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あと半歩外した未来
※主人公はエニエス・ロビーの雑用係
※微知識



「あ」

 ふと植込みの向こうに見えた三角の耳に、俺は思わず足を止めた。
 それからきょろきょろと周囲を見回して、自分以外の人間の目が無いことを確認する。
 別にやましいことをしているわけではないが、ここにはおしゃべりな諜報員がいて、見られてしまうとあちこちで吹聴されて大変だからだ。
 確かめた限り、他には誰もいないようだった。
 万が一にも誰かが潜んでいたならただの雑用でしかない俺には気付ける筈もないが、わざわざ『誰か』が中庭に潜む理由なんて無いだろう。
 軽く息を吸い込んでから、それから押してきていたカートを中庭へと押し込み、角へと置いて手を放す。
 長官殿にコーヒーを無駄にされる当番が回ってきたときは少しばかりうんざりしたものだが、あそこでコーヒーを三回淹れなおしたからこそこの場面に遭遇できたのだとすれば、ひょっとしたらスパンダム長官は天使かもしれない。
 面と向かって言ったら酷い顔をされそうなことを考えつつ、足を動かした俺が向かったのは植え込みの向こう側だった。
 あまり背の高くない垣根を回り込み、そしてそこにあった一人分の影に、思わず顔がほころぶ。
 穏やかな日当たりが心地よかったのか、植え込みの裏に横たわって眠っているらしいその人は、人間とは思えない姿をしていた。
 服を着ているが、そこから覗く肌は殆どが毛皮で覆われていて、長いマズルも三角の耳も、ほんの少しちらついて見える牙も獣のそれだ。
 誰がどう見たってイヌ科の生き物と人を混ぜたようにしか見えないその人は、ジャブラという名前のCP9だった。
 芝生の上に転がるなら毛皮があった方が快適だからと言って、よくこうやって裏庭に転がっている彼を見かける。
 自室にも芝生を敷き詰めていて、随分と快適そうなのだが、人工芝と屋外とではまた違うらしい。
 初めて遭遇した時は、ぱた、ぱたと機嫌よく揺れる尻尾に惹かれて近寄ったのだ。
 あの時の俺は、その生垣の向こう側に間違いなく犬がいると思っていた。
 実際の所はまあ狼だったわけだが、どちらもイヌ科だからあまり変わらないだろう。
 眠っている相手を起こさないよう、そろそろと近付いて、それからそっとすぐ近くに座る。

「……今日も、よく寝てるなァ」

 手を伸ばせば触れそうなくらい近くにいるというのに、寝息を零す相手が目を開ける気配はない。
 何となく『知っている』記憶の中で、CP9というのはもっと神経をとがらせて生きているものだと思っていたのだが、それは俺の記憶違いだったのかもしれない。
 もはや記憶自体が随分と遠いものだから、俺が覚えていることなんてほんのわずかだ。
 エニエス・ロビーにやってきたのは自分の記憶を確かめる為だったけれども、今のところまだ麦わら帽子の海賊は噂も聞かない。
 そんな俺の記憶の中の『ジャブラ』より、破壊的に魅力的な相手をじっと眺めてから、そうっと相手の方へと手を差し出した。
 ゆっくりと近付けた掌が、わずかに上向きになっている鼻先へと近付く。

「……んが」

「!」

 いびきじみた声が出て、俺はそこでびくりと手を後ろへ引いた。
 それから恐る恐ると窺ってみるものの、わずかに眉間のあたりに皺を寄せた誰かさんは、こそばゆかったらしい鼻先を軽く片手で擦ってから、それでも目を覚ますことなく少しばかり寝返りを打った。
 片手は枕にしたまま、もう片手を放り出した体が横向きから仰向けになり、ますます無防備だ。
 腹を晒すような恰好は『犬』なら信頼の証だったり構ってほしいサインのようなものだが、さすがに実家のポチと同じ扱いは出来ない。
 いや、俺としてはこの無防備に晒された腹部を果てしなく撫でまわしたいが、だがしかしそんなことをすれば、間違いなく怒られるだろう。
 何せこの人はCP9、闇の正義を執行する特殊業の人間だ。
 時々、ロブ・ルッチと恐ろしい喧嘩をしているのも見かける。
 今は『まだ』キリン人間ではない同僚ともよくやり合っているし、その時のこの人と来たらとてつもなく楽しそうだ。
 尻尾もぶんぶん振り回し、相手を睨み付け唸りながら牙を剥いていた誰かさんを思い出した俺は、ああやっぱり怖いよなあ、なんて考えて、そしてそこでぺたりと何かが自分の手に触れたことに気付いた。

「…………うわ」

 ぴたりと動きを止め、それから自分の手へと視線を向けて、思わず声を零す。
 何と言うことだろう。俺の手が、目の前のCP9のお腹に触れている。
 他の部分に比べてかなり短い毛並みで覆われた腹にはしっかりと筋肉がついていて、その弾力とぬくもりが俺の指を押し返す。
 どうやら、無意識のうちに手が伸びていたらしい。
 やってしまった、と思いつつも、しかし触ってしまったものは仕方ないとそろそろと指を動かしてしまう辺り、俺も随分とこらえ性のない人間である。
 だがしかし、これは不可抗力だ。
 大体にして、この人がこんな風に無防備なのが悪い。

「……言っても聞かないんだもんな」

 俺は再三、俺の前で無防備なことをするのは止めてくれと申し上げてきたのだ。
 ただの雑用がCP9様に何を言っているのかと笑われたが、しかしそれは死活問題である。
 何せ、エニエス・ロビーにはペットは持ちこめない。
 すなわち俺の今の癒しは、実家で飼っていたポチという名前の今はもう会えないペットとの思い出と、そして時々中庭で無防備に眠っている狼さんである。
 動物なら何でもいいということは無いし、さすがにロブ・ルッチを見て癒されるなんて思ったことは無いが、この人は別だ。
 むしろここ最近は、この人がこの姿でないと落ち着かない。

「自己責任、自己責任」

 自分を誤魔化すように言葉を繰り返しつつ、さわさわと立派な腹筋を撫でる。
 もう少し柔らかだったら更に良かったな、なんて勝手なことまで考えたところで、唐突に俺の腕が何かに捕まれた。
 驚いて身を引くよりも早く、俺を掴んだその相手にぐいと引き倒され、芝生の上へと倒れ込む。
 ちくちくと頬を芝生の葉に刺され、痛いようなこそばゆいようなそれを受け止めて慌てて起き上がろうとすると、それを阻むようにどし、と何かが俺の体を押さえつけた。

「何が自己責任だ、人の寝こみを襲いやがって」

 呆れたような声音で寄越された言葉に、あ、と声を漏らす。

「起きちゃったんですか」

「あんだけ触られて眠ってられるわけがねェだ狼牙」

 くすぐってェんだよ、と唸りつつ、俺を抑え込んだ狼人間が俺の手を手放した。
 そして空いた手でごしごしと自分の腹を擦って、鼻先にぎゅうっと皺を寄せる。
 不愉快そうなその顔を見上げて、ごめんなさいと謝罪をしつつ、俺はひとまず自分を抑え込んでいるままの相手の腕に手を添えた。
 小型犬一匹分くらいはありそうな太い腕は、やっぱり毛皮に覆われている。

「もうしませんので、許してください」

「…………人の腕撫でながら言われて、信用できると思ってんのか?」

 指触りの良いそれにさわさわと指を這わせながら訴えると、俺を見下ろした彼がうんざりとした調子で言葉を紡いだ。
 これで何度目だ、とは言われても、こんなに良い手触りのものを俺の上に乗せているこの人が悪いんじゃないだろうか。
 じっと見上げて首を傾げると、てめェな、と声を漏らした相手が、仕方なさそうに溜息をもらす。

「そんなに毛皮が好きか、ナマエ」

「違います、俺は犬が好きなんです」

「おれは狼だって言ってんだ狼牙!」

 俺の主張に声を荒げて、全く、と唸った彼の手の力が、少しばかり緩む。
 それとともにしおりとその体がしぼんだことに気が付いて、俺は慌てて相手の腕から手を放した。
 自由になった掌で、とりあえず自分の両目を覆い隠す。
 しかし、俺の抵抗は敵わず、俺の視界を閉じた筈の両手が、片手で掴まれてぐいと引き剥がされた。

「毎回毎回、なんでそうなんだ、てめェは」

 さっきまで俺が耳にしていたのと同じ声でそう言いながら、こちらを見下ろしているのは、つい先ほどまで俺の目の前にあったのとはまるで違う顔だった。
 マズルも無ければ三角の耳も無く、手触りの良い毛皮もない。唯一残っているのは、その目つきと髭だろうか。
 そしてそれはそのまま先ほどまでいた『狼人間』がこの目の前の『人間』と同一人物であることを示していて、だからこそ、俺はぐっと目を閉じた。
 だって仕方がない。
 俺はまだ、道を踏み外したくはないのだ。

「……あの、そろそろ起きても構いませんか」

「…………おう」

 目を閉じたまま、尋ねた俺へ返事が寄越されて、押さえ込んでいた腕が俺の上から退かされる。
 それを受けてひょいと起き上がった俺は、先程ここへ近付いた時とは打って変わった俊敏さで立ち上がり、目を開いてから、未だに芝生に座り込んでいる相手から一定の距離を取った。
 もちろん相手が本気になれば一瞬で距離が縮まるだろうが、とりあえずは手を伸ばされても届かない距離でようやく相手を見やる。
 こちらを見ている誰かさんは、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
 最初にこの人がこういう顔を俺に向けるようになったのは、確か俺が揺れる尻尾に惹かれて近寄った時だった。
 それまでは『CP9』という存在に距離を取っていたただの雑用係が、近寄ってきたことが不愉快だったのか。
 それでも、狼人間の姿のままでいろんな話をしてくれて、そのうちに少しは打ち解けられていたのだ。
 時々笑ってくれるようになったし、完全に『狼』な姿だって何度か見せてくれた。
 だからそう、今この人が不愉快なのは俺が悪い。
 動物の入り混じった姿の時は、まだいいのだ。
 俺は犬が好きで、どうやら狼もその許容範囲らしい。
 尖った耳も鼻先も、揺れる尻尾も手触りの良い毛並みも、どれも好きだ。
 けれども、変身を解いたこの人に、初めて笑いかけられた瞬間の衝撃と来たらどうしようもなかった。
 『動物好き』の『人間嫌い』だとか、そんな根も葉もない噂をおしゃべりな諜報員に立てられていることは知っているのだが、今はとりあえずそう言うことにしている。

「先ほど長官へコーヒーをお淹れしたところでしたが、お飲み物をお持ちしますか?」

「別にいらねェ」

「そうですか」

 事務的に訊ねた俺へ対して答えが寄越されて、頷いて頭を下げる。
 それでは失礼しました、と声を漏らしてすぐさま背中を向けると、後ろで少しばかりため息が聞こえた。
 せっかく仲良くしてくれるようになったのに、と思えば何とも心苦しい。
 しかし、俺だってまだ、道を踏み外すわけにはいかないのだ。
 動物の混じった姿だったならともかく、普通の人間としての姿で笑われて、それにときめいてしまっただなんて、本当にどうかしている。
 誰かさんが女性を愛する普通の男であることは、充分よく知っている。
 そして彼はとても惚れっぽい。おしゃべりな誰かさんから聞かされる噂話を他の同僚たちと一緒に楽しんでいたのは、もう随分と前までのことだ。今はあまり聞きたくない。
 真っ当な道を踏み外し、たぎらせてしまった想いを告げたとしても、間違いなく振られてしまうだろう。
 せめてもう少しだけ相手に慣れて、人間の姿の時でも今までのように接することが出来るようになればいいのだが、どうにもまだまだ難しい。
 もうしばらくは写真相手に練習しよう、なんて心に誓い、俺はひとまず中庭から逃げ出した。
 CP9が雑用係の気配に気付かないだなんて、そんな馬鹿なことあるわけないということを俺が教えてもらえるのは、俺が道を踏み外した後のこと。
 つまりは、まだまだ先の話だった。



end


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