ミルク色の告白 (1/2)
※短編『幸せ味』続編
※ほぼロシー
ロシナンテは走っていた。
薄暗い路地はどこまでも続いていて、地面に散らばった小石や何かのかけらが足裏を突き刺す。
痛くて堪らず、今すぐにでも蹲ってしまいたい。
それでもそうせず、ぜいはあと息を切らせて走っているのは、後ろからとても恐ろしいものが追いかけてきていることを知っているからだった。
捕まれば、きっと殺される。
それもただ殺されるのではなく、まるで見せしめのようにひたすら甚振られるのだ。
爪を剥がされて刺されて吊るされて、どれだけロシナンテがごめんなさいと泣き叫んでも許してはもらえない。
どくどくと心臓が早鐘を打ち、足がもつれる。
いやだ、助けて。
そう叫びたくても声が出ないまま、後ろから伸びた手が自分の肩の上を通過したことに気付いて、ロシナンテはびくりと体を硬直させた。
動いた手がロシナンテの顔を下から掴まえ、ぐいと引き寄せて、そして。
「いたたたた」
「!」
唇に触れたものにせめてもの抵抗で噛みついたところで、真後ろから漏れた声にロシナンテはぱちりと目を開いた。
どくどくと未だ脈打つ心臓の音が耳の奥で響き、溢れた冷や汗が額から零れて落ちる。
気持ちが悪くなるほどの焦りで背中が冷えていて、それを落ち着かせるように触れた温かな掌が、ロシナンテの背中を軽く撫でた。
「ロシー、落ち着いて、大丈夫だから」
後ろから優しく声が掛かり、それでようやくロシナンテは自分が噛みついているものの正体に気付く。
ロシナンテが頭を預けていた腕に、ロシナンテは思い切り噛みついていたようだった。
「あ、あっ! ご、ごめんなさいっ!」
「しー」
慌てて強く噛みしめていた顎の力を緩め、飛び起きて謝罪したロシナンテが見やった先で、人差し指を唇に当てた被害者が『静かにして』と息を漏らす。
それを受けてロシナンテがばっと口元を覆ったところで、二人の隣のベッドで、ううん、と小さく声が漏れた。
「……ナマエ? どうかしたのか」
暗闇の中、寝起きらしい少し掠れた声が、そんな風に掛けられる。
それを受け、何でも無いですよと答えたのは、起き上がってロシナンテを自分の方へと引き寄せた青年だった。
その手はロシナンテの口元に触れていて、何も話さないようにと指示をしているのが分かり、ロシナンテはぎゅっと唇を結ぶ。
「ちょっと目が覚めてしまったので……水でも飲んできますね」
センゴクさんはそのまま眠っててくださいと、身じろいで起き上がろうとした相手を制したナマエに、隣のベッドの人影が身動きを止める。
それから数秒を置いて、何かを窺うようにしたセンゴクが、軽くため息を零した。
「わかった……何かあれば呼んでくれ」
「はい」
寄越された言葉にナマエが答えて、それから彼の体がベッドを降りる。
その途中でロシナンテは抱き上げられ、慌ててしがみ付いたロシナンテごとナマエはそのまま寝室を出た。
ほのかに灯りをつけたままの廊下を歩いて、辿り着いたキッチンの明かりを付け、そこでようやくロシナンテを椅子の上へ降ろしたナマエが、さてと、と少し声を潜めて言葉を紡ぐ。
「こういう時はホットミルクがいいんだったかな?」
甘いのをいれような、なんて言いながらケトルを取り出したナマエにありがとうと言葉を紡いでから、それからすぐに自分がしでかしたことを思い出し、ロシナンテは椅子から降りた。
とたたた、と足音を立ててナマエへ近付き、その足へしがみ付く。
「ナマエ、かんでごめんなさい」
それから、先程も投げた謝罪を改めてロシナンテが口にしたのは、自分が酷いことをしたという自覚があるからだった。
寝ぼけていたとはいえ、力いっぱい噛みついたのだ。
絶対に跡がついているだろうし、下手をすればかみ千切れていたかもしれない。
ロシナンテの考えを読んだように、大したことないよ、と笑ったナマエが袖口をめくる。
そこにはやはりロシナンテが刻んだ噛み跡があり、内出血してしまっているのか、じわりと青黒く変色し始めていた。
あまりにも痛そうなそれに顔色を変えて、触って摩ってもいいのかそれとも手当ての方法が他にあるのか分からずおろおろと涙目になったロシナンテに、はは、と笑い声を零したナマエが屈みこむ。
「大丈夫だ、ロシー。すぐ治るから」
「あの、でも」
「怖い夢を見たんだろう? それじゃあ仕方ない」
俺だって誰かに噛みついたりしちゃうかもしれないしなと、微笑んでそんなことを言うナマエの顔は、まるでいつもと変わらなかった。
さっきだって、センゴクにロシナンテの所業を言いつけて、ロシナンテを叱ることだってできたのだ。寝ぼけて噛みつくなんて不当な暴力を受けたのだから、ナマエにはそうする権利は十分にある。
だというのに、気にした様子のないナマエを見つめて、ロシナンテの瞳を覆った涙の膜が厚みを増した。
ぽろ、とまつ毛をくすぐって零れていった涙に気付いて、目を丸くしたナマエの手がロシナンテの顔に伸びる。
「もう、泣き虫だなァ、ロシーは」
男の子だろうなんて言いながら、それでもナマエの手が優しくロシナンテの涙を拭いて、よしよしとその手がロシナンテの頭を撫でる。
寄越されたそれに更に涙があふれたのを感じて、ロシナンテは目の前の体に縋り付いた。
あの日ロシナンテを抱え上げて連れて帰ってくれたセンゴクとは違う、小さなナマエの体はそれでも温かく、しがみ付くロシナンテをしっかりと受け入れてくれている。
「ナマエ、ごめ、ごめ、なさ、ぼく、こわ、うぅっ」
しがみ付き、それでもどうにか必死に言葉を重ねようとしたロシナンテの声が、ひっひっと吸い込む息に引っぱられるようにして途切れて続く。
耳元で漏れる頼りないそれはただ煩いだろうに、ナマエは気にせず、よしよしとロシナンテの背中を撫でてくれた。
優しい掌に、ぎゅうぎゅうと目の前の相手にしがみ付きながら、ロシナンテの体からじわじわと力が抜けていく。
それにナマエが気付いたのか、ひょいとロシナンテを抱いて立ち上がったナマエは、そこで少し煮える音の変わっていたケトルをコンロから降ろした。
火も消して、その手が食器棚の扉を開ける。
「ほらロシー、カップをとって」
「ひっく……う、」
寄越される言葉に嗚咽交じりに返事をしながら、伸ばしたロシナンテの小さな手が、目の前の棚からマグカップを掴まえた。
掴んだそれは普段と同じく三つで、一つ余ってしまったが、ナマエは気にせずそれを受け取り、ケトルの傍に並べる。
それから缶を開けて中の粉をカップへ落とし、砂糖も零したそれに湯を注いだナマエの手が、摘まんだスプーンでくるくると三つのマグカップの中身を混ぜた。
「まだ熱いから、少し冷めてから飲もうな」
「……うん」
ようやく涙の引っ込み始めた顔をナマエの服へと軽く擦り付けて、ロシナンテが頷く。
ロシナンテがすっかりその体を預けても、ナマエはロシナンテを放り出そうとしなかった。
ロシナンテをこの家へ連れてきた、センゴクも同じだ。
この家にいる間のロシナンテはずっと幸せに満たされていて、あんな風に『追いかけられる』夢を見たのは久しぶりだった。
その事実に気付いたロシナンテの手が、小さく拳を握る。
今頃、兄は一体何をしているのだろうか。
ロシナンテが見た夢が、兄にとっては現実だったならと考えると、また心臓が早くなった。
「ロシー?」
背中を撫でていてそれに気付いたのか、ナマエが優しく声を掛けてくる。
その掌は相変わらず優しくロシナンテの背中を撫でていて、穏やかで温かなそれが自分へ拳を振り上げることを想像したロシナンテは、そう想像しただけで沸き上がった恐ろしさにぎゅうっと体を縮こまらせた。
ロシナンテは『天竜人』だ。
この世界にいる下々民の殆どが憎み嫌い、誰にも罰せられないなら『復讐してやりたい』と考える相手だった。
ロシナンテも兄も父親も母親も、嫌われ迫害を受け、攻撃されて逃げ回る生活を送ったのだ。
たまたまロシナンテはセンゴクに保護されて、身寄りのない『孤児』としてこの家へと連れて帰られた。
ロシナンテには、自分が嘘をうまくつけない自信がある。
全部を黙っているか、全てを話すかは二つに一つで、兄を助けてほしいのなら、自分達がどれほど下々民に嫌われているかも話さなくてはいけないだろう。
きっとナマエもセンゴクも、ロシナンテの願いを聞いてくれる。心優しい人達だということを、ロシナンテは知っている。
けれどもロシナンテが『天竜人』だと知れたら、きっと今のように触れ合ったりはしてくれないに違いない。
それどころか冷たい目で見られたらどうしようかと、考えれば考えるほどに恐ろしい方向へ思考が向いてしまうのは、今が真夜中の時間だからだろうか。
いつか言わないと分かっているのに、いつまでたっても決心がつかない。
震えだしたロシナンテに気付いてか、ふう、とナマエが軽く息を零した。
それにすらびくりと怯えたように体を震わせたロシナンテに、ふふ、とナマエが笑い声を零す。
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