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絵描きの唄
※無知識トリップ主は駆け出しの画家
※画家主シリーズとは別物



 世の中はいつだって、ままならないしうまくいかない。

 俺がそれを痛感したのは、あの日、唐突に『ここ』へ来てしまった時のことだった。
 一度だって『別の世界に行きたい』なんて思ったことも無いのに、逃げたくなるような要素の一つもなかった筈の現実から逃亡してしまう形になって、もうどのくらい経つだろう。
 鯨より大きな海の化物に、常識では考えられないような『能力者』、ギネスブックにだって乗っていないような大きさの『人間』に、知らない建物に用語に通貨に食べ物。
 俺に言わせればそれこそ『絵空事』としか思えないようなこの世界にとって、俺が語る『俺のいた場所』こそがそう言った意味合いのものに含まれるのだと気付いたのは、海を漂っているところを保護されて早々のことだ。
 本当に、全く誰も俺が生まれて育った『日本』を知らなくて、もはや自分の頭がおかしくなっているんじゃないかと思い始めそうなほどだった。
 それでも『確かにあった』記憶として、忘れたくなくて描き始めた絵は、どれもこれも『空想画』として値段をつけられる。
 出来る限り写実的に描こうとそれは同じで、けれども、自分だけが『知って』いるその絵を描いている間は、心の平穏を取り戻せる気がしていた。

「楽しいかァい?」

 言葉と共にひょいと上から影が落ちて、手を止めて顔を上げる。
 見上げた先でこちらを見下ろしていた大きな大きな海兵さんに、はい、と頷いて笑顔を向けた。

「連れて来てくれて、ありがとうございます」

 心からの言葉を述べて、相手を見上げる。
 俺をこの『シャボンディ諸島』へ連れてきてくれたこの人は、ボルサリーノという名前の海兵さんだった。
 海軍に漂流者として保護されていた俺が自力で衣食住を賄えるようになっても、たまに『様子を見に来た』と言って会いに来たり、こうして何処かへ連れ出してくれる。
 肩書は『大将』だというから、本当にすごく偉い人だろうに、こうして俺に構ってくれるのは、多分俺を海で『拾った』のがこの人だからだ。
 わけのわからないまま海へと落ちて、たまたま漂っていた板にしがみ付いて、このまま海の藻屑になるのか、それとも鮫の餌かとぼんやり考えていた俺を助けてくれた誰かさんが、どういたしまして、なんて言って俺の傍へ座る。
 体が大きいから、座っても当然俺を覗き込むように見下ろす格好になっていて、その目が改めてしげしげと俺の手元を眺めた。

「……それにしても、上手に描くねェ〜」

 とても感心したような声を出されて、ははは、と小さく笑い声を零した。

「俺にはこれしかありませんから」

 飛ぶように売れる、とまでは言わないが、ある程度生活できるだけの金を稼いでいるのは、俺がこの手で描いた『絵』が評価されているからだ。
 確か、最初は俺の隣に座るこの人が、『何かしたいことはないかい?』と聞いてきたのが始まりだった気がする。
 あの日たまたま持っていた画材道具は全て海の中で失ってしまったし、身元不明の自分ではあまりいい仕事は見つからず、まだ絵を描く道具すら手に入れていなかったから、スケッチブックと色鉛筆を頼んだのだ。
 そうしたら『絵を描くのかァい』と不思議そうな顔をされて、気付けば絵具とキャンバスまで手元にあった。
 そして描いた絵を『上手だ』と褒めてくれて、俺の描いた絵がいくつか完成した頃、それが『売り物』として人の手に渡るようになった。
 小さな頃から、絵を描くというのは俺にとってただ自分の心の平穏を求める為のものでしかないのに、それが評価されるのだというから不思議な話だった。
 ついでに言えば、『この世界』では異様に見えるらしいその絵について、何かを言ってきた人というのは聞いた事がない。
 何処かにいるだろう俺と同じ『誰か』の目には、まだ届いていないようだ。
 今日はシャボンディ諸島と呼ばれる島へ連れてこられていて、大きな大きなマングローブから漏れるとても頑丈なシャボン玉が、ふわふわとあちらこちらを漂っていた。
 時々通りかかる旅行者らしき人が『綺麗』だと騒いでいたので、この光景は『こちらの世界』の人達から見ても幻想的なものなのだろう。
 淡く光を弾くそれらへ視線を向けてから、そのまま手元へ視線を戻す。
 持ち出して来た大きめのスケッチブックの上へと鉛筆を走らせると、傍らから向けられる視線が何となく顔に突き刺さったような気がした。
 それを気にせずに、ある程度手元のものを描いたところで、ぱらりとページをめくる。
 そうして白いスケッチブックに新たに鉛筆を滑らせ始めると、おやァ、と傍らから声が漏れた。
 それを聞いて視線を向けると、こちらを見下ろしていた海軍大将さんが、軽く首を傾げている。

「色は塗らないのかァい?」

 不思議そうに、けれども何となくこちらの答えを分かっているような顔でそんなことを聞いてきた相手に、はい、と俺は答えた。

「ただのスケッチですから」

 それは半分本当で、半分が嘘だった。
 今日だって、俺が持ってきた画材道具の入った鞄には、絵の具も色鉛筆もそれ以外の道具も詰められている。
 だけど、それは航海の最中にいつもの『絵』を描きたくなったら使おうと決めて持ち出してきたもので、決してこの島で使うためのものじゃない。
 細部を省き、陰影すらほとんどつけていないスケッチブックの中身達は、殆ど全てが俺にとっては『未完成』なものだった。
 そして多分、『未完成』なそれらはずっと『未完成』のままだ。
 いろんな『綺麗なもの』を見せてくれるこの人だって、きっとそのことには気付いている。

「そうかァい」

 だからだろう、それ以上追及せずに頷いてから、ひょいと傍らにいたボルサリーノさんが立ち上がった。
 君の分も飲み物を買ってくるから待ってなよォ、なんて言葉を落とされて、え、と声を漏らす。

「あの、俺自分で、」

「オォ〜、いいからナマエはそこで座ってなさいねェ〜」

 慌てて立ち上がりかけたものの、笑ったままの相手に軽く言葉を寄越され、ついでに身をかがめてきた相手に肩を押されて、ベンチの上に座り直す羽目になった。
 大人しく従った俺に笑って、ボルサリーノさんがそのまま広場の向こう側に並んでいる露店の方へと向かう。
 俺が知っている限りではほとんど毎日身に着けていた『コート』を着ていないからか、周りの人達は大きなあの人が露店の列に並んでも気にしてはいないようだ。

「……いいのに……」

 おごってくれるつもりらしい相手に向かって呟いてみるが、これだけ距離が離れていると間違いなく聞こえない。
 かといって、追いかけていってお金を払うと言ってみても、受け取ってくれないことは明らかだった。
 確かに『海軍大将』というのは高給取りかもしれないが、あの人は随分優しい海兵さんだ。
 お金のことだけではなくて、不安がった俺を落ち着けようとしてくれたり、俺が話すことを否定せずに聞いてくれたり、そのそばを離れてからも会いに来てくれたり、こうしてあちこちに連れ出してくれたりする。
 本当に、いい人だ。
 おかげで、俺は今も、世の中はうまくいかないという事実と向き合う羽目になっている。
 軽くため息を零してから、俺は手元のスケッチブックのページを少しだけ前へと戻した。
 シャボンディ諸島で描いたいくつかのスケッチを立ち戻り、そうして辿り着いたページは、この島へ来る前の船の上だった。
 出発が遅かったから、海の向こうに沈む夕日が見えたのだ。
 俺の隣でそれを眺めていた誰かさんの横顔を描いた紙の上には、たくさんの橙と黄色が塗りつけられている。
 この世界にきて初めて、色を付けた『この世界』の絵だった。
 いつもなら絵を描いている様子を見られていても平気なのに、どうしても見られたくなくて、初めてあの人から隠れて、見られないように気を付けながら描いた。
 目に焼き付けたものを紙の上に写す作業が、あれほど早くできたのは初めてのことで、だけどやっぱり誰にも見られたくない絵になってしまった。

「……うう……」

 だって、これを見られたら、誰にだって俺の考えたことが伝わってしまうような気がするのだ。
 いや、もちろんそんなのは気のせいだということは分かっている。
 別に、この絵に何か特別なことをしたわけじゃない。ただいつものように絵を描いて、ついでに色を塗っただけだ。
 自分を誤魔化すように胸の内で呟いてみても、やっぱり気恥ずかしさはぬぐえずに、そっとページを閉じて、先程開いていた真っ白なページへと戻る。
 それから視線を向けてみるが、こちらへ背中を向けている誰かさんは、まだ律儀に列に並んだままだ。少し進んでいるから、あともう少ししたら戻ってきてくれるだろう。
 そんなことを考えながら、改めて手元へ視線を戻して、また鉛筆を動かす。
 新しく描き始めた絵は、目の前に広がる幻想的なシャボンディ諸島のそれとは違う、俺には描きなれた『絵』だった。
 帰りたい、だけど帰り方の分からない、俺が生まれて育った『あの世界』のどこか。
 求めるように描いて、写真のような忠実さを求めてみても、俺はそこには入り込めないけれど、描かずにはいられない。

「おやァ、新しい奴だねェ〜」

 夢中になってしまっていたのか、いつの間にか買い物を終えて戻ってきたらしい相手に声を掛けられて、は、と手を止めた。
 それから視線を向けると、隣に座っていた彼から飲み物が差し出される。

「あ、ありがとうございます」

 俺が告げた礼に『どういたしまして』と笑うボルサリーノさんは、いつも通りだ。
 だというのに、どうしてか心臓が高鳴ったような気がして、そっとそちらから目を逸らした。
 誤魔化すようにストローを咥えて、中身を飲む。
 中身の冷えたジュースらしきそれは甘くて、今までに飲んだことのない味がする。

「おいしいですね」

「気に入ったんなら良かったよォ〜」

 俺の言葉にそんな風に返事を寄越して、ボルサリーノさんも手元の飲み物を飲み始めたようだった。
 それをちらりと視界の端にとらえて、それから手元のスケッチブックへ視線を落とし、さっきまで夢中に描いていた『絵』を見つめる。
 そこに描かれているのは、俺の帰りたい世界だった。
 海賊やカイオウルイやアクマノミ、見知らぬ摩訶不思議に囲まれたこの世界ではない、俺の生まれ育った場所だ。
 けれども、きっとそこには、傍らのこの人はいないだろう。
 それがいやだ、なんて。
 綺麗な夕焼けに照らされた横顔を眺めて思ったことを頭の中で反芻してみても、それを口から出す勇気は俺にはない。
 だって、もしもそれを言ったって、傍らのかなり年上のこの人が、受け入れてくれる筈も受け止めてくれる筈もないことくらい、分かっているのだ。
 ぺらり、と今描いていた絵をめくり、新たなページを上にする。おやァ、と傍らから声が落ちてきたのは、誰かさんがこちらを見ていたせいだろう。

「続き、描かないのかァい?」

「……やっぱり、もう少しこの島のスケッチをしようかと思って」

 答えながら視線を向けると、そうかァい、といつものように言葉を落としたボルサリーノさんが、穏やかに笑っている。
 つくづく、世の中というものはままならないものだ。
 そんなことを考えながら吸い付いたストローから零れる飲み物は、やはり不思議な味だった。



end


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