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貴方がいい (2/2)

 ジンベエが獲物を捕らえて船へ戻ったのは、彼が海へ入ってからしばらく後のことだった。
 ジンベエの指示通り急ぎ始めた船にどうにか獲物を引き上げて、病人でも食べることのできる食事にするようにと言いつける。
 厨房を任されているクルーが獲物を受け取りながら一つ頷いたところで、別のクルーがずぶ濡れのジンベエがいる甲板へと走り出てきた。
 誰かを探すように甲板を見回した彼の目がジンベエを捉え、ぎっと目を眇めてすぐさまその足がジンベエの傍へと向かう。
 近寄ってきた相手から寄越された『ナマエが泣いている』という言葉に、ああ、知っとる、とジンベエは答えた。
 耳にはいまだにあのナマエの嗚咽交じりの声がこびりついており、その望みをかなえてやることの出来ないジンベエには慰めることすら出来ない。
 そう続けようとしたジンベエに、分かってるんなら! と大声を上げたクルーが、すぐさまジンベエの腕を掴まえた。
 そのままぐいと引っ張られて、ジンベエが困惑顔でクルーを見やる。
 どうしたのかと尋ねたジンベエに、ぐいぐいと引っ張った船長を船内へと連れて行こうとしながら、目の前の魚人が眉を寄せてジンベエを見やった。

「ナマエが親分を捜してるんだ、行ってやってくれよ」

 あんなに泣いてたらナマエが干からびちまうだろ、と眉を寄せて寄越された言葉に、ジンベエの目がぱちりと瞬いた。







 早く早くと急かすクルーにせめて着替えてからだと言葉を重ねて、海水まみれになった服を乾いたものと替えたジンベエは、その足を改めてナマエの眠る一部屋へと向けた。
 近寄りそっと押し開いた扉の隙間からは、やはりわずかなすすり泣きが聞こえる。
 正面から『帰りたい』と言われるのが妙に恐ろしく、眉を寄せて深呼吸をしたジンベエは、それでもその場から逃げずに室内へと入り込んだ。
 ジンベエにはわずかな圧迫感すら感じる狭い部屋に置かれたベッドの上で、この船の上に唯一の人間が横たわっている。
 額に白い布とほとんど中身の溶けた氷嚢を乗せ、ぐす、と鼻をすすったナマエは、苦しいのか眉を寄せていた。
 ずっと泣いていたのだろうか、目の端からは幾筋も涙の跡が耳のあたりへと向けて零れている。
 近寄ったジンベエがその顔を覗き込むと、そこでようやく自分以外の誰かが室内にいることに気付いたらしいナマエが、少しばかり身じろいだ。

「……じんべえ、さん?」

 涙を孕んだ声がジンベエの名前を呼んで、濡れて光る充血した目がジンベエをぼんやりと見やる。
 熱でわずかに呼吸の早い彼の手がゆっくりとジンベエの方へと伸ばされて、ジンベエの手がそれを掴まえた。
 先ほどまで海の中にいたジンベエの掌に触れるナマエの手は、やはり普段より温度が高い。初対面の時に心配されたように、火傷でもしてしまいそうだった。
 こんなに体温が高くて大丈夫なのか、と眉を寄せるジンベエを見上げて、じんべえさんだあ、とナマエがわずかに呂律の回っていない声を出す。
 どことなく嬉しげに弛んだその顔に、ジンベエはわずかな戸惑いを浮かべた。

「じんべえさん、どこ、いってたの?」

「……ああ、ちィっと海にのう」

「うみ? およいだの?」

 いいなあ、なんて言葉を零して、ナマエの手がジンベエの手を引き寄せる。
 掴まえた大きなそれを己の顔に触れさせて、つめたくてきもちいい、とナマエが呟く。
 朝は寒がっていた筈だが、熱の上がったナマエは、どうやら今は暑いらしい。首のあたりに汗が滲んでいる。
 その様子を眺めながら、ジンベエの指が軽くナマエの顔についた涙の跡を擦った。
 今のナマエの顔には、悲しげな表情など微塵も見当たらない。
 ともすれば一人で部屋で泣いていたのは聞き間違いだったのかと思うほどだが、ジンベエの指に触れる濡れた感触が、その考えを否定した。
 ナマエは確かに泣いていて、そして恐らく、ジンベエの前ではそれをこらえているのだ。
 ひょっとしたら普段も、彼はジンベエ達の前で『帰りたい』と考えても口には出していなかっただけなのかもしれない。ナマエは明るく、そして思いやりに満ちた子供だった。
 けれどそれならば、そんな子供の口から我儘を聞きだすのは、大人の役目だろう。

「……のう、ナマエ」

 だからこそジンベエが口を開くと、ナマエが不思議そうにその目をジンベエへ向けた。
 まだ熱に浮かされているのか、少しぼんやりとしたその視線を受け止めながら、ジンベエが口を動かす。

「帰りたいか」

 『どこへ』とは、ジンベエは言わなかった。
 けれどそれでも、その言葉を理解したらしいナマエの目が、一度瞬く。
 その拍子にうるんだ瞳から押し出された涙がこぼれて、その顔に触れているジンベエの指を濡らした。

「…………うん」

 ジンベエの手に頬を擦り付けるように小さく一回頷いたナマエに、ジンベエの体の中のどこかがわずかに痛んだ。
 けれどもそんなもの、子供の前で顔に出せるはずもない。
 少しばかり息を吸い込んで痛みをやり過ごしたジンベエの前で、でも、とナマエが熱のこもった息を吐きながら言葉を紡ぐ。

「じんべえさんとも、いっしょにいたいよ」

 そしてそんな風に寄越された言葉に、ジンベエの目が丸くなった。
 戸惑うジンベエを見上げて、ナマエがその顔に笑みを浮かべる。
 じんべえさんといっしょがいい、なんてもう一度言葉を紡いでから、ナマエのもう片方の手が動き、その小さな両手がジンベエの片手を改めて掴まえた。

「いっしょじゃなきゃ、やだよ」

 零れる言葉は、ジンベエの前に横たわる人間の小さな我儘だった。
 熱に浮かされての言葉だと分かってはいても、普段より幼く響くその声音と言葉に、わずかな喜びがわいたのを感じて、ジンベエは眉を寄せる。
 そんなことを言うな、と詰りたくなったのを、口を閉じてどうにか我慢した。
 ジンベエには『イセカイ』とやらへ行くつもりはないのだ。ジンベエが今生を沈めると決めている海は、偉大なる航路と呼ばれる場所にしかない。
 だから、ナマエが『ジンベエと共にいたい』なんて言うのなら、それは元の居場所へ帰らなくてもいい、と言う意味になってしまう。
 一緒にいたいのなら、傍に留まればいい。
 そんな酷い言葉を吐いてしまうなんてこと、ジンベエには出来ない。
 だと言うのに、眉を寄せるジンベエを見上げて、じんべえさんがいないからないちゃったんだよ、と自分の醜態を恥ずかしげに漏らしたナマエが、照れたように笑いながらジンベエの掌へ頬を預ける。
 顔を動かした拍子に傾いた額から氷嚢が零れ落ちて、ジンベエの手がつまんだそれをひょいとナマエの額の上へと戻した。
 ありがとう、とそれに礼を言ってから、ナマエが言葉を続ける。

「じんべえさん、いそがしい?」

「わしか? いや……」

「じゃあ、おれがねちゃうまで……いっしょにいてくれる?」

 ねちゃったらはなれてもいいから、なんて言葉を紡ぎながら、ジンベエの手を掴むナマエの両手にわずかな力が入った。
 人間の数倍の膂力を有するジンベエにしてみれば赤子扱いできそうな程度の力だが、それを振り払うことなく受け止めたジンベエの目が、わずかに細められる。

「……なら、お前さんが良くなるまで、ここに居るとするか」

 早う良くなってくれ、続けたジンベエに、ぱち、とナマエが瞬きをした。
 それから、嬉しげにその目が細められて、弛んだ顔を隠すようにジンベエの掌へその顔が埋められる。またしても氷嚢が落ちたが、ナマエは気にした様子もない。
 手に触れている温もりをやはり手放したくないだなんて、そんな馬鹿な考えがまたしても浮かんだが、ジンベエは無理やりその考えを自分の中から追い出した。

「……うん、ありがと、じんべえさん」

「大したことはしとらんわい」

 そうして漏れた小さな小さな声に、そんな風に言葉を向けてやりながら、ジンベエもわずかにその顔へ笑みを浮かべていた。



end


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