特別扱い。
※戦争編以前
大将青雉と呼ばれる海兵のことを、ナマエは知っている。
正義の味方であるべき海兵の中で少し異質な面倒くさがりの彼は、その割に部下に慕われている海軍の最高戦力の一人だ。
「あー……やっぱここのコーヒーはいいわ……」
だらりとカウンターに懐いて言葉を紡いだ彼へ、お替りを入れますか、とナマエが尋ねると、ちょーだい、と答えた彼の長い手が自分の持っているカップを差し出した。
白い陶器を受け取って、それを手にナマエはそのままカウンターの内側へと移動する。
間に壁の無い対面式のそこから、だらだらとカウンターに頭を預けながら窺ってくる相手の視線が突き刺さるのを感じて、ゆっくりとコーヒーを淹れながら、ナマエはちらりとそちらへ視線を向けた。
「そんなに見られたら穴が開きますよ」
「大丈夫でしょ、多分」
当人でも無い癖にそんな適当なことを言ってひらりと手を振った彼が、カウンターに懐いていた体を持ち上げるようにして身を起こし、頬杖をつく。
額にアイマスクを乗せたままの彼をちらりと見やってから、ゆっくりとコーヒーをカップの中へ落としつつ、ナマエは口を動かした。
「最近はお暇そうですね、クザンさん」
「あらら……そう見える? おれ、これでも激務なんだけど」
「こんな辺鄙なところに週に何度も通うくらいお時間がある癖に、またそんなことを言って」
嘘つきな海兵へそう言ってやりながら、丁寧に注いだコーヒー入りのカップをカウンターの向こうのクザンへと差し出して、ナマエが笑う。
頬杖をついたまま、カップを受け取ったクザンは、それを自分の傍へと引き寄せて置いてから小さくため息を零した。
「忙しい合間を縫って会いに来てくれてるんだ、とかは思わないわけね」
「口説くなら女性相手にしてくださいよ」
寄越された言葉に、ナマエは肩を竦めた。
確かにナマエはクザンに比べれば小柄だが、どこからどう見ても男性だった。
共に風呂に入ったことなどあるわけもないが、そのくらいはクザンにだってわかっていることだろう。
ナマエの言葉に、はいはい、と面倒くさそうな返事をして、クザンの唇がカップに触れる。
まだ温かなそれを飲むクザンに、熱い飲み物を飲んでも溶けたりしないのだなと、ナマエはそんなことを少しだけ考えた。
ナマエの目の前に座る彼は、ヒエヒエの実とやらを食べた氷結人間だった。
彼が『海軍大将の青雉だ』と名乗ったわけではないし、彼の能力をその目で見たわけでもないが、ナマエはそれを知っている。
何故なら、ナマエはこの世界の人間ではないからだ。
本来なら、普通に生きて普通に過ごして普通に死ぬはずだった、ただの日本人だった。
それがどうしてかこのマリンフォードへと紛れ込んでしまったのだ。
右も左もわからないナマエを拾ってくれた心優しい老夫婦に促され、今はこの小さなカフェを営みながら、ずっと『この世界』から帰る日を心待ちにしている。
『あららら……こんなところにこんな店があるたァ、知らなかった』
そんな風に言いながらある日現れた客に、驚きのあまり声を上げそうになったのは記憶に新しい。
昔読んでいた漫画のキャラクターそのままの相手に、まさかまさかとは思ったがやはりここは『あの漫画』の世界なのだと把握して、ナマエは一人で思い切りため息を吐いた。
人の顔を見てため息なんて失礼じゃない? と笑った『大将青雉』は、それからこの店の常連客だ。
「やっぱり、ナマエのコーヒーは旨いなァ」
カップの中身を半分ほど飲んだところで、はあ、と息を吐いてクザンが呟いた。
「仕事場でだって、コーヒーくらい飲めるんじゃないんですか?」
それに対して言葉を投げながら、ナマエが出したものを片付ける。
頬杖をついてナマエの動きを眺めてから、カップを手放したクザンがその手を横に振った。
「ダメダメ、あそこのはコーヒーっつうか『黒くて酸っぱくて苦いの』だから。腹減ってる時に飲んだら胃に穴が開くんじゃねえかってくらいの」
「普通のコーヒーでも駄目ですよ、それは」
酷い味なんだと訴えるクザンに笑ってから、ナマエの手が皿を取り出す。
その上に何枚かのクッキーを乗せて、それをそのままクザンの前へと置くと、クザンはちらりとそれを見下ろした。
「今日はクッキーなんだ?」
「はい。ちょっと多めに作ったんで、こちらはお土産にどうぞ」
笑っていいながら、ナマエが包みを皿の横に並べる。
クザンが来る前に焼き上がったそれらが放つ甘いにおいに、クザンがわずかに目を細めた。
ふうん、と声を漏らして、動いたその手がクッキーを一枚つまみ、その口がかじりつく。
「うん、旨い」
「ありがとうございます」
寄越された言葉へ素直に返して、ナマエは今度こそ片づけを終えた。
コーヒーとクッキーをさらに口へ運んでから、その様子に気付いたクザンが言葉を零す。
「ナマエも、もっと人通りの多いとこに店開いたら、もっと繁盛するんじゃない?」
「テナントを借りるのって大変なんですよ、クザンさん」
こじんまりとした店にたった一人しかいない客からの提案に、ナマエはそう返事をした。
この店は、ナマエを拾ってくれた老夫婦が昔営んでいたと言う喫茶店のテナントをそのまま使用しているのだ。
毎月の売り上げから老夫婦へ支払いはしているが、彼らが受け取ってくれるぎりぎりの金額を渡しても、それが相場には届かないことくらいナマエだって知っている。
ナマエの言葉に、まァ金はかかるな、とクザンが言葉を零した。
「もしアレなら、おれが出資してもいいけど」
放たれた言葉に、ナマエは軽く首を傾げた。
常連だが、クザンはただの客であって、ナマエとはそれ以上には何のかかわりもない相手だ。
どうしてそんなことを言うのだろうと視線を注いだ先で、それに気付いたクザンが軽く頬を掻く。
あー、と声を漏らした後で、何かを言うのが面倒くさくなったのか、もういいや、と何とも無責任な言葉を紡いで、クザンは再びカウンターへと懐いた。
「まァ、繁盛しちまうと、今みたいに暇そうなナマエと話すのもできなくなるしね……」
「それはそれで失礼だと思うんですよ」
「ん? そう?」
悪びれた様子もなく頭を傾けたクザンに、ナマエは軽くため息を零した。
それから、その口元に笑みを浮かべて、カウンターの向こうからクザンの方をのぞき込む。
「まあ、もし移転するとしても、出資はお断りしますね。そんな借りを作ってしまったら、クザンさんを特別扱いしないといけないじゃないですか」
大通りから随分外れたこの場所から移動するつもりもないが、そんな風に言葉を紡いで、ナマエはクザンへ微笑みを向けた。
今だってクザンを特別扱いしているようなものではあるが、他に客がいないことが殆どのこの時間帯で、他と比べられないクザンがそれに気付くはずもないだろう。
ナマエが好みに合わせた豆を多めに用意しているのも、茶請けに菓子を出すのも、時々『多めに作ったから』と土産を持たせるのも、クザンに対してだけだ。
それがどうしてかと問われたら、彼がこの店を開いて初めての客で、ナマエが用意したものを『旨い』とほめてくれた最初の一人だからに他ならない。
他のどの客に言われるよりも、彼が言うその言葉を聞くのがナマエは好きだった。
しかし、さすがに毎回贔屓をしていたら他の客から不満が出るだろうし、本人に贔屓を気付かれるのも面映ゆいものがある。
微笑んだままそんなことを考えたナマエの前で、ぱちりとクザンが瞬きをした。
それから、その目がちらりと先ほど半分を平らげたクッキーの皿へと向けられて、その隣の包みへと移行する。
甘い香りのするそれらを観察した後で、クザンの唇からはコーヒーの匂いがするため息が漏れた。
「……ナマエの『トクベツ』扱いは、そりゃもう豪勢だろうね」
「何ですか、急に」
変なことを言い出した相手にナマエが尋ねると、いんやァ別に、と返事をして、クザンの手がコーヒーカップをつつく。
まだ残っていた温かなコーヒーが揺れて、白い陶器の内側でわずかに波打ったそれを見ながら、もう一杯くらい出してもいいかな、なんてことを考えていたナマエは、クザンが少しばかりつまらなそうな顔をしたことには気付かなかった。
end
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