間にひっそりと立てかけられた三絃には、弦は張られてはいない。 
 あれからどれほどの月日が流れたのだろう。ほんの数時間前の出来事のようにも思えたし、何年も前の風化した記憶のようにも思えた。
 
 哀しくなど、なかった。
 悔恨も憐憫の情も持ち合わせてはいなかった。
 彼は彼の義務を果たしたし、私は私の為すべきことを成しただけなのだから。

 ひたひたと滴る赤から生み出された泉は、うっそりと笑うその唇から伝う線と同化する。
 その志と命の結実は、私だけが知っている至上の誉。

 その完成された一つの芸術の前に、己の不純な情致などなんの意味もなさないことは充分に解っているけれど。
 たとえばこうして業務の寸暇に。橙に染まりゆく畳に座し障子に映り往く木々の影絵をぼんやりと眺めて想うのは、粋狂で愚かなうたかたの慕情。
 もしおまえが私の進む道を阻もうとするならば。いつだって刀を抜いてその臓を仕留める覚悟は出来てきたのに。
 もし私がおまえを憐れむ事ができたなら。朽ちゆく身体を引きずりながらも諦念を踏み越えるその滑稽な生き様を嘲笑うことも、その強靭な狂気に優しく微笑み返すことすらも出来たはずなのに。
 拒絶も同情も持たない愛情は、形を成すことは叶わないほどに果敢なくて。
 それでも尚、いや、それだからこそ。渺茫な景色に咲くただ一つの華だった。
 こんな頼りない愛だけど。昔も今も、確かにおまえを愛しているんだよ。



 今はもう。追うものも無く、追われるものも無く。穏やかに過ぎてゆく平和な日々の中。
 とんとんと揺れ響く音に続いて、くぐもって聞こえる懐かしい声に、障子の向こうの鉄枠の二重窓をこじ開けた。

「よう、ヅラ。ちょっと遊びに行こうぜ。神楽も久しぶりに帰ってきてるんだ」

 眼下にぶら下がる銀髪の幼馴染は、その人並み外れた身体能力で二階にあるこの窓外の格子までよじ登ってきたらしい。外の喧騒が徐々に高まる。それもそのはず、こんな派手な侵入者なぞ見つかるのも当然のこと。
 暫く振りに会う彼はそんなことは気にも留めず、相も変わらず気だるそうにこちらを眺めた。
 遠い昔、教室の片隅で。身に余る刀を握りしめながら、私たちを一瞥したあの時と同じ瞳で。

「いかねーの?」
「もちろん行くとも」

 窓枠に手をかけ、身を乗り出してみる。このくらいの高さなら、今でも余裕で飛び下りられるはず。
 開け放たれた窓の向こうには、日の出と見紛うほどの金色の夕暮れ。
 目指す先は、変わることのなかった見慣れた街並み。



 ああ、やはり。
 夢を見ていたんだ。長い、夢を。
 それは決して愉快で朗らかな夢ではなかったけれど。
 水面を静かに滑りゆく月影のように。
 清浄で美しく、優しい夢だった。







 

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