好望を食んだ夜
※主人公は何気にトリップ系海兵
故郷の外は、今までイッショウの知らなかったことで溢れている。
「はろうぃん」
耳慣れない単語もそのうちの一つで、相手の言葉を繰り返したイッショウに、そうですと傍らから返事が寄越された。
世界徴兵を受けて海軍大将『藤虎』となったイッショウの副官は、ナマエという名前の青年だ。
目の見えぬイッショウの代わりに書類を読み、イッショウの言う通りに書類を仕上げる彼のことを、イッショウはとても信頼している。
世界には見たくもないような汚いものもありふれてそこいらに落ちているが、目を閉じた代わりに発達した見聞色で『見る』限り、ナマエはそう言った汚さからは隔絶されてでもいるようだった。
嘘を言わない、イッショウを騙そうとしない。
誤魔化そうとすることもなく、人命を守るために手を尽くす。
『海賊の全てが悪い人だとは思わない』だなんて、苛烈な海軍元帥が耳にしたなら今すぐ殺しに来るだろうことをナマエがイッショウへ打ち明けたのは、イッショウが白と黒で世界を分けられるかと尋ねた時だった。
イッショウもまた、海軍元帥が抱くのとは違う正義を背負っているが、元は彼に選ばれた身の上だ。
そんなことを言って罰を与えられると思わなかったのかと尋ねたイッショウに、聞いたのはイッショウさんじゃないですか、とナマエは答えた。
誠実に命と体を与えたならこういう人間になるのだろうと、イッショウはぼんやりとナマエへそんな評価を下している。
他者を圧倒するような力はないようだが、そのうち出世してイッショウの身の回りの雑用からも離れ、今よりもっと多くの人間へ優しく接し、助けていくに違いない。
そんなことを考えながら彼の方へ顔を向けて、イッショウはわずかに首を傾げた。
「そいつァ一体、どういった祭りなんで?」
警邏に出た今は夕暮れを過ぎた頃の筈だが、いつもよりも通りの人の気配が多い。
あちこちから『トリックオアトリート』なんて子供の声が上がっていて、随分と楽しそうだ。
「祭りって言うか、何と言うか……まあ、市民にとっては、仮装してお菓子を貰う行事ですよ。子供が大人にもらうのが殆どですけど」
もう少し詳しく色々あるんですがと呟いたナマエへ、なるほど、とイッショウは頷く。
それからごそりと少しばかり懐とたもとを探って、ああこりゃしまった、と声を漏らした。
「菓子を持ってくるのを忘れやした」
これでは、子供があの不思議な呪文を唱えてきても菓子を渡してやることが出来ない。
何処かで買うべきなのかと仕込み刀を杖にして呟いたイッショウへ、どうぞ、と何かが差し出される。
気配を感じ取ったイッショウがそちらへそっと掌を向けて差し出すと、イッショウの大きな手には不釣り合いな小ささの何かが乗せられた。
かさり、とわずかに漏れた包装の音に、引き寄せたイッショウの指がそれを検める。
「こりゃあ」
「飴玉です。まだまだありますよ」
用意してきましたと寄越された言葉に、ははあ、とイッショウは声を漏らした。
「こりゃあどうも、ナマエは相変わらず、用意のいいこって」
「俺だって、イッショウさんが悪戯されるのは見たくないですからね」
準備は万全です、と答えたナマエは、どうやら拳を握っているようだ。
ありがたく頂いた飴のうちの一つを自分の口へと放り込み、口の中で転がしながら残りを懐へと仕舞い込んで、おや、とナマエの言葉に気付いたイッショウが再び首を傾げた。
「悪戯ってのァ……」
「『トリックオアトリート』ですから。お菓子を渡せなかったら、悪戯されるんですよ」
「へえ、そりゃあまた」
いまひとつ意味の分からぬ行事だと、イッショウは相槌を打ちながら少しばかり困惑した。
仮装はともかくとして、悪戯を盾に菓子をせびるなど、ほとんど恐喝である。
しかし、あちこちから聞こえる笑い声からするに、市民たちはみんなそれを楽しんでいるようだ。
去年は衣装が汚れて大変でしたと呟いたナマエが一体どういった『悪戯』を受けたのかは気になるが、訊ねて良いことなのかと考えてそれを止めたイッショウの口からは、別の言葉が抜けて出た。
「……それじゃあ、ナマエも今ァ、何か仮装をしてらっしゃるんで?」
『衣装が』という言葉からして、去年は何かの仮装をしていたのだろう。
今年もそうなのかと尋ねたイッショウへ、はい、とナマエが返事を寄越した。
「今日は海軍本部も一部の将校と雑用が仮装してましたよ。さすがに中将より上は示しがつかないのでしてらっしゃらないですが……」
「……平和ってのァ、いいもんだ」
大海賊『白ひげ』エドワード・ニューゲートの遺した言葉によって荒れ始めた海は、あちこちで波乱を呼んでいる。
それでも、こういった催しを行えるほどには平穏なのだと納得したイッショウに、そういうもんですかねとナマエが呟く。
それへ頷いてから、イッショウの手がひょいとナマエの方へと向けられた。
無造作に伸ばされたそれに気が付いて、ナマエの手がイッショウの手を掴む。
「はい、どうぞ」
そうして、何も言わなかったイッショウの望みをかなえる為に、ナマエのその手がイッショウの掌を導いたのは自分の頭の上だった。
ふわ、と柔らかな感触が指をくすぐり、それに気付いて軽く形を確かめたイッショウが、なるほどと呟く。
「犬の妖怪と」
「何で妖怪なんですか。違いますよ、狼男です」
思いついた『仮装』を口にしたイッショウの言葉を否定して、それから答えを口にしたナマエに、こりゃあ失礼、とイッショウは素直に謝った。
そのまま気にせずナマエの頭を撫でるようにして形を確かめても、ナマエには嫌がるそぶりもない。
イッショウの目が見えないからと、ナマエはイッショウの接触を拒まないことが多かった。
さすがに見聞色でも分からないその目鼻顔立ちを、イッショウは指で辿って知っている。
一度ならまだしも、二度、三度と顔を触られても嫌がらないナマエには少し戸惑ったが、拒否しないのなら好都合だと幾度か指を辿らせたので、彼の怒った顔も笑った顔も困った顔も、見えない瞼の裏に思い描くことが出来るようになった。
今もまた、仮装ごと触られているというのに気にしていないナマエの頭を存分に撫でてから、ようやく満足したイッショウはそっとその手を降ろした。
「来年はあっしも着やしょうかねェ、楽しそうだ」
「イッショウさんがですか? イッショウさんの仮装なんて座頭市の恰好しか浮かばないんですが……」
「それじゃあ、それで」
『ザトウイチ』というのが何なのかは分からないが、ナマエが選んだならそれでいいかと思ってイッショウが頷くと、いやいやそれは困りますとナマエが何やら拒否をした。どうやら、『ザトウイチ』というのは『はろうぃん』には似合わないものであるらしい。
それからうーんと声を漏らして、その視線が向けられたのを感じる。
それからやや置いて、分かりました、と頷いたナマエが言葉を紡いだ。
「それじゃ、一年かけて似合いそうな仮装を探しておきます。中将からは免除ですが、まあイッショウさんなら許される気もしますし」
「そりゃあどうも」
褒めてはいそうにない言葉へイッショウが礼を言った。
簡単に『来年』を口にしたナマエは、恐らくはその言葉の通り、来年もまたイッショウの傍らにとどまっていてくれることだろう。
そう考えると、何となく嬉しさに似た面はゆさがイッショウの口元を緩めてしまう。口の中の飴の甘味が一層増した気がして、ああ後で茶が飲みたいな、とぼんやりと思った。
引き締めようにもどうにもならない唇を諦めて、イッショウの手が仕込み刀を持ち直し、とん、と軽く石畳を叩いた。
「それじゃあ、行きやしょうか」
「はい」
言葉を放ち歩き出したイッショウの傍らを、ナマエが付いてくる。
目の見えないイッショウに合わせたゆったりとした歩みを感じ取りながら、イッショウは本日の警邏を開始した。
すでに顔の知られていたイッショウへ近寄ってきた子供らを撃退しても余ったナマエの飴玉は、その翌日からしばらく、イッショウのおやつとなっていた。
end
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