暑さのせい
※主人公はなんとなくトリップ系クルー
「あっつ……」
声を漏らして、俺はごろりとその場に寝転んだ。
なついた甲板すら生暖かい。夏島とはなんとも恐ろしい場所である。
我らがモビーディック号が夏島の海域へと侵入したのは今朝のことだった。
晴れ渡る青空から照り付ける太陽は人を焼き殺せるのではないかと思うほどで、殺人的な日差しがなりを潜めた夜になっても、相変わらず暑くてたまらない。
甲板の中でも一番人のいない場所へとやってきて転がっているのだが、風ですら生暖かい。
それでも少しは体に風を受けるだけ、船内よりはマシだろうか。
だらりと頬を伝い落ちた汗が甲板へ滴ったのを感じながら、俺はごろりと板の上で寝返りを打った。
見上げた先は満天の星空で、月も明るい。きっと明日も晴れだろう。
「あー……泳ぐかなァ」
「夜だぞ、やめとけって」
水に入れば少しは楽になるんじゃないかと、そんなことを考えて呟いた俺の言葉はただの独り言だったはずだが、どうしてか返事が寄越された。
あれ、と目を丸くしてから少しばかり身をよじれば、こちらを見下ろしている相手の顔が目に映る。
「サッチ隊長」
トレードマークのリーゼントを今日もばっちりと決めている、白いコックコートの四番隊の長がそこにいて、俺がその名前を呼ぶのに合わせて屈みこんだ。
「寒ィのにも弱かったのに、暑ィのにも弱いのかよ、ナマエ」
面白がるようにそう言われて、仕方ないじゃないですか、と声を漏らす。
確かに、俺は気温の変化に弱い。暑がりなクルー達は俺と同じく船外に出てきているが、船内にいるクルーだって大勢いる。
しかしこれでも、エアコンという文明の利器を取り上げられてから一年以上経ち、少しは耐えられるようになった方だ。
恨めしげに相手を見上げて、額ににじんだ汗を腕で拭った。
「サッチ隊長だって汗かいてるじゃないですか」
「まァちっと蒸すしなァ。でもそこまでぐったりはしてねェよ」
笑って言いながら、サッチ隊長が俺のすぐそばで腰を下ろす。
さすがに座った相手の前でいつまでもごろごろしているわけにもいかず、俺もしぶしぶ起き上がった。
「甲板になついてちゃあ余計暑いんじゃねェか?」
「いやでも、冷たい空気は下にたまるっていうじゃないですか」
「ふうん?」
そういうもんかと少し不思議そうにしながら相槌を打ったサッチ隊長が、少しだけ何かを考えるようなそぶりをする。
そうしてそれから、わざとらしい声で『ああ、そうだ』とつぶやいて何かを取り出した。
「そういやおれ、いいもん持ってたわ」
「え?」
言いながらこちらへ見せてきたそれは、どう見ても香水の瓶だ。いつだったかナースの誰かが持っていた奴に似ている。
片手に持ったそれを上下に振り始めたサッチ隊長に、俺は少しばかり首を傾げた。
「サッチ隊長?」
「ほら」
急になんだと戸惑った俺をよそに、サッチ隊長が言葉とともに香水の瓶を持ち直し、噴出口をこちらへ向けた。
戸惑う俺の前で、シュッと音を立てた液体が霧状に噴き出る。
「わっ」
驚いて身を引いた俺の体に少しばかりそれがかかって、何するんですかと慌てながら濡れた腕をこすった俺は、そこで驚くべき事実に気が付いた。
「あれ……冷たい……!?」
どうしてだか、濡れた腕がひんやりとしている。
わずかにミントのようなにおいがして、俺はそれがハッカ油か何かのたぐいだということに気が付いた。清涼剤の感覚にとてもよく似ている。
「そのまんまじゃ寝られねえだろ?」
笑ってそんな風に言いつつ、サッチ隊長の手が俺の服を捕まえて引っ張る。
そのまま背中側に服の上から液体を噴きかけられて、すぐに涼しさが襲ってきた。
「うわ……涼しいですよサッチ隊長……!」
「そいつァ良かった」
ついでのように俺の足などに液体を噴きかけたサッチ隊長が、言葉とともにボトルを傍らに置く。
服の上からしみた液体がひんやりと体を冷やしていくようで、はあ、と息を漏らした俺は改めて隊長を見やった。
「あれ、隊長は使わないんですか?」
「このくらいの暑さなら平気だって」
尋ねた俺に、サッチ隊長がにかりと笑う。
しかしそうだとしたら、今サッチ隊長が側に置いたその香水瓶は、自分以外の相手のために持ち歩いていたということだ。
サッチ隊長には、そういうことがよくあった。
俺が船旅に慣れない頃はどうしてだかたまたま持っていた酔い止めの薬をくれたし、寒くてたまらない冬島では暑くなってきたからと上着を貸してくれた。
それ以外でもいろいろと、よくよく世話を焼かれている。
いつだったかマルコ隊長に言った時に『本気で言ってるのかよい』と言われてしまったが、まず間違いなくサッチ隊長は世話好きだ。
そして、海賊だっていうのにものすごく面倒見がいい相手に、俺は世話になりっぱなしである。
「じゃあ、サッチ隊長が暑くなってきたら俺が扇ぎますから、言ってくださいね」
「それお前が余計暑くなる奴じゃねェか」
とりあえず恩を返すための約束を取り付けようとしたら、馬鹿だなと笑った隊長がぽんと軽く俺の背中を叩いた。
ひんやりとした背中に触れた掌は温かく感じたが、すぐに離れて行ってしまう。
「それより明日の買い出し付き合えよ。あちィ島にはあちィ島の過ごし方があるだろうしよ」
確かめに行って冷たいもんでも食べてこようぜ、なんて言って笑ったサッチ隊長に、そうですね、と軽く頷く。
今度の夏島は人がいるという話だから、きっとその島特有の涼のとり方があるだろう。ぜひとも導入したいところだ。
そんなことを考えてから、そういえば、と思い出して口を動かす。
「この前もサッチ隊長と降りましたよね。またお世話になります」
前回の冬島でも、確か買い出しについていった気がする。
ついでに言えばその前もそうだったし、そういえばさらにその前もそうだったような気がする。
俺の世話を焼いてくれるサッチ隊長に恩を返したくて二つ返事でついていくのがいつものことだが、こう考えてみると面白い偶然だ。
俺の言葉に、そうだったか? なんて言ったサッチ隊長が、何かを思い出そうとするようにこちらからその目を逸らした。
やがて、なぜだかその顔までそっぽを向く。
「…………」
「サッチ隊長?」
空から注ぐ星と月の光は強いが、それでも昼間に比べたら甲板の上はずいぶんと暗い。
だから細かすぎる変化は読み取れず、俺は軽く首をかしげて、そのまま顔を空へと向けた。
先ほどと同じぬるい風が吹き抜けていくが、サッチ隊長のおかげでそれだけでもかなり涼しい。
「あー……涼しい……本当にありがとうございます、サッチ隊長」
「……おう。まァ、喜んでるんならよかった」
しみじみつぶやく俺の横で、サッチ隊長が答える。
その声はいつもと変わらないので、きっとその顔だっていつもと同じく軽く微笑んでいるんだろう。
『まァ……お前がそう思うんならいいけどよい』
もうちっと周りと比べてみたらどうだい、とマルコ隊長に言われたのをふと思い出したが、暑かったのでそれ以上細かいことを考えるのはやめておいた。
end
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