結局、君は愛すら持っていない
※無知識異世界トリップ主人公はクロコダイルが好きでたまらない
クロコダイルがナマエを拾ったのは、彼が『王下七武海』として海軍から要請を受けた海賊討伐の最中でのことだった。
今はまだ『野望』のためにも王下七武海としての地位を放るわけにもいかず、仕方なくクロコダイルが手に掛けたその海賊団は、分かりやすく『悪いこと』をしでかしていたらしい。
そのうちの一つが人身売買で、ナマエはその『商品』から『奴隷』に払い下げられたらしい男だった。
恐らくは、その頭がおかしくなってしまっているのがその原因の一つなのだろう。
海賊達に虐げられた男は、自分が住んでいた何処かにある『故郷』を、手の届かぬ空想上の楽園にしていた。
海賊も海軍も海王類も悪魔の実も無いような平和な場所など、クロコダイルは噂のかけらほども知らない。
本来なら海軍へ放って終了となるだろうその捕虜をクロコダイルが連れて帰ったのは、意に染まぬ行動をとらせた海軍に対する意趣返しも兼ねてのことだ。
クロコダイルの拾得物であり所有物となったナマエは、嬉しそうによく働いた。
クロコダイルが英雄として振舞おうがそうでなかろうが、ナマエという男には関係が無いらしい。
奴隷のようにへりくだろうとしたのには頭を踏みつけてやって、それなりの無体も働いただろうに、ナマエは一身にクロコダイルに尽くしている。
『ねェ、サー。彼って』
その目にわずかな思慕が浮かんでいるとクロコダイルが気付いたのは、その片腕としてその手元にいる『悪魔の子』が、あんなことを言ったあの日からだ。
「失礼します」
執務室の重く硬い扉を叩き、放られたその声に、クロコダイルは椅子に座ったままでちらりとその視線をそちらへ向けた。
クロコダイルが見ている前で、カートを押したまま入ってきたのは青年だ。
クロコダイルが見立ててやった服に身を包んだその姿には、あの日クロコダイルが拾った時のみすぼらしさなど微塵も無い。
このアラバスタの季候を考えれば、室内でまで首元から足先まできっちりと覆ったそんな恰好をするというのは正気の沙汰とも思えないことだ。
しかし、うっすら額に汗を掻くような暑さであっても、ナマエがそれを崩したことは一度も無かった。
なぜなら、その身が着込んでいる衣類は全て、クロコダイルが与えたものだからだ。
「どうぞ」
近寄ってきた相手が、カートの上で中身を淹れたカップを置き、唇から葉巻を離したクロコダイルの目がそちらを見やる。
「……何だ、また茶葉を変えたのか?」
白い陶磁の中に満たされた液体は、日ごろ見慣れた紅茶色とはまた違った独特の色合いを醸し出していた。
そこからふわりと漂う香りも、普段の紅茶とは違うようだ。
クロコダイルの言葉に、はい、とナマエが頷く。
「珍しいものが入荷したと言う話だったので」
そう言って微笑みすら浮かべる相手に、ほォ、とクロコダイルが声を漏らした。
『珍しい』『希少価値のある』物というのは必然的に高価なものだ。
恐らくまた、彼はクロコダイルが与えている給金の殆どをこれに費やしたに違いない。
蓄えると言うことを知らないらしいナマエは、与えた給金の殆どをこうやって何かに遣ってしまうのだ。
そして毎回、その対価で得たものをクロコダイルの前へと運んでくる。
馬鹿馬鹿しい話だ。
しばらくクロコダイルがカップを見つめていると、ナマエの手がカートからもう一組の陶磁器を取り出した。
先ほど使ったのと同じポットから、その中身が注がれる。
立ったまま、ポットを離した手ですぐにカップを掴んで持ち上げた彼は、まだ熱さが残るだろうそれにそのまま口を付けた。
何のためらいもなくその口がカップに触れて、優雅さのかけらもない動きで中身を飲み干す。
「他には何も入れてないです」
ミルクか砂糖も用意してきましたがお使いになりますか、とナマエが尋ねたのは、クロコダイルの目の前でカップを降ろしてからのことだった。
カップが空であることを示すように、少しばかり手元を傾けて見せてくる相手に、ふん、とクロコダイルが鼻を鳴らす。
そこでようやく、葉巻を灰皿に避けたその手がカップを掴まえて、慣れた仕草でそれをそのまま持ち上げた。
香りを確かめるようにしばらくカップの中身を見下ろしてから、そっと陶磁器に唇が押し付けられる。
一口二口分の中身を飲んでから、クロコダイルは眉間のしわと共にカップを唇から離した。
「……おれの口には合わねえな」
きっぱりと言い放ち、その手が執務机のすぐそばでカップを逆さにする。
液体の零れる音がして、先程よりその得体のしれない紅茶の香りが濃ゆく漂った。
空になったカップをソーサーへ戻してクロコダイルが押しやれば、ナマエの手がすぐにそれを受け取る。
ちらりとクロコダイルが見やった先で、ナマエはクロコダイルの行動を気にした様子も無い顔をしていた。
その心の奥底がどうなっているかはクロコダイルには分からないが、知る必要も無いことだ。
「申し訳ありませんでした、代わりをご用意します。コーヒーでよろしいでしょうか?」
謝罪し、すぐにそう尋ねたナマエへ、ああ、とクロコダイルが返事をする。
「十分で淹れてこい」
移動する時間と、それから湯を沸かす時間、コーヒーをドリップする時間を考えると少し足りない時間制限に、しかしナマエは分かりましたと頷いた。
その手が手早くクロコダイルの前からカップを片付けて、床を拭く物もすぐお持ちします、とだけ告げてすぐさまその姿が部屋を出ていく。
ぱたんと扉が閉じたのを見やってから、クロコダイルは避けてあった葉巻を改めて口に咥えた。
嗅ぎ慣れた葉巻のそれに混じって、傍らの絨毯から立ち上る異質な紅茶の香りに、その眉間のしわがわずかに深まる。
クロコダイルが何をしようと、ナマエは決して怒りを示したりはしない。
彼の方がクロコダイルより弱く、歯向かえば殺してやることくらいは簡単にできるのだから身の安全を考えれば当然かもしれないが、何をされても諾々と受け入れるその姿は異様な程だった。
ひょっとするとナマエは、クロコダイルになら何をされても構わないと思っているのかもしれない。
海賊に壊されてしまったその頭は、恐らくまともなことは殆ど何も考えられないようになっているのだろう。
だとすれば、クロコダイルが死ねと言ったら死ぬのだろうか。そう考えてはみるものの、わざわざそんな悪趣味な命令を下して面倒な思いをしたくはなかった。
ナマエは従順でよく働くのだ、使える道具をわざわざ破棄する必要は無い。
誰かに言い訳するように思考を回して、煩わしさにわずかな舌打ちをしたクロコダイルの足が、ざらついた砂に姿を変える。
『彼って、貴方に恋でもしているみたいね』
どことなく楽しそうなロビンの顔に浮かんでいたのは、愚かな生き物にため息を吐く女の微笑みだった。
その表情をクロコダイルが咎めなかったのは、彼自身もまた、ナマエという男の愚かさに気付いたからだ。
男であるクロコダイルに懸想して、平和の国から来たような妄想で壊れた頭の中を満たして、クロコダイルの成すことすべてを諾々と受け入れるあの男が、愚かでないと言うのなら何だと言うのか。
ナマエはクロコダイルに求めないが、何もかもをクロコダイルに捧げようとする。
海賊であるクロコダイルには理解しがたい事態だ。そんなことをして、一体何のメリットがあると言うのだろう。
「馬鹿な野郎だ」
呟いて、クロコダイルはもう一度、傍らの絨毯の上に破棄された紅茶を見やる。
少し甘やかな香りを零すそれは、その殆どがクロコダイルの口には入らないまま、じわじわと絨毯に吸い込まれていった。
end
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