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お兄ちゃんと呼んだら


「ルッチ」

 ナマエが声を掛けると、もぞり、と白いシーツがわずかにうごめいた。
 その様子を眺めていたナマエが、見た目に似合わないため息を軽く零したところで、素早くシーツの下から飛び出してきたナマエのそれよりも随分と太い腕がナマエの体を捕まえる。
 それと同時に体を引っ張られて、抵抗する無駄を知っているナマエはされるがままにシーツの中へと引きずり込まれた。
 小さな体に染み付いた動きで受身を取りながら、自分の体の移動に耐えたナマエが少しばかりの身動ぎをする。

「ルッチー」

 そうしてもう一度ナマエが呼びかけた相手は、CP9最強の男だった。
 ナマエを軽く抱えるような格好のままだが、すでにその目は開いていて、どこかぼんやりとシーツの狭間を眺めている。
 ルッチがベッドに横たわってからそれほど長く経っていないことをナマエは知っているが、この時間に起きると言っていたのはルッチ自身なので、二時間足らずで仮眠を終わらせる格好になってしまった良心の呵責には目を瞑ることにした。
 その代わりに、ぺちぺちとルッチの腕を叩く。

「にんむだって言ってたじゃないか。起きろよー」

「…………」

 言葉を零しながら手を動かすナマエの頭に顎を押し付けて、ルッチが深く息を吐いた。
 その状態でまさしく抱き枕かぬいぐるみのように抱きしめられて、痛い痛い痛い苦しいとナマエが淡々と言葉を零す。
 事実、わずかに骨が軋んでいるような気すらする。
 ナマエの体がCP9の準備生としての訓練を受けたことが全く無かったら、恐らく今頃は泡を吹いて気絶していたはずだ。
 痛みに耐えてひたすらぺちぺちとルッチの腕を叩いていたナマエを、ルッチが解放したのはその状態で五分ほど経ってからだった。
 言葉もなくナマエの体を抱いたまま起き上がったルッチが、ナマエをベッドの上に放置してそのままベッドを降りる。
 バスルームへ向かっていくその背中を見送って、ナマエはやれやれとため息を零した。
 その視線がちらりとベッドサイドのテーブルを見やり、見るも無残な姿にされた目覚まし時計の冥福を祈って合掌する。
 ルッチは、あまり寝起きが良くない方であるらしい。
 隣の部屋でけたたましい目覚まし時計の音ががしゃりと悲鳴を上げて止められるのを聞いてから、ナマエがこうしてルッチを起こしにくるのはもはや習慣と化していた。
 しかし、ルッチを起こそうとしたナマエをルッチが攻撃したことは無いので、出来る男であるルッチは寝ぼけた状態でも自分の睡眠を妨げているものが無機物か有機物かの判断くらいは出来るらしい。
 出来ればそこに、『目覚まし時計は壊してはいけない』という条項も加えて欲しいものだと、ナマエは常々思っている。
 いくら無機物とは言え、指銃だのの餌食になっただろう姿を見るのは忍びない。
 一昨日その餌食となった目覚まし時計は、確かルッチの上司であるスパンダムからの贈り物であったはずだ。
 これなら壊すのも勿体無くて出来ないだろうと言い放った彼の手に乗せられていたのは、隅々が金色の少しばかり悪趣味なものだった。
 そして、当然だがそれはルッチの手により、ナマエが知っている哀れな目覚まし時計達の中でも一等可哀想な姿で破壊された。
 今日の目覚まし時計は、カリファが『今日の分よ』と言ってナマエへ渡してきたものだ。
 もはや、CP9の中ではルッチの破壊する目覚まし時計の購入費用が必要経費として計上されているのではないだろうか。何と言う無駄だろう。

「おい、ナマエ」

 しみじみそんなことを考えていたナマエへ声がかかり、小さな彼が視線を向けると、バスルームから姿を現した半裸のルッチが、怪訝そうな顔でナマエを見ていた。相変わらず烏の行水だ。
 ぼたぼたと黒い髪から水を零し、それをタオルで軽く拭いながら寄ってきた相手に、ナマエは首を傾げる。

「なに?」

「何をぼんやりしている。さっさと仕度をしろ」

 不思議そうなナマエへ向かって、ルッチはそう言い放った。
 どういう意味かと目を瞬かせたナマエを見て、聞いていないのか、と少しばかり呆れた目をしたルッチが、そのままで言葉を零す。

「今日はお前も同伴だ。着替えろ」

 きっぱりと言い放たれた言葉は、ナマエにとっては初耳だ。
 どうはん、と言葉を零したナマエに、ただの情報収集だがな、とルッチは答える。
 そして、早くしろとせかされたナマエは、慌ててベッドを降りた。
 ルッチは任務に出ると言っていたのだ。初耳だが、それに同伴しろと言うことは、子供であるナマエが必要であるということである。
 事前に言われずに同伴を決められるのは初めてだが、そうやってルッチの任務へついていったことも、無いわけではない。
 だからこそ自分用にと与えられたクローゼットまで近寄ったナマエは、少し背伸びをしてそれを開いてから、ベッドに腰を下ろしたルッチへ問いかけた。

「どういうのきていけばいい?」

 問いかけに、右側の服を着ろ、とルッチは答えた。
 なるほどと頷いて、ナマエの視線がクローゼットの中へと戻る。
 そこにあるものをしげしげと眺めてから、小さな頭が軽く傾いだ。

「………………ルッチ、なんか見おぼえのないふくになってる」

 ハンガーに掛かっている服の、どれもが真新しいものに変わっていた。
 一昨日まで、確かそこには子供用の燕尾服が掛けられていたはずだ。

『この! おれの部下なら! ちゃんとした服の一着や二着、持っていて当然だろうが!』

 スパンダムが唐突に言い放ち、これから成長するだろうナマエの体の寸法を測らせて作らせたオーダーメイドだったはずだ。
 黒かったそれが、何故かミッドナイトブルーに変わっている。
 カフスボタンの意匠も違うそれを前に眉を寄せたナマエは、少し置いてから小さくため息を吐いた。
 どうやら、ルッチの『変な習性』が発揮されてしまったらしい。
 どうしてか、ルッチはナマエのもらい物を勝手に取上げて、他のものを用意するという意味の分からない行動を取る。
 毎回毎回止めろとナマエが言っても改めないし、隠しても何故かその隠し場所で交換されている。
 あれはすごく高そうだったのに、とも思ってみるが、目の前の燕尾服もまた随分と高価なものに見えた。
 とりあえず背伸びをしながらそれを手にとって、自分の体に宛てるようにしながら後ろを振り返る。

「これ?」

 問いかけたナマエに、髪を拭く手を止めたルッチが視線を向けた。
 自分の体に燕尾服の一式をあてがったナマエを眺めて、その口が軽くにやりと笑う。

「ああ、それを着ろ。今度の標的に近付くには、お前がいたほうが楽に済む」

 そうきっぱりと言葉を寄越されて、わかった、と頷いたナマエは大人しくそれへ着替えることにした。
 体は幼いが、中身は元々大人だったのだ。
 少し時間は掛かったが、ボタンの一つも掛け違えることなく着替えを終えてから、自分が脱いだ服を拾い上げて部屋の端の籠へと放り込む。後で給仕が回収していくだろう。CP9ともなると、部屋を掃除する使用人のような存在までいるのである。
 そうして振り向くと、いつの間にやらナマエと似たような格好に着替え終えたルッチが、全身鏡を前に髪型を整えているところだった。
 癖毛をきちんと整えてから視線を寄越され、来いと指先で招かれたナマエが近付けば、伸びてきたルッチの手がナマエの頭を掴む。

「わ」

 声を零したナマエの髪を撫で付けて整えたルッチは、一度手を離してから満足げに頷いた。
 どうやら、ナマエの姿はルッチの納得行く出来になったらしい。
 最後に手袋を装備したルッチの手がナマエの体を捕まえて、軽々と抱き上げた。

「行くぞ」

 言葉を落とされて頷けば、すたすたとルッチが歩き出す。
 フォーマルな格好をしてもこの運搬方法を取られるのか、といつも通り腕に抱かれて揺られながらそんなことを考えてから、そういえば、とナマエはルッチの顔を見上げた。
 今日の任務にナマエを利用するなら、ナマエには何か役割が与えられるはずだ。
 前に手伝う形になったときには、迷子とそれを保護する係員だった。肩口にハットリを乗せたまま腹話術を駆使したルッチに、正直笑いそうになったことはナマエの秘密だ。

「なあ、きょうのルッチはおれの何?」

 廊下へ出て歩き出したルッチへナマエがそう訊ねれば、ルッチが足を動かしたまま、少しだけ考えるようなそぶりをする。

「……おれは、ナマエの保護者だ」

 そうして寄越された言葉に、なるほど、とナマエは頷いた。
 同じ色の燕尾服を着ているのだから、それは確かに妥当なものだろう。
 保護者、と口の中で呟いて、ナマエはしげしげとルッチを眺める。
 ナマエの事情による精神年齢はさて置いて、ルッチとナマエの身体的年齢は、確かに随分と離れている。
 だが、ルッチを父親として呼ぶかと言うと、それは少しばかり無理がありそうだ。
 ナマエの認識では、ナマエの体は日本でなら小学校へ入学している程度には育っている。そんな年頃の子供がいるなんて、ルッチがあらぬ誤解を受けかねない。
 だとすれば、ナマエの選択肢は一つだった。

「じゃあ、にんむがんばれな、ルッチにいちゃん」

 燕尾服に身を包み、白いタイを首元に飾って、ナマエは少しばかり笑ってルッチを激励した。
 それを受けて、何故かルッチがぴたりと動きを止める。
 唐突過ぎるそれに、あれ、とナマエは目を丸くした。

「………………どうかしたか?」

 何か間違っていただろうかと、ナマエは困惑する。
 年齢差を考えれば、ルッチはナマエの兄というポジションになるはずだ。
 どこかおかしいだろうかとさ迷ったその目が、自分の服装を見下ろして、ああ、と己の失敗を発見する。
 ナマエは今、上等な燕尾服に身を包んでいる。
 だとすれば、『ナマエ』は上流階級の人間にならなくてはならないはずだ。
 そして、上流階級の人間は、『にいちゃん』などという呼称は恐らく使わない。

「えーっと……ルッチにいさま?」

 これか、と判断して口を動かしながら、ナマエが窺うように小首を傾げる。
 結果として、ルッチは更に数分の間、その場に立ち尽くしていた。

 無表情だったルッチが、その時何を考えていたのかは分からない。
 けれどもとりあえず、ナマエがこっそりと作っているルッチ観察ノートの『習性』欄には、『兄呼ばわりすると少し止まる』と追記されることとなったのだった。


end


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