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檻の中で二人 (1/3)
※短編『海の森の彼2』の続き
※ちょこっと子アーロン



「……何をしていやがる」

 訪れた部屋の中で、アーロンの口から低い声でそんな言葉が紡がれた。
 言葉を向けられた相手の方は、何って、と不思議そうに呟きながら軽く両手を広げる。

「掃除をしてたんだ」

 綺麗になっただろ、と言い放つ相手の言う通り、室内は随分と清潔な状態になっていた。
 元々気まぐれで拾っては『遊び道具』に使う人間を放り込んでおくだけの部屋だったそこは、清掃など殆どされていない場所だったのだ。
 それがどういうわけか、床も壁も扉代わりの鉄格子も、丁寧に磨かれている。
 誰かに運ばせたらしいバケツの海水で手を洗ったナマエが、丁寧にその手を拭いた。
 その手首に付けさせた手錠がじゃらりと鎖を床へ擦り付けているが、ナマエは慣れた仕草で長いそれをさばいている。
 一週間も身に着ければ、いい加減慣れてくるというものだろう。

「勝手をしてるじゃねェか」

 その様子を眺めてアーロンが凄むと、汚いと気になるじゃないか、とナマエが笑う。
 そう言えばこの『人間』は妙に綺麗好きだったと、アーロンはかつての記憶を揺り起こす。
 アーロンが今よりもっとずっと幼かった頃、海の森に隠していたアーロンの所有物は、苔むした地べたにアーロンが座るたびに注意をしていた。
 汚れるぞと言いながら自分の膝へ座らせていたことまで思い出してみると、案外この所有物は献身的な生き物だったのかもしれない。
 しかし、一度勝手に姿を消したナマエが自由に何かをするということは、アーロンにわずかな不快感を与えた。
 ぎし、と歯を軋ませたアーロンを見あげて、悪い顔だ、とナマエが笑って呟く。
 しかし、普通の人間だったなら間違いなく怯えて慌てふためくだろうに、その顔に恐怖の色どりを重ねることなく、ナマエの口からは溜息が漏れた。

「だって、お前も俺を放ったらかしだったじゃないか」

「ああ?」

「話し相手もいないし、時間が余って仕方ないんだ」

 そんな言葉を放つナマエに、アーロンはその目を眇めた。
 一団をその背に追うアーロンが、わざわざ『ペット』を毎日構ってやる義理は無い。
 ナマエをこの部屋へ放り込んでから最初の二日ほどは足を運んだものの、幾度も人間に会いに行けばそれだけ周囲の魚人達が困惑することは、アーロンにだって分かっていた。
 人間という名の下等種族を、暇潰しに甚振るでもなくこうして閉じ込めておくことだけでも、今までに無かったことなのだ。
 喜々としてナマエの世話を焼いているのはハチのようだが、あちらの方が特殊だろう。

「てめェの都合なんざ知るか」

 だからこそそう唸り、アーロンの手が鉄格子に結び付けた鎖に伸びる。
 掴んだそれを引き寄せれば、わ、と何とも間抜けな声を出したナマエが、アーロンの方へと引きずり寄せられた。
 アーロンが手を振りぬけば簡単にその首をへし折れるだろう距離へやってきて、ナマエの目がアーロンを見上げる。
 どことなく不思議そうな眼差しに、どうしてだか幼さを感じて、アーロンの口からはまたも舌打ちが漏れた。
 小さな頃、見上げていたナマエは、誰がどう見ても大人の分類であるはずだった。
 アーロンより弱く、アーロンが助けてやらなければ生きていけなかっただろうが、それでも間違いなくアーロンより年上だったのだ。
 だというのに、どうしてか今のナマエは年齢もアーロンより少し下に見える。
 ナマエの自己弁護をきくならば、ナマエはあの『いなくなった日』から唐突に今日という日を辿っていて、アーロンと同じ時間を重ねていないらしい。
 荒唐無稽で馬鹿らしい話だが、アーロンが生まれて育った偉大な航路という海は、何もかもが常識を外れている。
 あり得ないとは言い切れないそれを裏付ける顔を見下ろして、アーロンが口を動かした。

「……『前』は、どうやって時間を潰していやがったんだ」

 同じようにすればいいだろうがとアーロンが唸ると、それも無理だと思うけど、とナマエが少しばかり困ったような顔をする。

「だって、ここには沈没船も無いだろう?」

 述べられた言葉に、アーロンはナマエがアーロンを口止めするために『上納金』を探し歩いていたことを思い出した。
 アーロンが与えたバブリーサンゴを使って海の中をうろついて、金貨や宝を拾ってはアーロンへと差し出していたのだ。
 最後はそれすらなくなって、ナマエは最後に自分自身を差し出した。
 その日に巻いた首輪代わりのベルトは、今もナマエの腕を飾っている。

「衣食住も提供されているから色々しなくてもいいし、何よりここから出られないし」

 やっぱりやることが無い、とナマエが続ける。
 確かにその通りかもしれないが、もしやそれは、暗に『此処から出せ』と訴えているのだろうか。
 眉間に皺を寄せ、やはり少し痛い目に遭わせて立場を分からせてやるべきかと考えたアーロンの前で、あ、とナマエが声を漏らす。
 何かを思いついたのか、ぽんと手すら合わせた相手に、何だとアーロンが声を掛けると、それを受けたナマエがアーロンを見あげた。
 それからその顔がにっこりと笑って、どうしてかそのままぺたりと下へと座り込む。
 丁寧に磨かれた床はナマエの体を汚してはいないようで、自分で片づけたのだろうそこを撫でて満足したらしいナマエが、自分の腕につながっている手錠の鎖を掴み、それを握っているアーロンを呼ぶように軽く下へと引っ張った。

「ほら、アーロン」

 言いながら、空いた手がどうしてかぽんぽんと己の膝を叩く。
 何が言いたいのか分からず、アーロンが立ち尽くしたままその姿を見下ろしていると、少し待ってから、あれ、とナマエが首を傾げた。
 どうしたんだとその口が問いを寄越すが、そう問いたいのはアーロンの方である。

「何がしたいんだ、てめェは」

「何って、森ではよく言ってたじゃないか」

 柔らかな声で、己にだけ近い過去を手繰り寄せたナマエが言葉を紡ぐ。

「『なんでもいいからおれが知らない話をしろ』って」

 そう言ってくれただろうと続いた言葉に、アーロンは先ほどよりもその目を眇め、鋭く舌打ちを零した。
 まるでつい昨日のことのようにナマエは言うが、それはアーロンにとってはもうずっと昔のことだ。
 海の森でのナマエとの思い出なんて、もはや片手で握って隠せるほどしかない。
 しかもそのうちの大半がロジャーに奪われたという『勘違い』に満ちているということを、どうしてかこの人間は理解していなかった。
 下等種族なのだから仕方ないと諦めてやるべきなのか、どうしてそんなに馬鹿なのかと詰ってやるべきなのかも分からない。
 歯を噛みしめたアーロンを少しばかり見上げた後で、ああでも、とナマエが言葉を零す。

「アーロンも大きくなったから、もう膝には乗せられないか」

 上位に属する種族のアーロンへ向かって、むかいへどうぞと床に直接座ることを求めてきた男に、アーロンは今すぐこの人間を座布団にしてやろうかどうか、少しばかり悩んだ。
 そうせずに許してやったのは、わずかに残る思い出の中の『所有物』が、目の前のナマエと重なった気がしたからである。







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