カレーの日
※トリップ主人公は身体的退行男児
道端を歩く子供や学生を見て、あああの頃に戻りたいなァ、なんて思ったりすることは、誰にだってあり得ることだと思う。
しかし、現実に『若返る』ことなんて出来ないのだから、それはただの現実逃避の空想だ。
その筈なのだが。
「ん……っと」
小さく声を漏らして手を伸ばし、どうにか目の前の扉に鍵をかけることを成功した俺は、ふう、と一つ息を吐いた。
紐を通した鍵を首から下げて、使っていた踏み台を降り、邪魔にならない場所へと片付ける。
少し汚れた手を軽くはたき、それから小さすぎる自分の掌をじっと見下ろした。
確かに俺は成人していた筈なのだが、気付けばこの体は小さくなっていた。
鏡で見たところ、保育園児くらいの体だろうか。元の体なら難なく届いただろう場所へ手が届かない不便さにも、もうすっかり慣れてしまった。
現代日本だったらきっと、どこかの研究所にでも連れていかれて監禁されて、実験三昧だったに違いない。俺の知る『日本』に若返る方法なんて無かったのだから、テレビにだって出たかもしれない。
今の俺にその心配が無いのは、俺が今立っているこの場所が、俺の知る『あの世界』ではないからだった。
「ん」
一つ頷き、それからくるりと巨大な扉へ背中を向ける。
そうして歩き出した俺の目の前には、夕暮れ時のオレンジ色に染まった往来があった。
あちこちを人が行き来している。
問題は、その大きさも髪色も、目や肌の色だってバラバラな人々であるということだ。
聞こえる言語は日本語だが、どう見たって日本人じゃない人々であふれている。身長だって妙に大きく、何より、俺の知る『人間』とはちょっと違った姿かたちの人もいる。
『魚人』というらしいその人達のうちの一人がこちらを見たので笑顔で会釈をしてから、俺はまっすぐ目的地へ向かって足を動かした。
『魚人』達を見た時に、ようやくここが『異世界』で、しかもどうやら自分が知っているフィクションの世界と似ているらしいと気付いたが、気付いたからと言ってどうにかなるものでもない。
そうして、子供の足には随分な距離を歩いて進んだ先の建物から出てきた人影に、あ、と声を上げる。
「モモンガさん!」
呼びかけながら駆け出すと、俺の声に気付いたその人がこちらを向いて足を止めた。
その足元へ向かって走り寄っている途中で、足がもつれて体が傾ぐ。
しかし、俺が地面に倒れる前に、大きな手が俺の体を引き止めた。
「走る時は気を付けるように言っただろう、ナマエ」
そうして上から言葉を落とされて、えへ、と誤魔化すように笑いながら顔を上げる。
見上げた先にいるのは、海軍将校であるモモンガさんだ。
傾いていた俺の体をきちんと立たせてから、屈みこんだ彼の手ががしがしと俺の頭を撫でる。
「珍しいな、迎えに来てくれたのか」
「はい」
寄越された言葉に頷いて、それから目の前の相手へ向けて言葉を続ける。
「モモンガさん、きょうおたんじょうびだから」
おめでとうございます、と投げた言葉は、本当なら今朝口にしたかった言葉だ。
しかし、お忙しい海軍将校であるモモンガさんは、俺を起こしてすぐに家を出ていってしまった。
自分が寝ぼけていた所為でお祝いを言えなかった、と気付いた時の悔しさと言ったらない。
こんな体では金だって稼げないから、プレゼントだって用意出来ないのだ。
いっそ肩たたき券でも用意しようかと思ったが、それもなんだか違う気がする。
俺の言葉に目を丸くしたモモンガさんが、それからその目元を和らげる。
「ああ、ありがとう」
正面から柔らかな声でそんな風に言われて、俺の方がたじろいでしまった。
ただお祝いを言っただけでそんな風にお礼を言われると、何だかとてもくすぐったい。
照れた俺に気付いたのか、少し笑ったモモンガさんが立ち上がった。
それから、行くぞ、と声を掛けられたので、素直に『はい』と返事をする。
歩き出したその横に続いて、俺は今来た道を戻り出した。
「モモンガさん、きょうもおつかれさまでした」
「ああ、ありがとう」
「きょうはカレーです」
「ん? ナマエが作ったのか」
俺の言葉に、モモンガさんが少しばかり眉を寄せた。
『危ない』と言いたげなその顔に、だいじょうぶでした、と自分の両手を晒して見せる。
この世界へ落っこちて、海に叩き付けられあちこちを怪我したまま海を漂うしかなかったあの日、俺のことを拾ってくれたモモンガさんは、どうしてか色々な手続きを踏んで俺を自分の手元へ引き取ってくれた。
何やら学校らしいところにも入れてくれて、服も食事も提供してくれる。
俺のことを間違いなく『子供』と思っているらしいモモンガさんに申し訳なくなって、どうにか自分のことを説明しようとしてみても、まず最初の前提が『この世界では無い場所から来た』ということなので、全く信じて貰えない。
それどころか、どうしてかとても可哀想な子供だと思われるようになったらしく、モモンガさんの優しさが逆につらい。
しかし、言っても信じて貰えないなら、次は行動あるのみだ。
いくら体が小さくても、中身は大人なんだから、家事くらいそれなりに出来るのだ。流石にケーキは焼けないが、料理だって出来る。
それを証明しようと頑張った結果、最初の頃は怒っていたモモンガさんも、俺がある程度の家事をすることは認めてくれるようになった。
『働いた方が気が楽か』と聞かれて『はい』と答えた所為かもしれない。
今日もどうやら、俺の両手が無事であることで許してくれる気になったらしく、仕方なさそうに肩を竦める。
「おにくいっぱいです」
「なるほど、それは楽しみだ」
横から上げた俺の言葉に頷いて、モモンガさんが足を動かす。
きっとモモンガさんだけだったらもっと早いだろうその足取りは、俺の歩みに合わせたゆったりとしたものだ。
俺の知っている標準的な日本人よりはるかに大柄なモモンガさんを見上げて歩いていると、また足がもつれた。
「わっ」
声を上げながらぎゅっと目を閉じて石畳の感触を覚悟した俺の体が、すぐ上から服を掴んで引き止められる。
慌てて目を開ければ、すぐそばを歩いていたモモンガさんが少し身を屈めて、さっきと同じように俺の体を支えてくれていた。
「よそ見をして歩くのはやめなさい」
軽くため息とともに言葉を落とされて、はい、と小さく返事をする。
何度か言われている台詞を寄越されるのは、見た目はともかくとして中身が成人であることを考えると中々に恥ずかしい。
体が小さくなったからと言って歩き方が変わるわけではない筈なのだが、本当にこの体になってから転ぶ頻度が高くなった。
最初の頃はよくモモンガさんに小脇に抱えられていたものだ。
しかし、何度か『自力で歩く』という主張をしたところ、ようやく分かってくれたらしいモモンガさんは、俺をそっと降ろしてくれた。
「手を繋げればいいんだがな」
小さく落ちた声に、ちらりとモモンガさんを見上げる。
俺が小さくて、そしてモモンガさんが大きいので、俺達が歩きながら手をつなぐのはかなり困難だった。
頑張れば何とかなるかもしれないが、普通に歩けないのはまず間違いない。本末転倒だ。
いや、手が届いたとして、中身が成人である俺がモモンガさんと手をつなぐのは、正直とても恥ずかしいので却下だ。
早く元の体に戻りたい、と強く思うのはこういう時である。
「きをつけます」
とりあえずそう言うと、よし、と頷いたモモンガさんが屈めていた体を戻した。
それから、さっきよりもう少しゆっくりと歩き出す。
三度も転んではたまらないので、俺もその隣を歩きつつ、前方にちゃんと顔を向けた。
夕陽の落ちる大通りには、いろんな人達の影が伸びている。
俺とモモンガさんの影も足元から前へ向かって伸びていて、影だけでもその身長差や、俺が小さいと言うことがよく分かった。
「…………」
少し考えて、それから少々足を速める。
「ナマエ?」
俺の行動に気付いたらしいモモンガさんが名前を呼ぶのを聞きながら、モモンガさんより少し前に出た俺は、ひょい、と手を横へと伸ばした。
俺より数歩後ろを歩くモモンガさんの影に、俺が伸ばした手が落とす影が重なる。
ぎゅ、と虚空を握るようにしてからちらりと後ろを見やると、モモンガさんが戸惑ったような顔をしていた。
そちらへ向けてにんまり笑ってから、片手を上げたままで前へと顔を戻す。
「モモンガさんのて、おっきいですね」
何も無い場所を掴み、歩きながらそう言うと、俺より数歩後ろを歩いていたモモンガさんの影が、わずかに揺れた。
大きなその掌が、何かを握るように丸くなる。
「……ナマエもそのうち、大きくなる」
「そうだといいですけど」
せめてシンクに両手が届くくらいにはなりたいなァ、なんて希望を口にしつつ、俺はモモンガさんと共に帰路についた。
俺が作った『それなり』のカレーを『美味しい』と言って食べてくれたモモンガさんは、とてもいい人だと思う。
end
戻る | 小説ページTOPへ