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君の愛を知らない


 青い空を見上げて、小さく息を吐いてからモップを握りなおす。
 今日の仕事は甲板の掃除だ。
 白ひげ海賊団が綺麗好きなのか大概の海賊団が綺麗好きなのかは分からないが、時々転がって眠っている連中もいる以上、甲板を磨くのは大変大切な仕事だと俺は思う。
 ごしごしと擦れば擦るだけ綺麗になるのはありがたいことだ。
 最後の一拭きを終えて、よし、と声を漏らしたところで、真後ろから大きく足音が聞こえることに気がつく。
 それが誰の足音かわかったから、俺はぐっと足をつっぱって振り向いた。

「ナマエ!」

 そうして俺の予想通り、俺が掃除を終えるのを見て走ってきたらしいマルコが俺へと飛び掛ってくる。
 やはり俺の力は足りず、マルコの攻撃によって俺の体は後ろへ傾いだ。どうにか頭を庇えば、犠牲になった腕が痺れる。痛い。
 俺の怪我が全快するまではなくなっていた『これ』も、船医から全快したと太鼓判を押された先週から復活していた。
 そろそろヘルメットか何かを導入したほうが、俺の安全上いいかもしれない。

「マルコ、危ない」

「悪かったよい」

 真上から俺を見下ろしたマルコが、心にも無い謝罪をして笑っている。
 前を空けたままの服装だから、真下にいる俺からは、マルコの鎖骨や胸板がよく見えた。
 刺青を隠すことなく晒すマルコに小さく息を吐いて、とりあえずマルコごとその場に起き上がる。
 見やった先ではモップが倒れていたが、バケツは無事だった。

「もうそっちは終わったのか」

「終わった! ナマエも終わったんだろ? おれと一緒に飯だよい」

「決定なのか」

「決定に決まってんだろい!」

 言いながら笑顔で立ち上がったマルコが、俺へと手を差し伸べた。
 ありがたくそれに捕まれば、ぐいとひっぱられて立ち上がる。
 マルコはすぐにモップを拾い上げたので、合わせて俺もバケツを拾い上げた。
 とりあえず片付けに行こうと言えば、頷いたマルコが俺の隣に立って歩き出す。
 歩きながらたくさんのことを話すマルコに相槌を打って、マルコが呼ぶ俺の名前を聞きながら、俺はそのままマルコと一緒に食堂へと向かった。







「ヘルメットが欲しい? 何でだよ」

「分からないのか、サッチ」

 食事が終わってマルコが自分の仕事へ戻った後、午後の空いた時間を厨房の手伝いに当てることにした俺は、皿を洗いつつ傍らを見やった。
 俺の洗った皿をせっせと拭いて片付けながら、少し考えるようにしたリーゼントの彼が、ああ、と言葉を零す。

「マルコの所為か」

「俺の脳細胞が全て死滅する前に保護したい」

「ははァん、なるほど。……でもよォ」

 率直な俺の意見に頷いて、その上でサッチが言う。

「ナマエ、いつも踏ん張ろうとして失敗してるじゃねェか。マルコが来るって分かるんだったら避けりゃいいのに」

 寄越された言葉に、ぱち、と俺は瞬きをした。
 避ける。
 なるほど、そういえばそうしようと考えた事がなかった。
 俺の顔を見て俺の思考を読んだのか、サッチが呆れた顔をする。

「やだわこの人、まったく考え付きもしなかったって顔してやがる」

「いや、考え付かなかった。そうか、避けるか」

「そうそう、避ける。相手の攻撃を避ける練習にもなるんじゃねェの?」

 かちゃかちゃと皿を鳴らしながら洗い終えたものを積んで、ふむ、と俺は頷いた。
 確かに、避ければマルコの攻撃で倒れる心配は無くなる。全部を避けられるとは思えないが、それでも頭を打つ可能性が下がるのは確実だ。
 けれどもそうすると、突っ込んできたマルコはどうなるだろう。
 今日のように飛び込まれたら、俺が避けた場合、マルコ自身が正面から甲板に叩きつけられるんじゃないだろうか。
 想像した結果にあったマルコの痛そうな様子に、俺は少しばかり眉を寄せた。

「……駄目だ、マルコが転ぶじゃないか」

「………………」

 がちゃん。
 どうしてか大きな音が鳴って、俺はちらりと傍らを見やった。
 けれども、サッチは平然と皿を拭いている。皿を落としたのかと思ったが、足元に破片は見当たらない。
 どうしたのかと皿を漱ぎながら視線を注いでいると、なぜかサッチは大きくため息を吐いた。

「……おれ、お前ら時々嫌いだわ」

「……」

 リーゼントの癖に、サッチが妙に酷かった。







「ナマエ!」

 声と共に、本日も俺の背中は甲板とご対面した。
 だんだん頭を打たない受身を取れるようになってきた自分の成長が嬉しいのか悲しいのか分からない。とりあえず今日は背中が痛い。

「……マルコ、痛い」

「悪かったよい!」

 この会話もいつも通りだ。
 見上げた先で笑顔のマルコは、青空を背中にして俺の真上を陣取っている。
 体の上から退かしながら起き上がれば、マルコは俺の足の上に座る格好になった。

「何でいつも飛びついてくるんだ?」

 とても今更だが、とりあえず聞いてみる。
 俺の問いに目を丸くしたマルコは、今更聞くのか、と首を傾げた上で、笑顔で答えた。

「そこにナマエがいるからだよい!」

 何だろうか、その登山家のような理屈は。
 笑っているマルコの前で、俺も首を傾げる。
 不思議そうな俺を見て、マルコの両手が俺の腕を捕まえた。

「触れば、ちゃんとナマエがそこにいるって分かる」

「……マルコ」

「……触れなくなったりしたら、嫌だからねい」

 少しばかり笑顔が翳ったのを見て、俺は数回瞬きをした。
 何となく思い出したのは、小さなマルコが自分の世界に帰ったあの日のことだった。
 一生懸命伸ばしてきた小さな手は俺に触れず、俺が伸ばした手もマルコには触れられなかった。
 マルコが飛び掛ってきて、俺に触れないということは、つまりはああいった状況に陥っているということになる。
 どうやら、マルコはそれが不安らしい。
 小さく息を吐いて、そういえば言っていなかった、と思い出した俺は、マルコを足に乗せたままで口を開いた。

「マルコ、俺は多分、もう帰れないんだ」

「……ナマエ?」

「俺は、向こうの世界では死んだから」

 トラックに撥ねられたあの日のことを、俺は覚えている。
 感覚は忘れてしまったが、とても痛かった。

「だから、俺はもうこの世界にしかいられないと思う。何より、お前がいたのよりずいぶん長い時間も経ってるしな」

 俺の言葉に、マルコは目を見開いた。
 どうしようもなく驚いた様子のマルコに、小さく笑う。
 次の瞬間には足の上の重みが無くなって、そう思ったときには正面から与えられた衝撃に起き上がったばかりの体を真後ろに倒されていた。
 甲板に頭をぶつけて、ごちんと大きく音が鳴る。とても痛い。

「い……っ」

「ナマエ、ナマエ、ナマエ、ナマエ!」

 この世界で俺をはじめて『俺』だと認識したときのように、マルコが人の首に抱きつきながら俺の名前を連呼した。
 よく分からないが、あまりにもぎゅうぎゅうに抱きつかれていて、若干苦しい。
 それでも、マルコに抱きつかれて悪い気はしないので、したいようにさせながら、俺はマルコが落ち着くのを待つことにした。
 逆さまに見える甲板の上で、通りがかったクルーが何だか生温かい視線をこちらへと注いできた気がするが、どうしてかはよく分からなかった。



end

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