夢の島からの脱出
※異世界トリップ主人公
冴え冴えとした月の光が、暗い海を照らしている。
もはや見慣れた光景となったその海の彼方を眺めていた俺は、暗いそこに一つだけのあかりを見つけて、あ、と小さく声を漏らした。
「来た」
思わず呟いて、顔が笑みを浮かべたのが分かる。
座っていた岩場から立ち上がって軽く手を振ると、小さな光の入ったランタンを手にした船上の人影も、同じように手を振り返してきた。
ゆっくりとこちらへ近付いてくるその船を見つめながら、よし、と小さく頷いて拳を握る。
何だか動悸がしてきたのを、深呼吸をしてどうにか落ち着かせる努力をした。
今日は、俺の決戦の日なのだ。
※
最初は、ただの夢かと思ったのだ。
寝ている間にだけ来ることが出来るこの島は、日本では見られないような光景ばかりが広がっていた。
寒くも無いのに時折オーロラの浮かぶ夜空も、名前すら知らない魚が泳ぐ岩場の潮溜まりも、きらきらと輝く砂とは思えない砂の広がる砂浜も、全部が全部俺にとっては未知の場所だった。
面白がってあちこちを探索した俺が出会ったのは、あきらかに日本人とは思えない大きさの男性だった。
小舟でこの島に来たんだと言うその人は、茂みから俺が出て来たのに驚いたような顔をして、その後で「先客がいたのか」と笑った。
エドワード・ニューゲートと名乗ったその人に、何だか知っている気がする、と記憶を検索して、漫画のキャラクターが出てきてしまったのはご愛嬌だ。
どうやら俺の脳みそは手近なところから登場人物を借りてきたらしい、というのがその時の俺の見解で、まだ『白ひげ』ですらないニューゲートは、俺に海の話をしてくれた。
それから、夜になってその岩場に行くと、俺は高確率でニューゲートに会うようになった。
俺が感じているのと夢の中の時間の経過は違うらしく、俺にとっては翌日になるその夢の中が、前日の夢から一年後になることなんてしょっちゅうだった。
ある日突然髭が生えていた時には驚いたが、俺がよく知る顔になったので素直にほめた。
グラララと笑ったニューゲートは何だか少し嬉しそうで、そうやって笑うニューゲートを見ていると何だか俺まで嬉しかった。
楽しいけど、何で毎日同じ夢なんだろうなんて考えていた俺が、それがどうもただの夢では無いらしい、と気付いたのはしばらくしてからのことだ。
「ナマエ、おれの船に乗らねえか」
ある日そんな風に誘われて、夢の中なんだし別にいいかなと思ったのに、俺は少しだけ答えるのを迷ってしまった。
そんな俺を見て笑ったニューゲートが、次に会う時までに決めてくれたらいいんだと口にして、手渡してきたのは妙に装飾のごてごてとした短剣だった。
予約だ、と言って笑ったニューゲートが島を離れていった後、俺はそっと短剣を握りしめながら、遠ざかっていく小舟を見送っていた。
何で頷かなかったんだろう、とその大きな背中を見送りながら考えて、どうしたらいいのか分からず困った俺がぱちりと瞬きをしたときには、俺は目を覚ましていた。
「……あれ?」
そこは現実の世界であるはずなのに、俺の手にはあの短剣があった。
思わず目を見開いて、三回ほど目を擦って、ついでに二回ほど頬をつねったのだから間違いない。
つまりあの場所は現実なのか、と把握して愕然とした俺の目の前で、俺に『そこにあること』を認識された短剣が、ゆらりと輪郭を揺らがせたのは、そのすぐ後だった。
「……は?! わ、ちょ、ちょっと……!」
驚いて声を漏らしたってどうにもならず、握りしめていたそこから感触が無くなって、手を開いた俺の目の前で、短剣は消えた。
まるで最初からそこに無かったかのような状態になったけど、短剣を押し付けていたシーツにはその形が残っているのだから、そんな筈が無い。
つまり、俺の『夢』の世界は現実だったのだ。
その日は確か、一日中困惑しながら過ごしたと思う。
その日の夜見た夢にはニューゲートが来なくて、考える時間は一晩分あった。あの短剣は俺がニューゲートと別れた岩場に落ちていて、少しだけほっとした。
一晩、考えに考えて出てきた結論は、ついていけるならついていきたい、ということだ。
思っていたより、俺はニューゲートに懐いていたらしい。丁度求職中で、誰かに迷惑をかけることも無い状態だったのも後押ししたのかもしれない。
初めて会った時には俺とそんなに変わらないくらいの年齢だったろうに、じわじわと年上になっていくニューゲートに、それ以上置いて行かれたくないと思ったのも確かだ。
けれども、短剣のことを思い出すと、例えばニューゲートの言葉に頷いて船に乗ったとしても、俺はあっさりとこちらの世界からいなくなる可能性の方が高かった。
どうにか出来ないか。
考えて、考えて、俺はひとまず、短剣と一緒に、傍らにあった小石をいくつか掴んだまま『目を覚まし』た。
目覚めた時に握っていたそれらを、自分の傍にとどめられる様に、考えられるあらゆることをした。
不思議なことにニューゲートには会えないまま、何回かそんな朝と夜を繰り返して、ついに今朝、世界へ留まる方法を見つけたのだ。
※
「ニューゲート!」
声を上げて岩場へ降りると、岩場の近くに船を寄せたニューゲートが、大きな体躯で船に腰を下ろしたまま、近寄っていく俺を待っていてくれた。
その目がじっと俺のことを見下ろして、それからその口からため息が漏れる。
「やっと会う気になったのか」
「? 会いに来たのはそっちの方じゃないか」
寄越された言葉に首を傾げつつ、すぐ傍で立ち止まってとりあえず言い返す。
今はもう確実に俺より年上のニューゲートは、それでも俺が敬語を使うことを嫌がったのでこんな状態だ。
何を言っていやがる、と小さく唸ってから、船から立ち上がったニューゲートが俺の立っている岩の隣に腰を下ろした。
「お前がその気にならねェと、この島は現れねェだろうが」
「…………そうなのか?」
初めて聞いた言葉に困惑した俺の横で、知らなかったのか、とニューゲートが呟いた。
その後に続いた言葉によれば、ニューゲートが会いに来た時にこの島が無かったことも、一度や二度ではなかったらしい。
知らなかった、とそちらへ言い返して、俺はきょろりと島を眺める。
どこからどう見たってただの島だと言うのに、そんな不思議に満ちていたとは知らなかった。
まあ、俺はこの世界にいなかったのだから当然かもしれない。
じっと見つめて、あまり風貌の変わっていないニューゲートに、いつもの挨拶をすることにする。
「久しぶり、ニューゲート。あれからどのくらい経った?」
「ああ、久しぶりだなナマエ。今回は短ェぞ、三か月だ」
俺の言葉に返事をしてくれたニューゲートは、少しばかり笑っていた。
三か月。今までに比べると、随分と短い時間だ。
あんまり待たせなかったなら良かった、とほっと胸を撫で降ろした俺の傍で、それで、とニューゲートが言葉を紡ぐ。
「決めたのか」
尋ねながら、じっとこちらを見つめるニューゲートの目は、まるで逃がさないとでも言いたげにぎらりと光っていた。
海賊の目みたいだ、と笑ってみて、そういえばニューゲートだって海賊だと言うことを思い出す。今がどのくらい有名なのかは知らないが、『白ひげ』と言えばこの世界では知らぬ者のいないような海賊だ。宝より家族が欲しいなんていう、ちょっと風変わりな。
「船に乗れってことは、俺のことを家族にするってことだよな?」
「するってのァなんだ。ならねェかって聞いてんだろうが」
尋ねた俺に、ニューゲートが言い返す。
その手がひょいと俺の方へと伸びてきて、掌がこちらへ向けられた。
「攫って行くのァ簡単だろうが、おれァお前の意思を尊重する。どうだ、ナマエ」
「海賊なのに、紳士的だ」
「アホンダラァ」
褒めたつもりなのに、呆れたような声を出されてしまった。
まあ、俺の意思はもう決まっているので、迷いもせずに手を伸ばして、出されていたニューゲートの掌へとそっと重ねる。
俺だってそう小さい方では無かった筈だが、ニューゲートは規格外に俺よりでかいので、俺の掌はニューゲートの手にだったらすっぽり隠れてしまいそうだった。
俺の動きを見ていたニューゲートが、ぱちりと瞬きをしてから、にやりと笑う。
「……いいんだな?」
「ああ、いいよ」
確認するようなそれに頷いてから、ああでも、と言葉を続けた。
「さすがにニューゲートを『オヤジ』と呼んでいいのか分かんないんだけど」
年齢差があるから今はそれほど不自然にも見えないかもしれないが、俺は髭が無い頃のニューゲートも知っているのだ。
きっともう何人かの『息子』を抱えているだろうニューゲートを見やって、なんと呼べばいいのか尋ねようとした俺は、微妙な顔をしたニューゲートに気付いて、あれ、と首を傾げた。
確かニューゲートは『家族』にそう呼ばれていた筈だし、そんな話題も出ていたと思っていたが、俺の勘違いだったろうか。
「ニューゲート?」
どうかしたのかと尋ねた先で、ニューゲートがそっと俺の手を握りしめ、小さくため息を吐く。
「……いつも通りで構わねェよ。『家族』にもそう話してある」
「? そうなのか」
よく分からないが、ニューゲートがそう言うならいいんだろう。
ふむ、と頷いた俺は、立ち上がったニューゲートが船に乗り込もうとするのに気付いて、ああちょっと待ってくれ、と声を掛けた。
片足を船に乗せようとしたニューゲートが、俺の言葉に動きを止める。
「何か持ってきてェもんがあるなら、もっとでけェ船を持ってくるが」
「いや、持っていきたいのはこれだけだから、それはないけど」
これ、でポケットに入れていた短剣を取り出して見せれば、ニューゲートがわずかに目を細める。
なぜかその手に力が入って、ちょっと痛い。さすがにこの体格差では、力の差も歴然だ。
そっと手を引っ張り、放してくれと訴えてから、自由を得た俺はそっと岩場の端まで移動した。
岩場の潮溜まりには、相変わらず見たことも無いような小さな魚達が泳いでいる。
澄んでいるが、随分と深いそれを見下ろして一度二度と深呼吸をしてから、ニューゲートの方へと鞘に入ったままの短剣を放った。
「ちょっとだけ、それ持っててくれ」
「ん?」
俺の言葉に怪訝そうな顔をしながら、ニューゲートが素直に短剣を受け取る。
それを確認してから、一度大きく息を吸い込んだ俺は、そのまま潮溜まりへと飛び込んだ。
ばしゃん、と頭の上で水音が鳴って、全身が潮水へと沈み込む。
予想通り深かったそこに満たされた潮水はそこそこ冷たく、しばらく待っても足すらつかないと気付いて、ぼこりと空気を吐き出しながら、慌てて水面へ向けて水を掻いた。
「ぷはっ、……ぐえっ」
「ナマエ! このアホンダラァ!」
水面から顔を出し、息を吸い込んだところで思い切り上へと引きずり上げられる。
そのまま乾いた板の上に放り落とされ、ごち、と縁に頭をぶつけて痛がりながら視線を向けると、何とも怖い顔のニューゲートが俺を見下ろしていた。どうやら俺は、小船の上に放られたらしい。
「急に夜の海に飛び込むなんざ、何を考えてやがるんだ!」
「いやごめん、ちょっと、頭から足の先まで水に濡れたくて」
「そんなもん、陸地で水でもかぶってりゃあいいだろうが!」
「……あ、そうか」
「この……っ!」
盲点だった。
目を丸くした俺を前に、更になにがしかを怒鳴ろうとしたニューゲートが、やや置いてその怒りをそっと飲みこむ。
代わりにそのまま俺と同じ船へと乗り込み、上に着ていた服を脱いで、乾いたそれがぽんと俺の方へと放られた。
「とりあえず、それにでも着替えろ。夏島じゃねェんだ、風邪をひいたら目も当てられねェ」
「いや、今の俺は濡れてるから、結局汚れるし……」
「着替えろ」
「…………はい」
許してくれたのかと思ったが、まだお怒りらしい。
ニューゲートの足が岩場を蹴り飛ばし、船が沖へ向けてゆっくりと動き出した。
オールを掴んで漕いでいるニューゲートから視線を外してから、とりあえず上着を脱いで、ニューゲートの服を上から着込む。体格差があるので、彼シャツだってこうはならないだろうというほどのぶかぶか具合だ。
前開きのシャツを、着物を着込むみたいに体に巻き付けながら、俺は改めてニューゲートの方を見やる。
じっと見つめていると、オールを動かしていたニューゲートが、じろりとこちらへ視線を向けてきた。
何だ、と尋ねてくるその視線を受け止めて、へらりと笑う。
全身が『この世界』の水にまみれた俺は、これでもう、乾いてもあの小石を置いてきたあの世界へは帰れなくなった。
だからもちろん、これから先はどこまでだって、この海賊についていくしかないのだ。
「これからよろしくな、ニューゲート」
「…………ああ」
笑って告げた先で、ニューゲートが頷いて、それから仕方なさそうに笑みを浮かべた。
end
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