絵描きのこと
※無知識系トリップ主人公は駆け出しの画家
※画家主シリーズとは別物
「元気かァい?」
「あ、ボルサリーノさん」
「今日もずいぶんな量だねェ〜」
「俺にはこれしかありませんから」
「そうかァい」
「はい」
ボルサリーノの見つめる先でそう言って笑った青年は、その両手についていた絵の具を、様々な色で軽く汚れたタオルで拭いた。
お茶でも淹れますね、なんて言って立ち上がった彼へお構いなくと言葉を放ち、部屋を出て行ったその背中を見送ってから、ボルサリーノの目がそこに広がる様々なキャンバスへと向けられる。
赤、青、黄色。青磁に黒に薄墨に、弁柄に橙、瓶覗。
多種多様な色で絵を描いたキャンバス達は、それぞれがボルサリーノの知らない世界を映していた。
鳥によく似た機械が、キャンバスに余すことなく描かれた青空を斜めに飛び、澄んだ空に突き刺さりそうな大きな塔の群れ。
揃った服を着込んで走り回りよく分からない祭りをしているたくさんの人間に、空が見づらくなるほどにそびえた建物、平穏な海を背にして佇む誰か。
このグランドラインにおいてはただの空想としか思えないようなものばかりのその絵達は、そういった心得のないボルサリーノから見ても随分と良い出来に見える。
事実、かの青年はこの絵で生計を立てているのだ。
丁寧に作られた色を混ぜたそれらを眺めて、ふむ、とボルサリーノが軽く目を細めたところで、お待たせしました、と戻ってきた青年が声を掛けた。
「どうぞ」
「オォ〜……それじゃァ、いただこうかねェ」
部屋の端に設置されたテーブルに置かれたカップを見やって、笑ったボルサリーノがそちらへ近付く。
海軍大将の半分を少し超えるほどしか身長の無い若き画家は、自分の分のカップを持って笑っていた。
その顔は穏やかで、初めてボルサリーノと会ったときのような切羽詰った表情はもう見当たらない。
この広い広い偉大なる航路の大海原で、海軍大将黄猿の乗った軍艦に遭遇するという形で幸運を使い果たした青年は、遭難者として海軍で一時的に保護された一般人だ。
どこから来たかも自覚なく、身元不明の彼を一度は監視もしたが、何の問題も見当たらない。恐らく、何らかのショックを受けて遭難する前の記憶をなくしたのだろうと言うのが医師の弁で、ボルサリーノもそれに納得した。
海軍本部から解放され、行くあてもないナマエに住まいの世話をしてやったのはボルサリーノの指示に従った部下で、その住まいの場所を聞いてから、ボルサリーノはよくこうやってナマエの元へ訪れるようになった。
『監視』されているとも知らず、会うたび親しげにボルサリーノへ話しかけてきたナマエの、荒唐無稽な話を聞くことが癖になってしまったからだ。
恐らくは本当に酷く恐ろしい思いをしたのだろう、青年の語る『故郷』は、その頭の中で作り上げたとしか思えないものだった。
ナマエの生まれた国の平穏さと来たら東の海でも五つの指に入るだろうと言いたくなるほどのもので、海賊はほんの少ししか存在せず、海王類が居らず、鉄の鳥が空を飛び、悪魔の実も、レッドラインもグランドラインもない。
それはあまりに荒唐無稽な内容で、ボルサリーノも海兵も医者も、否定はしないもののそれを信じてやることなどできるわけもなかった。
一生懸命に話していたナマエが、そのうち絵を描くようになったのは、保護されてから数週間した頃のことだったろうか。
描いた絵は画商の目にとまり、彼は画家としてその身を持ち直すことができた。
今は日の大半をそうして絵を描くことで過ごしているらしい。
そういった専門的な学習もしたのだろう彼のふるう筆が描くその全てが、彼が話して聞かせていた『妄想』の世界の絵だとボルサリーノが気付いたのは、ついこの間のことだ。
誰に話しても伝わらない世界を、ナマエは絵として、『他の誰か』へ向けて発信している。
まるで、誰か『それ』を知っている人間を探そうとでもするように。
けれども、それは無茶な話だ。
海王類がおらず海賊が極端に少ない海に、偉大なる航路どころか悪魔の実すらない世界。
まるで物語のように平和すぎるその世界など、海軍大将とまでなったボルサリーノですら、ほんの一国も知らない。
「美味しいねェ〜」
「ありがとうございます」
淹れられた紅茶を飲んで感想を零したボルサリーノに、ナマエは笑ったままでそう答える。
絵を描くようになってから、彼は穏やかになった。
それはまるで諦めを知った子供のような顔であったけれども、切羽詰って張り詰めていた青年の姿を知っているボルサリーノとしては、安堵してしまうしかない。
このままではいずれ壊れてしまうのではないかと、柄にも無くそんな心配すらしてしまっていたのだ。
「そうだァ、今度のわっしの休暇に、一緒にシャボンディ諸島にでも行ってみるかァい?」
今日の目的を思い出し、紅茶の入ったカップを片手にボルサリーノが言葉を放った。
「シャボン、見たいっていってたろォ〜」
ボルサリーノにとってはもはや珍しいものではなかったが、物を入れて浮かせることもできるシャボンディ諸島特有の『シャボン』は、ナマエの妄想の中にはないものだった。
見たことがあるのかと聞かれて頷いて、見てみたいと言われたのはつい先日のことだ。
「あ、本当ですか? ご迷惑じゃなければ、ぜひ」
提案したボルサリーノへ向けて、嬉しそうな顔をしたナマエが頷く。
いつがいいと尋ねたボルサリーノへ、ちょっと待ってくださいね、と告げたその目が壁に掛けられたカレンダーへ向けられた。
手帳を持たないナマエの予定は、全てがそこに記されている。
あまり使われない文字を使って記されているそれらをちらりと見やり、それから真剣な顔でカレンダーを睨んでいるナマエへ視線を戻して、ボルサリーノは軽く肩をすくめた。
新しいものをどれだけ見たところで、その手が描く作品は、最終的にはこの場の全ての作品と同じ世界の絵になるだろう。
ナマエが『妄想』の絵を描かなくなるのは、恐らく、『誰か』がナマエを訪ねてきたときだ。
ある筈もない『いつか』を待つナマエが哀れなような気もしたが、ボルサリーノはそれを口にしない。
言ったところでどうにかしてやれるわけもないし、下手に現実を直視させて『壊れて』しまったら、それはとてもつまらなくて、そして少しばかり寂しいことだ。
「……まァ、喜んでくれるんならァ……いつでも連れてってあげるけどねェ〜」
頭の中をめぐる考えをおくびにも出さずに呟いて笑ったボルサリーノの前で、若き画家はうんうん唸って己の空き時間を捜しているようだった。
end
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