※微グロ描写有


□二、驚天動地


 名前は走っていた。
 既に満身創痍だ。拭っても拭っても視界が歪む。息を切らしているにも関わらず勝手に嗚咽が洩れてくるものだから、うまく息が出来ずに何度も噎せた。
 嬉しかった。ただ、嬉しかった。


 ────回想。

 名字名前は現代においてごく普通の生活を送る一般人だった。
 些細な不満こそあれそれなりに幸せだった。そんな当たり前のように享受していた彼女の日常が崩壊したのはほんの数日前のことだ。何の前触れもなかった。

 名前は荒れ果てた空き家で目を覚ました。知らない場所だった。それどころか一体いつ眠ったのかも覚えていない。
 自分の名前や親の顔、昨日何をしていたかなどは簡単に思い出せるのに対して、どうしてここにいるのか、その問いの答え或いは手掛かりとなる今一番重要な目覚めるまでの記憶はひどく朧気で曖昧だった。
 思考を巡らせている内に、名前は異変に気付いた。
 嗅いだこともないような悪臭が辺りに充満していた。薄暗い室内を見渡す。すると歪に盛り上がった物体を部屋の奥で見つけた。

 死体だった。
 若い男が黄色く濁った眼を剥き、血を垂れ流して死んでいる。ある程度の時間が経っているのか、血は黒く変色しており虫が集っている。吐き気をもよおす光景だった。実際吐いた。
 その後現場に運悪く、あの浪人達が来てしまった。
 肉塊と化した仲間と、その傍らで放心状態に陥っている怪しい女。
 殺害の疑惑が名前にかけられるのは当然の成り行きだった。だが彼女は偶然居合わせてしまったに過ぎない。そもそも目覚めたときには既に事切れていたのだ。しかし名前がやったという決定的な証拠こそ無いが、同時に絶対にやっていないと証明できるものもなかった。
 突きつけられた刀に脅えながら彼女がいくら口で説明したところで、頭に血が上った男達が聞く耳を持つはずもなかった。
 疑いは晴れず、捕らえられた名前は空き家の隅に転がされた。上から頭を強く押さえつけられたり、乱暴に髪を掴まれたりして小さな傷はいくつも出来たが、動けなくなるほどの怪我だけは何とか免れた。
 一夜が明けて、やれ花街だなんだと浮き足立つ浪人を後目に、名前は祭りの賑わいに乗じてほうほうのていで逃げ出した。
 何故こんなところに来てしまったのか。その理由は分からなくても、自分という存在が異質であることは人から向けられる目を見れば明らかだった。
 好奇の視線を投げこそすれ、誰一人として関わろうとはしない。皆、自分と違う彼女が恐ろしいのだ。
 故に名前は諦めていた。助けてくれる人間なんていないと思っていた。

 不意に、遙か頭上で烏が鳴くのを聞いた。


 それは突然だった。彼女の意思に反してその足は完全に止まってしまった。
 やはり名前はもう限界だった。
 立っているという感覚すら分からなくなり、ついには膝からがくりと力が抜ける。どうしてこんな時に、名前は愕然とした。動かない。やり場のない怒りをぶつけようにも満足に指一本動かせない。どうしようもなく悔しかった。
 崩れ落ちそうになる直前、横から腕が伸びてきて名前は裏道に引っ張り込まれた。
「おい! こっちだ」
 鈴だった。彼の髪は暗がりでもすぐにそれと分かるくらい目立つ。鈴は名前の背中を押して自分の前を歩くように促した。
 彼の声に従って曲がりくねった細道を奥へ奥へと進み、立ち並ぶ長屋の陰に二人は体を滑り込ませる。周囲を警戒していた鈴が暫くして撒いたかと小さく呟いたのを聞いて、ようやく名前も少し肩の力を抜いた。
 呼吸が整うのを待って鈴に呼びかける。「あの、」尚も視線を巡らせていた目が動いて彼女を見た。
「助けていただいてありがとうございました」

 無言。
 そして聞こえてきた足音に、名前が弾かれたように顔を上げた。
「ま、待って、」
 一瞥もせず遠ざかっていく背中。
「お願い、置いていかないで」
 ついさっきまで命の恩人と感謝していたくせに、脳がぐるぐると呪詛の言葉を吐き出していく。
(中途半端に助けるくらいなら、どうして最初から、)
 心臓の音がうるさい。
 諦観と絶望の中にいた名前は、鈴によって救われ一縷の望みを見てしまった。最早知る前には戻れない。一度手にした希望を再び手放すことなど出来なかった。

「独りは嫌なんです…っ!」
『独りは嫌です――…っ!!』

 鈴が、足を止めた。



(20201014)
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