□一、曇天



 長州を始めとする尊攘派志士が旅籠池田屋にて会合中、新撰組に急襲され、多くの死者を出した池田屋事変。
 あの血生臭い事件から数日後、京の町にはもとの賑わいが戻りつつあった。
 活気のある客寄せの声に混じって根も葉もない噂に世間話や与太話、声が声を呼び、通りはいつもざわざわとしていて人の気配が絶えない。
 薄暗く湿った路地裏でじっと様子を窺う銀髪の少年──北村鈴。
 澱んだ目に光はない。身に纏う黒い着物は乱れ、薄汚れた灰色の袴には血が付着し点々と赤黒い染みを作っている。鈴は袴と同じ色の布が巻かれた物──やはり血で濡れている──を大事そうに抱えており、唯一彼の意思のようなものが見て取れた。
 生ぬるい風が髪を揺らす。
 太陽が翳る。
 鉛色をした厚い雲が空を覆っていく。

「なんや? えらい騒がしいなぁ。何かあったん?」
「おう。何でも女が浪士数人に追いかけ回されとんのやと」
「見かけた連中が言うにはその娘、妙な格好しとるらしいで。異人かなんかとちゃうかって、あっちこっちで噂しとるわ」
 鈴が町人達の話をぼんやりと耳に留めた時だった。
 たったったっと軽い、しかしリズムの定まらない不安定な足音が聞こえてきた。次いで遠くに罵声。京の往来で聞くには違和感を覚える訛り声だ。
「おい、噂をすりゃあ…」
 先程ちょうど件の話をしていた男が声を上げた。
 帯刀した男達が追い、丸腰の女が逃げる。更に女の方は怪しい身なりと。事情を知らずとも、道行く人の目を引くには十分過ぎる光景だ。
 そうして間もなく鈴も目撃者の一人となった。


 砂埃にまみれて汚れており、布が擦り切れた部分には血が滲んでいるが、現れた女は噂通り奇妙な格好をしていた。ようやく鈴の位置からもその全貌が明らかになった途端、女は足をもつれさせて地面に転がった。
 荒い呼吸を繰り返して起き上がった女は、路地裏で息を潜めていた鈴の存在に気が付いて僅かに目を丸くした。そこに不思議と怯えや警戒の色は見られない。あどけなさの残る少女の表情だった。純粋な驚きだけを宿した瞳がまっすぐに鈴を見つめている。鈴の方は女の姿を視界に映している程度に過ぎなかったが、確かに二人の目が合った。

「お互いそろそろ鬼ごっこにも飽きてきた頃じゃろ、どうじゃ女。ここらできっちり落とし前つけるちゅうのは」
 視線が途切れる。

 近付いてきた足音にはっとした女が勢いよく振り返った。だが次の瞬間、一変して顔を青ざめさせると「あ、あぁ、ぁ」と引きつった声を上げながら後退る。限界まで見開かれた目は瞬き一つしない。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙が血と泥で汚れた頬を濡らし、その体はがたがたと震えている。
 女の視線の先、鈍く光る刃を見た鈴の脳裏に──あの夜。腕を、首を、壬生浪によって斬られた状態で赤い海に沈んでいた。師・吉田稔麿の変わり果てた姿。咽せ返るような血の匂い。冷くなった躰──"死"がよぎった。
「………」
 壁についた腕を支えに鈴がゆらりと立ち上がる。何かに取り憑かれたように素早く柄に手をかけると、音もなく刀を抜いた。後家鞘を構えた鈴が歩を進め、白日の下にその身を晒す。そして、女を背に庇う形で浪人達と対峙した。
 暗がりから突然出てきた鈴はその風貌も相まって、彼らから見ればさながら幽鬼のようであった。
「あぁ!? なんじゃ、てめぇは」
 返事はない。

 状況を飲み込めていないのは女──名字名前も同じだった。呆然と目の前に現れた男を見上げる以外、今の彼女には手段がない。
 透けるような銀色の髪にまず目を奪われた。身なりこそ名前と同様、否それ以上に酷い有様ではあったが、その佇まいは凛としていた。背格好は青年というよりは少年と呼ぶ方がしっくりくる。自分を追いかけてきた連中と比べると幾分か幼く感じた。
「は、しれ…っ」
 沈黙を破ったのは鈴だった。
 しかしあの日から三日三晩声もなく涙を流し続け、ろくに水すら摂っていない。そんな状態で無理矢理喉の奥から絞り出された声は酷く耳障りだった。
「え?」
 名前が聞き取れないのも無理はない。
 げほっと何度か咳き込んだ後、動こうとしない彼女に痺れを切らした様子の鈴は肩越しに振り向くともう一度叫んだ。
 強い光を湛えた赤い瞳が名前を射抜く。


「────行け、早く…!」


 遠ざかっていく足音を聞きながら鈴は後家鞘を構え直した。
「何してくれとんのじゃあ、餓鬼ィ!!」
 金属音が響く。正面から振り下ろされた刀を上段で受け止める。草履を履いていない足がず、と後ろに下がった。
 ぎりっと奥歯を噛み締めた鈴は渾身の力を込めて刀をはじき返した。だが距離をとった鈴が体勢を立て直すよりも早く、別の男が斬りかかってくる。寸でのところでかわすも、鈴の息はすっかり上がっていた。
「何じゃもう仕舞いか? さっきまでの威勢はどうしたよォ兄ちゃん」
 嗤い声が上がる。鈴は顔を悔しげに歪ませたが、男達の油断が生んだ好機を見逃しはしなかった。薄笑いを浮かべて近付いてきた一人に足払いをかけ、奥にいた連中を咄嗟に掴んだ砂を投げて怯ませる。
 その一瞬の隙をついて、鈴は身を翻すと逃げ出した。



(20201012 再掲)
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