意地悪ヒーロー
※見えちゃう系男子と大将黄猿
※若干の名無しモブによるホラー臭
俺は生まれつき、普通の人には『見えない』ものが見える人間だった。
暗がりからこちらを恨みがましく覗く人であったはずの、けれどもう人ではないそれらが、小さな頃から恐ろしくてたまらない。
体がちぎれたまま道端に転がる少女の痛みを呻く声も、片手に不穏な何かを持ったまま誰かにぶら下がって引きずられていく男の憎しみに満ちた言葉も、俺をいつだって怯えさせる。
生きた人間には何も出来ないらしいが、目を合わせれば近寄ってくるそれらから、俺はいつだって必死に目を逸らし続けていた。
俺のこれを理解してくれる人は、俺の周囲には誰もいなかった。
親ですら、俺のことを少しおかしいと思っているのだから、仕方ない。
それでもどうにか生きてきた俺が、この世界に来たのは偶然に偶然が重なった事態によるものだろう。
確かに会社へ出勤するために歩いていた筈なのに、突然自分が紛れ込んだそこは人が殺されていくその現場で、数多の人間を圧倒的に蹂躙していくその輝きは、外を出歩くときに着用するようにしているサングラス越しでも分かるくらいに眩かった。
何よりも驚いたのは、その放たれる輝きが、近寄る『あれ』すら構う様子もなく掻き消していくという事実だ。
恨みに満ちた声を上げて転がっていた影が、光に触れて悲鳴を上げ、そのまま散っていく。
『……ん〜? 民間人かァい?』
間近に来たその輝きの主が、俺を見下ろしてそんな言葉を零す。
光が弱まって、伸びて来た手がひょいと俺から無遠慮にサングラスを取り上げても、俺には身動きの一つも出来なかった。
海王類に海賊に、ベリーに海軍にグランドライン。
後から聞かされたそれらよりなにより、俺の目の前に立っている光人間こそが、俺が座り込むここが『漫画』の世界なんだと教えていた。
※
暗い路地から、黒くて長い髪と白い手が這い出ている。
地面を掻くようにその指が土を削って、汚れた指先からは赤黒い血がにじんでいた。
体の半分は闇に溶けるように路地の奥へ消えていて行方すら見えないものの、『それ』がどうして地に伏しているのかは、その背中に生えている赤くすすけた剣を見れば一目で分かる。
「…………」
『普通』なら通報するなりしなくてはならないような光景の筈だが、『それ』を通報したって呼んだ相手におかしな人間を見る目をされることくらいはもう知っていた。
だから、視界に入ったそれに気付いてすぐに目を逸らした俺は、そのまま手元の荷物を持ち直して歩みを速める。
後ろから何かの視線が突き刺さった気がするが、ここで振り返ってはいけないのだ。
逃げるように行き交う人達の間をすり抜けて、目的地へ向かって進む。
必死になって足を動かしながら視線を巡らせれば、俺の視界には相変わらず異様な『それ』らが映り込んでいた。
男の首からぶら下がる子供の姿をした『それ』の目は赤い涙を零していて、女の姿で泣き叫ぶ『それ』が腕を掴んでいても、友人らしい女性と会話をしている彼女には気にした様子も無い。
それ以外も、誰も彼も、自分の周りの『それ』には気付かない。
生きた人間のざわめきに混じるその声音は暗く歪んでいて、何の関わりも無い筈の俺には耳も目も塞ぎたいくらいだというのに、なんという理不尽だろう。
呼吸がつらくなり、は、と短く息を吐きながらいつもの角を目指した。
曲がってすぐの家に入れば、とりあえず今日はもう引きこもっていられる。家には俺以外には誰もいないし、ひっそりと息をひそめていれば俺と関わりの無い『もの』も入ってきたりはしない。
それを知っているから、ようやく辿り着いた扉に手を伸ばしてドアノブを掴み、鍵を開けようと鞄に手を入れたところで、俺はびくりと体を震わせた。
何故なら、俺とドアの間に入り込むように、『それ』が横たわっていたからだ。
濁った黒いみだれ髪の『それ』は、先ほど地に伏していたのと同じ、背中に剣を生やした女性の姿をしていた。
ひ、と悲鳴交じりに短く息を吸い込んでしまって、しまった、と口を押さえる。
しかしもう俺の後悔など遅く、やや置いてその手が俺の前で体を支え、ゆっくりとその顔がこちらを見上げる。
どろりと淀んだ眼差しがサングラス越しに俺の目を見て、肉の薄いその唇が、汚れた歯をむき出しにしてにたりと笑みを浮かべた。
「…………っ!」
気付かれてしまった。
その事実に、俺は背中が冷えたのを感じた。ぶわりと鳥肌が立って、額から汗が伝い落ちる。
ざりざりと砂嵐に似た音が耳鳴りのように俺の鼓膜を襲って、その中にケタケタと笑う女のような声が混じった。
ガタガタと体が勝手に震えて強張り、助けを呼びたくても口すら自由に動かない。
だけど、この場で助けを求めたって、誰も俺を助けたりはしてくれないのだろう。
絶望的な気分で、こちらへゆっくりと伸ばされてくる『それ』の手を見つめる。
爪の汚れた白い掌が向けられて、異様に長いその腕から伸ばされたそれで、あともう少しで顔に触れられそうになった、その時。
ぴか、と唐突に何かが目の前で光って、それと同時に俺の目の前にあった『それ』の姿がかき消えた。
悲鳴すら上げずに霧散したそれを踏みつけるように、ストライプのスーツに包まれた足が二本、その場に生えている。
「オォ〜、どうしたんだァい、ナマエ」
そうして上から降ってきた声に、俺はゆっくりと顔を上向かせた。
俺よりずいぶんと高い所に顔のあるその人が、少し身をかがめて不思議そうな顔をしている。
こんなとこにつったっちゃってェ、と続けられたその声に、体が安堵で弛んだのが分かった。
「ボ……ボルサリーノさん」
「ん〜?」
名前を呼べば、なんだい、と言いたげに軽く首が傾げられる。
海軍大将黄猿なんて肩書きを持っているにしては柔らかなその表情を見上げて、何でもないです、と俺は一つ首を横に振った。
もう一度足元を見てみても、そこにはもう『あれ』はいない。
彼が来るときは、いつもそうなのだ。
ピカピカの実を食べた光人間である目の前の海兵は、俺が知っている中で唯一、『あれ』らを寄せ付けない人間だった。
あれだけたくさんの海賊を殺していたのだから、きっとよそでだって同じことをしているだろう。
だというのに、その肩にも腕にも足元にも、恨みや憎しみを抱えた影の姿が無い。
それは彼が恨まれていないからだと言うわけではなくて、近寄ってくる『それ』らすらもその光が消し去ってしまうのだ。
それは何とも暴力的な方法で、けれども、俺からしてみれば憧れすら抱いてしまいそうなくらいに圧倒的な『力』だった。
今だって、もしも目の前の彼が現れなかったなら、物理的な攻撃は受けなくても、『あれ』に四六時中まとわりつかれて何かを囁かれて、俺の生活を脅かされていたのは間違いない。
『保護したから』という理由で目を掛けてくれる優しいヒーローへ、ちらりと視線を戻す。
「……お茶、淹れますよ。休んでいきませんか?」
本人は無意識だったとしても、せめてもの礼がしたくていつもの言葉を紡いだ俺に、そうしようかねェ、と彼は楽しそうに呟いた。
※
「それでねェ、今日はご褒美をもらいに来たんだよォ〜」
かちゃり、と幾分か中身の減ったカップをソーサーごとテーブルの上に戻してから寄越されたその言葉に、俺は手元の動きを止めた。
「……ご褒美ですか?」
あまりにも目の前の相手と結びつかない単語に、視線をそちらへ向ける。
俺の目を見つめ返して、そォ、と独特の間延びした声音と共に頷いた彼が言葉を続けた。
「この前に言ったの、覚えてるかァい?」
そう言われて目を彷徨わせ、ええと、と少しだけ記憶を探る。
彼の言う『この前』がいつなのかは分からないが、彼がここへ来るのは二週間ぶりだ。
前に来た時も今のように俺には大きい椅子に腰を下ろして、片手で俺の入れた旨いとは言えない紅茶を飲んでいた。
そういえば、あの時『今度遠征に行く』と言ってたが、今ここにいると言うことはもう帰ってきたということなんだろうか。
そんな風に考えて、あれ、と軽く首を傾げる。
そう言えばあの日、『遠征に行く』と言った彼を心配した気がする。
だってそれはすなわち俺を『保護』したあの時のように、どこぞの海賊達を粛清しに行くということだからだ。
その光のきかない『あれ』を拾ってこないかと、それに何より怪我でもしてしまうんじゃないかと、ロギア系の能力者に抱くにはあまりに不釣合いな心配をしてしまって、気を付けてくださいね、なんて言った気がする。
『オォ〜……それじゃあ、無事に帰ってこれたら、ご褒美おくれよォ』
そして、そんな軽口を叩かれたような気も、確かにある。
今みたいににこにことその心を覗かせないような笑みを浮かべていた相手の顔まで思い出し、俺は改めて彼へと視線を向けた。
「……あれ、本気だったんですか?」
「わっしは冗談言わないよォ〜」
ひっどいねェ、なんて言っているが、だってまさか本気でご褒美を強請られるなんて思う筈もない。
俺より随分年上で、『あの』海軍大将黄猿で、確実に移民である俺より高給取りのこの人なら、俺に強請らなくたって何でも手に入るのに。
見やった先にはいつもの笑みがあるばかりで、その真意も読み取れないものの、まあいいか、と俺は軽く息を吐いた。
目の前の彼は、俺にとっては誰にも代えがたいヒーローだ。
その彼が何かを欲しいと言うのなら、少しくらいなら手を尽くしたって構わない。
もちろんあまり高価なものは手が出せないだろうけど、それこそこの人が自分で買えばいいようなものだから、きっとその『ご褒美』で『欲しい』ものはそういうものではないんだろう。
「…………それじゃあ、何が欲しいんですか?」
言ってみてください、と言葉を投げた俺の前で、んー、と彼が軽く唸る。
「そうだねェ〜……」
そんな風に呟いて、わざとらしく何かを考えるようにその目を揺らしてから、けれども最初から決めていたんだろう言葉を、その口が零した。
「それじゃ、ナマエの秘密をひとつおくれよォ」
楽しげに紡がれた言葉に、ぱち、と瞬きをする。
きっと俺は戸惑った顔をしているんだろう、こちらを見やった彼は妙に楽しそうに笑みを深めて、俺の反応を窺っているようだった。
少し間を置いて、手元のカップとソーサーをテーブルに乗せながら、えっと、と声を漏らす。
「俺の、秘密ですか?」
「そォ」
俺の言葉に頷いて、何かあるだろォ? と彼が囁く。
秘密、と言われて俺の脳裏に浮かんだのは、たったの二つだった。
一つは、俺がこの世界の住人ではないこと。
俺はこの世界が『漫画』として存在している世界の住人で、ある日突然全くそのきっかけも分からないままにこの世界へとやってきた。
作り物だったはずのこの世界でも『あれ』を見るのかと絶望したのは、ここが『漫画』の中だと分かったもう何か月も前の話だ。
そしてもう一つは、言うまでもなく、俺の目が『あれ』を見ることだった。
他の誰にも見えない、ただの俺の幻覚でしかないはずの『あれ』は、しかしやっぱり、この世界でも『死んだ誰か』の姿をしている。
俺に物理的な危害は加えないが、恐ろしい姿で近寄ってきて俺に何事かを囁き続けて、そのどろどろしたなにかで俺を満たそうとするのが怖くてたまらない。
どちらも、俺の中では重要な秘密だ。
だけどそのどちらも、目の前の相手には打ち明けられないことだった。
だってどちらを口にしても、頭がおかしい人間だと思われるに違いないからだ。
あの日『あれ』が見えると言った俺を見下ろした両親のように、理解できないモノを見る目でこちらを見られたら、と思うと、少しだけ背中が冷たくなった気がした。
だって、俺はこの世界で、この人しか親しい知り合いがいない。
『あれ』を見たくなくて、出来る限り人と関わらない生活を送るのが常だったから、今さらその生活習慣を変えられないのだ。
働くし、必要な会話は交わすけど、それ以上は無理だ。視界に『あれ』が入り込んだらと思うと、相手の顔だってまっすぐ見れない。
この人は俺にとって唯一の、『あれ』らを寄せ付けない、傍にいたって怖くない人間だった。
悪人とはいえ海賊達を容赦なく殺す光人間にそんなことを言うなんて変な話だけど、でもだって、この人があの日、『民間人』だった俺を助けてくれたことを俺は覚えている。
座り込んで動けなかった俺の体をひょいと持ち上げて、ここは危ないからねェと笑って、俺を自分の部下に預けてくれた。
その上移民の手続きまで手伝ってくれて、だから俺は、自分にかかわるものが何一つないこの世界でも生きていくことができている。
そんな相手に、『おかしなもの』を見る目なんて、向けられてしまったら。
それはなんて恐ろしいことだろうかと、そっと自分の口元を覆ってしまった。
それから、少しだけ目を逸らして、室内を見回す。
「……秘密……そうですね……」
小さく呟いて、静かで物の少ない室内に視線を巡らせた俺の視界に、食器棚に申し訳程度に備えられた調味料が見えた。
白い二つの筒を確認してから、何気なくそのまま視線を相手へ戻す。
そっと口元を覆っていた手を外し、広げたその掌を口の横に添えたまま、声を潜めて言葉を零した。
「……実は…………俺、甘い物が好きなんです」
囁くように放たれた声に、ぱち、と目の前の彼が瞬きをする。
それから、俺の言葉を理解して、驚いたような顔をしながら小さく声を漏らした。
「…………オォ〜、そいつは知らなかったよォ〜」
感心したように漏れたその声に、言ってませんもんね、と笑い返す。
確かに甘いものは好きな方だが、金銭的な余裕も無いから買い置きなんてしていないし、彼の目の前で食べたのだって殆ど無い筈だから、それも当然だ。
俺のそんな返答に誤魔化されてくれたらしい彼は、そうかい、と軽く頷いて、その手でカップを持ち直した。
「それじゃァ、今度はお土産にお茶請けでも買って来ようねェ〜」
「え、いや、そんな」
寄越された言葉に、慌てて両手をふる。
別にそんな強請るために言ったわけじゃ、と声を漏らす俺の前で、楽しげに彼が笑って口を動かした。
「自分のとこのついでだから気にしなくていいよォ〜」
一人で食べるのも味気ないし、付き合っとくれよォ、とまで言われると、両手をふるのを中断するしかない。
「あ、えっと、はい……」
じゃあその時はありがたく、と呟くと、彼は満足そうに頷いた。
その指でつまんだカップに唇を押し当てて、中身がその口へと消えていく。
「…………残りは、また今度にしようねェ〜」
傾け終えたカップの内側で呟かれたその声を、俺は聞かなかったことにした。
どうやら、完全には誤魔化されてくれないらしい。
俺より随分年上のくせに、案外大人気ない人だ。
少しだけ目を逸らしてから、自分もカップに手を伸ばす。
持ち上げたそれを口に近付けながらちらりと見やると、唯一無二の俺のヒーローは、俺の方を見て優しげに微笑みながら、その手に持っていたカップを降ろしたところだった。
end
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