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オッカムの剃刀
※クロコダイルと一般人(雑用)



 この世界はフィクションだ。
 俺の知る限り『ワンピース』というのは少年漫画のタイトルで、グランドラインという航路もベリーという通貨も悪魔の実なんてファンタジーも海王類なんていうゴジラ顔負けの怪獣も、全部が全部紙面の上のものだった。
 それら全てが目の前にあるというのなら、それはすなわち俺もまた、フィクションの一つだったということだろうか。

「何を小難しい顔で考え込んでいやがる」

「だっ」

 うーん、と唸りつつ首をかしげていたところで、ガツンと頭を何かに殴られた。
 慌てて患部を押さえながら振り向くと、加害者がこちらをじろりと見下ろしているのが見える。
 俺が生まれ育った世界で見かけたなら絶対近寄りたくないような強面で、咥えている葉巻が似合うことこの上ないその人は、俺がこの世界で初めて出会った『キャラクター』だ。
 そして、生まれて初めて俺の腹を思い切り踏みつけて起こした人間で、今現在の衣食住を保証してくれている素晴らしい海賊だった。
 クロコダイル曰く、俺は空からふわふわと落ちて来たらしい。とりあえず俺は先祖より伝わる不思議な石は持っていないし、クロコダイルが親方を呼んだかどうかは知らない。

「お帰りなさい、サー・クロコダイル」

 そちらへ向けて声を掛けながら、頭をさすっていた手を降ろした。
 まだズキズキ痛むので、多分またあの鉤爪で叩かれたんだろう。
 頭なんて鍛えようもないし、俺とクロコダイルとでは力の差も歴然なんだから、せめてもう少し柔らかいところで叩いて欲しい。
 そんなことを考えながら目の前の相手を見上げて、少しだけ考えてから、あれ、と首を傾げた。

「サー、海軍本部からもうお帰りになられたんですか?」

 俺の目の前に立つ王下七武海がアラバスタから出かけたのは、ほんの数日前だ。
 俺はこの漫画の中ではアラバスタから出たことが無いのでどのくらいの距離かは分からないが、クロコダイルが少し渋っていた様子からしてちょいと行って帰ってこれるような距離じゃないと思っていたのに、もう帰ってきたんだろうか。
 見上げた俺の目の前で、葉巻を離した唇から煙を零したクロコダイルが、なんだ、と俺を見下ろしたままで言葉を紡ぐ。

「おれが帰ると都合が悪いか?」

「あ、いえ、別にそんなことは、」

 わざとらしく低く唸られて、俺は慌てて首を横に振った。
 帰ってきてほしくないだなんて、ほんのかけらも思っていないんだから当然だ。
 出来ることならいっそのこと、ずっとこのアラバスタにいてほしいくらいだ。
 もう少し詳しく言えば、俺の見える範囲にいてほしい。
 俺の見える範囲で俺の名前を呼んで、たまに小突いていいからちょっとスキンシップでもしてほしい。
 だってそうでもしないと、どうしようもないことを考え始めてしまう。
 慌てる俺を見下ろして、ハッ、と鼻を鳴らしたクロコダイルが、手元の葉巻を床に落とした。
 ついでに砂でも出したのか、踏みつけた靴底が、じゃり、と砂のこすれる音を零す。

「安心しろ、まだ本部には向かってねェ」

「え」

 そうして寄越された言葉に、思わず変な声が出た。
 だってそうだろう、クロコダイルはほんの数日前、『招集が来た』と手紙を片手にうんざりした顔をしていたのだ。
 便箋の裏側の端に印刷されていたのは海軍のマークで、この世界にも印刷業者がいるのかとかそんなことを考えてしまったことを覚えている。
 ちなみにちらりと見せられた文面は英語で、速読することは不可能だった。あの筆記体は達筆すぎだ。
 称号を盾にとられたから面倒だが足を運ぶか、なんてことをクロコダイルは言っていたし、それから用意を始めてすぐに屋敷を出て行ったので、いってらっしゃいと言いつつ見送ることしか俺には出来なかった。
 屋敷から出るなと言い含められているので、俺が出られるぎりぎりまで見送りに行った先で、クロコダイルは路地から出て来た女性を従えて歩いて行って振り返りもしなかった。
 そういえば、あの時横から出てきたのは『ニコ・ロビン』だったような気がするけど、海軍本部に行くと言うのに彼女を連れて行ったんだろうか。
 いや、今はそこに注目している場合じゃない。

「……これから向かうんですか?」

 だとしたらこの数日間、クロコダイルはどこで何をしていたんだろうか。
 俺の疑問が顔に書かれていたんだろう、こちらを見下ろしたクロコダイルが、左手を動かす。
 きらりと輝く鉤爪が俺の面前まで近づいて、それからあくまで俺に見える速さで俺の首の横を通り抜け、それから少しだけ隣へ動いて戻ってきた。
 首裏に冷たいそれを押し付けられて、ちょうど鉤爪の真ん中に頭を入れられた状態になる。

「……あの?」

 一体どうしたのかと、声を掛けつつひとまず片手で鉤爪を掴まえた。
 俺の抵抗なんて微々たるものだろうが、少しでも急に動かれるのを防ぐためだ。クロコダイルの鉤爪は装飾品では無くて、その左手の代わりであり武器だった。中には毒を仕込んだものが隠れていることも、知識としては知っている。
 指でたどれば簡単に怪我をしそうなその切っ先から顔を逸らしつつクロコダイルを見上げれば、俺を見下ろしたクロコダイルが、ふん、と鼻を鳴らした。

「船を用意させるのに時間が掛かった」

 そうして寄越された言葉に、ああなるほど、と声を漏らす。
 クロコダイルが用意させたんなら、それはもう豪華で頑丈そうな船に違いない。政府公認の『海賊』であるものの、水が天敵になるクロコダイルには船に乗っているイメージはわかないけど、豪華な椅子に座っている様子ならありありと目に浮かんだ。
 きっとすごい船なんでしょうねと心からの言葉を述べると、当然だと答えたクロコダイルの口の端がわずかに緩んだ。
 それからくいと鉤爪を引っ張られて、首元を捉えられている俺も同じ方向へと足を動かす。
 先ほどより近くなった俺を見下ろしてから、行くぞ、とクロコダイルが言葉を落とした。

「あ、出発なさるんですね」

「ああ、いい加減向かわねェと期日になるからな。政府の犬に呼びつけられるなんざ胸クソ悪い話だが」

 うんざりと呟きながら歩き出したクロコダイルに、俺も続く。なぜならまだ俺の首元を鉤爪が捕まえているからだ。
 クロコダイルの意図がよく分からず、されるがままに隣に並びながら、俺はクロコダイルを見上げた。

「あの、サー、こんな風になさらなくても見送りしますよ」

 当人は振り向きもしなかったから気付いてなかったかもしれないが、この間だってその前だって、俺はしっかりと自分が出られる範囲まではクロコダイルを見送りに行ったのだ。
 わざわざ引っ張らなくても、と首元の鉤爪をぺちぺち叩きながら述べた俺に、ああ? と声を漏らしたクロコダイルの視線がちらりと寄越された。

「何をぬかしていやがる」

「え?」

「お前も来るんだろうが」

「………………え?」

 意味が分からず変な声ばかり漏らしてしまったのも、仕方の無いことだと思う。







「…………本当に乗ってしまった」

 思わず呟きつつ、きょろきょろと周囲を見回す。
 クロコダイルは部屋を出て行ってしまったので、今の俺はこの広い部屋に一人きりだった。
 ふかふかの絨毯にソファ、それにカーテンまでついた窓の外に広がるのは青空で、差し込む日差しが室内を照らしている。
 置かれている家具も豪華で、壁には絵画まで置かれたそこは、足元が揺れていなかったらまるでただのホテルの一室のようだった。
 これを用意させるのに、一体どれほどのベリーがつぎ込まれているんだろうか。
 カジノのオーナーでもあるクロコダイルの懐からすると微々たるものかもしれないが、もしも自分が払ったとしたらと考えてみてもぴんと来ない。でも多分、今俺の手元にあるベリーじゃ全く足りない筈だ。
 しげしげと周囲を見回して、最後にもう一度自分の足元へと視線を落とした俺は、綺麗な絨毯には不似合いな汚れた靴を発見して、そっと目を逸らした。
 顔をそむけた先には、さっきクロコダイルが出て行った扉がある。
 何でクロコダイルは、俺をこの船に乗せたんだろうか。
 今までクロコダイルを見送ったことはあっても、連れてこられるのは初めてだった。
 屋敷での俺の仕事はただの雑用で、俺がいなければ他の使用人がやるものだ。クロコダイルはあまり人間を信用していないようでその人数は少ないけど、俺以外に誰もいないわけじゃないから俺がいなくたって仕事は回る。
 だから別に連れてこられることに問題は無いけど、でもクロコダイルがそんな気まぐれを起こした理由が分からなかった。
 俺は、突然この世界に混じり込んだ存在だった。
 人の腹の上に足を乗せて真上から見下ろすクロコダイルの姿を見つけた時俺が困惑したのは、その顔がどう見ても『ワンピース』の『悪役』である『サー・クロコダイル』という『キャラクター』だったからだ。
 真下から名前を呼んだ俺に返事をしたクロコダイルは、どこから現れたと俺に尋問しながらぎりぎりと人の腹を踏みにじった。
 そしてわけもわからないままできる限り正直に答えた俺を鼻で笑って、馬鹿な真似をすればバナナワニの餌になると脅かした上で、行くあてもない住所不定無職の俺を雇ってくれた。
 そういえば結局、どうしてクロコダイルが俺を雇ってくれたのかも分からないままだ。
 明らかに俺は怪しかったし、俺の知っている『サー・クロコダイル』ならまず間違いなく殺すだろうと思うのに、クロコダイルはそれをしない。

「ご都合主義の漫画みたいだよな……」

 思わず呟いたそれは、ぴたりと自分の境遇に一致しているような気がした。
 だって、この世界はフィクションだ。
 とある漫画家が作り出した紙の上の世界で、俺はそれを読んだことのある一読者のうちの一人だった。
 非現実的だったその世界に紛れ込むと言う『非現実』は、俺の知っていた常識の中には存在するはずもない。
 だったら、やっぱり。

「おい、ナマエ」

 そこまで思考が流れたところで扉が開かれ、現れたクロコダイルがこちらを見た。
 はい、とそれへ返事をして、とりあえず座っていたソファから立ち上がる。
 俺の顔をじろりと見やって、また辛気臭い顔をしやがって、と唸ったクロコダイルが、顎をしゃくって扉の外を示した。

「来い」

 そんな風に言い放ち、それからすぐに歩き出していったクロコダイルを追いかけて、部屋を出る。
 先程俺が歩いた時と何も変わらない船内は、通路ですらもあちこちにものが置かれていて、やっぱりどこかのホテルのようだった。
 けれども、やがて辿り着いたデッキに漂う海の匂いに、やっぱりここは海の上だったんだと実感する。

「おお……」

 思わず声を漏らしながら、俺は周囲を見回した。
 少し高い場所にあるらしいデッキの上からは、青く広がる大海原が見渡せた。
 振り向いてみると、アラバスタらしい島が随分と遠くに見えた。
 青い水面に白い泡を零しながら進んでいるらしい船が、風を孕んで帆を大きく膨らませている。
 雄大なそれを見上げて瞬きをしてから、俺は改めてここまで俺を連れて来た相手を見やった。
 口に葉巻を咥えたクロコダイルが、吹き抜ける潮風にその煙を散らして、強風に少し崩れた髪を後ろに撫でつけている。
 それから、俺の視線に気付いてこちらを見やり、間抜け面だな、と鼻で笑った。
 口が開いていたらしいと気付いてぱくんと開いていた分の口を閉じてから、少しだけクロコダイルから離れて、今度はデッキから下の方を見下ろす。
 そこにもデッキが広がっていて、広いその上でクロコダイルが連れてきたらしい船員の何人かがせっせと働いているのが見えた。甲板の端で仁王立ちしているあの大きい男性は、確かダズとかいう名前だったはずだ。
 座ったりはしないんだろうかとその姿を観察していたところで、突然何かに足元をすくわれる。

「わっ」

 揺らいだ体勢を戻すことが出来ずに、そのまましりもちをつく格好でデッキに倒れ込んだ。打ち付けた腰が痛い。
 何だったんだ、と少しだけ視線を巡らせた先で、体の一部を砂から元に戻しているクロコダイルの姿が見えた。
 デッキに少しだけ砂が散っているので、もしかすると砂になった体で叩かれたのかもしれない。離れた分の距離を詰めるのが面倒だったんだろうか。
 何するんですか、と非難することも出来ず、とりあえず腰をさすりながら改めて立ち上がって、クロコダイルの方へと体を向ける。

「あー……あの、サー」

 そうして呼びかけると、何だ、と短く返事が寄越された。
 船が進む先を見やっているクロコダイルは、屋敷で見上げるより少し和らいだ顔をしているように見えた。ひょっとすると、濡れるのは嫌いでも海は好きなのかもしれない。

「その……今回俺を連れてきたのって、何か俺に仕事があるからだったりしますか?」

 別に秀でた技能もないただの雑用係でしかないけど、俺の何かがクロコダイルのやることに必要だったんだろうか。
 そう思って問いかけた俺の前で、クロコダイルがちらりとこちらへ視線を戻した。
 その手がひょいと葉巻をつまんで唇から離し、ふう、と零した煙が風に乗って船尾へ流れていく。

「何だ、海軍本部に興味があったんじゃねェのか」

 そうして寄越された言葉に、え? と首を傾げる。
 おれへの招集を気にしてただろう、と更にクロコダイルが言葉を重ねたので、少しだけ記憶を辿ってみることにした。
 言われてみれば、確かに、『海軍本部』という単語に反応したような覚えはある。
 だってそれは、この世界の地名で俺が知っているいくつかのうちの一つだったのだ。
 もちろんアラバスタだってそのうちの一つだけど、外を一時間も出歩くとあの日差しと気温にやられてしまうので、最初に出歩いたっきり外にはあまり出ていない。
 砂漠の国を舐めていた俺が悪いのだが、露出していた肌が全部火傷したのかというくらい日焼けして大変だった。
 俺の貧弱さに呆れた顔をしたクロコダイルが『外出禁止』を言い渡してきたが、それだって有り難かったくらいだ。
 だから、この世界に来てから俺の生活圏と言えばあの屋敷の中くらいで、それだって別に狭いとは思ったことも無かったけど。
 せっかくこの世界にいるんだから、あのマリンフォードとか言う島を見てみたいなとは、確かにちょっとだけ思ったのだ。
 だけど思っただけだし、口に出した覚えもない。
 なのになんで、と見つめた先で、クロコダイルが葉巻を咥えなおした。

「テメェは一度、自分の顔を鏡で見てみろ」

 ツラに全部書いてある、とまで言われて、とりあえず自分の顔に触ってみる。
 けれども触った俺の顔はいつもの通りで、この場には鏡も無いから確認のしようがない。
 俺から視線を外したクロコダイルを追いかけて、俺も視線を船首の方へと向けた。
 グランドラインは常識外れの海だと聞いていたのに、見渡す限りの快晴で船旅日和だ。
 もしかしたらすぐに天気が変わるのかもしれないけど、久しぶりに真上から浴びる太陽の日差しを感じながら、俺はそっと手を降ろした。
 どうしてなのかは分からないけど、クロコダイルが俺をこの船に乗せたのは、俺が海軍本部に興味を示したかららしい。
 それはただの気まぐれなのかもしれないけど、気にかけて貰ったらしいと言う事実に、少しだけ口元が緩んだのが分かった。
 ちら、とクロコダイルの方へ視線を送ってみると、すぐに気付いたらしいクロコダイルが、じろりとこちらを見やってくる。
 そちらへ向けて笑顔を浮かべてみると、こちらを見るその目が眇められた。
 また間抜け面だとか言われそうだななんて思いながら、寄越される視線を見つめ返す。
 この世界はフィクションだ。
 あの白黒の漫画の世界だとは思えないくらいに鮮やかだけど、確かにここは俺の『知っている』世界だった。
 一人になるたびうだうだとそんなことを考えているのは、多分、自分がここにいる理由が分からなくてモヤモヤしているからなんだろう。
 そういうことを考えないで済むのは、今みたいにクロコダイルの近くにいる時くらいだ。
 まるで作り話みたいにご都合主義だと思うのに、クロコダイルがこっちを見て俺を呼んでそれなりに構ってくれるんなら、それでも構わないとすら思えてくる。
 さすがに正直に言ったら殺されそうな気持ちは隠しておいて、俺はへらりと笑みを深めた。 

「ありがとうございます、サー」

 それからそんな風に言った俺に、相変わらず変わった野郎だ、とクロコダイルが笑った。




end


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