つめきり
※主人公は海軍大将黄猿の副官
ぱちん、ぱちんと音がする。
椅子に座って手元を見下ろす大将を、俺はちらりと盗み見た。
俺が運んだ書類を片付けて手持無沙汰になったらしい大将殿は、現在その暇な時間を有効活用していらっしゃる。
簡単に言えば爪切りだが、静かな部屋に響く物音に、なんとなく意識がいってしまっていた。
大将のあの指が、どれほど恐ろしいかを俺は知っている。
光人間の指先は、指銃なんて名前の体術など目ではない攻撃を繰り出すのだ。
かの有名な科学者が興味を示すほどに強大なその能力は、当人がその気にならなければ放てない物だということはわかっているのだが、その指先を向けられると少しばかり身を竦めてしまうのは、もはや仕方ない。
光人間が爪を切るというのも少し不思議な感覚がするが、能力を使っていなければ普通の人間と変わらないということなんだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、ふと顔をあげた大将が、こちらを見やった。
「!」
それに体を強張らせてしまった俺を眺めて、軽くその首が傾げられる。
ややおいて、爪を切っていた手がひらりと動かされ、ナマエ、とその口が俺の名前を呼んだ。
明らかに俺を呼んでいる上官に従わない理由は見つけられず、しぶしぶペンを置いて立ち上がる。
それから呼ばれるがままに近寄ると、回り込んでおいで、とばかりに指先が俺が歩む道を示して、俺は大将の机を迂回した。
「どうかなさいましたか」
お茶でも欲しくなったのかと傍らに立って尋ねたところで、ひょい、と目の前にその大きな手が差し出される。
唐突な動きに、思わずびくりと身を引いてしまう。
「あ、あの?」
「見てたろォ〜?」
一体何が目的なのかと伺った先で、軽く笑った大将がそんな言葉を口にする。
確かに見てはいたけれども、だからと言ってそれが手を差し出される理由になるだろうか。
困惑しつつその恐るべき凶器を視界のうちに収めていると、手の甲をこちらへ向けるようにして差し出されたその手が、もぞりと指を蠢かせた。
「ほら、疲れちまうから支えなよォ〜」
どことなく命令口調で寄越されて、慌てて従う。
俺が触れた途端腕の力を抜いたらしく、ずしりと俺の手にその片手の重みが掛かった。
持ち上げられないほど重い、だなんてそんな非力なことは言わないが、体格に見合った重さだ。
下から片手で救い上げるように支えて、ひとまず目の前の手を見つめる。
爪切りの途中で放置されたその指の爪は、いくつかが短くていくつかが長かった。
どの指も間違いなくあの光の攻撃を放てるもので、もちろん目の前の上官が部下を何の理由もなく折檻するとは思わないが、悪戯で目つぶしくらいはしてくる人間であることはもう知っている。何より、強大な凶器を前にしているともなればやはり恐ろしい。
指先が自分の顔を向いたりしないよう注意しつつ、切られたところはきれいな仕上がりになっているその爪先を眺めていると、視界の隅をひょいと何かが掠める。
それに気付いて視線を向ければ、俺がつかんでいる手の横に、ひょいと一つの物体が差し出されていた。
大きめのそれは、誰がどう見ても爪切りだ。
「…………え?」
「手ェ出しな〜?」
微笑みつつ言葉を寄越されて、恐る恐る空いていた手を相手へ差し出す。
大将は俺の手の上に爪切りを乗せて、満足そうに微笑みを深めた。
「痛くしたらブチ殺すよォ〜?」
そうして楽しげに紡がれた言葉の意味に、え、と思わず声を漏らす。
つまりそれは、俺に『切れ』と命じているのだろうか。
なんでそんなことを、と思わず相手の手を放そうとした俺の掌を、大きなその手ががしりと掴んだ。
ぎゅう、と握り込まれれば逃げ出すことなど叶わないし、何よりその指先が少しばかり光ってしまっている。
「た、大将! それじゃあ切れないです!」
冷や汗をかきながら慌ててそう訴えると、オォ〜、なんて声を漏らした大将がわずかに目を丸くした。
「そいつもそうだねェ〜」
納得したように言いながら、その手が光をおさめ、そして人の手を握りしめていた力が緩む。
そのことにほっと安堵した俺の前で、椅子に座ったままの大将が軽く首を傾げた。
「ナマエ〜?」
さっさとしなよォ、なんて何とも自己中心的な言葉が、こちらへ向けて寄越される。
一体何を考えているのかは分からないが、どうやら大将は俺に爪切りをさせたいらしい。
そんなことをさせてなんの得があるのか分からないが、どうせいつものやつだろう、と俺は把握した。
大将はいつもこうだ。
飲み会の帰りに遭遇したと思ったら大将や中将の集まる店に引きずって行かれたり、休みだったはずなのに急に出勤にされてしかも遠征に放り込まれたり、逆に仕事だったはずなのに休みを取らされてどこぞの島へ『旅行』とは名ばかりの視察に連れていかれたりする。
どこぞの海軍大将と似通った気まぐれで面倒くさがりな部分があるのだと気付いたのは、あちこちでその世話を焼かされるようになってからだ。
頼られてると思えば気分もいいが、他の部下たちも恐らくは同じように扱われているし、何より目の前のこの人は『海軍大将黄猿』だった。
とくに『仕事』の最中は何度もその強さをまざまざと見せつけられ、住む世界が違うどころか間違いなく人種が違う相手に親しみとは別に恐れを抱きつつあるくらいなのだが、言ってもたぶんわかってはもらえない。
「……こっちの手だけですからね」
恐るべき武器を片手に俺がそう言葉を零すと、よろしくねェ、と大将が笑う。
悪戯に目つぶしを受ける可能性すら考慮に入れつつ、どうにか相手を痛がらせないようにと慎重に行った俺の爪切りがお気に召したのか、それから大将は時々俺に爪切りをさせるようになった。
世話を焼くのは嫌いじゃないが、できればこのくらいは自分でやってもらいたいものである。
end
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