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刻印付けの吊り橋理論
※異世界トリップ主人公は海兵さん(見習い)
※戦争編以前



 体が重い。
 呼吸が苦しい。
 ついでに言うと、もう足も腕も動かない。
 もしかすると、今日こそ俺は死ぬかもしれない。

「オォ〜、もうお仕舞いかァい?」

 ぜいぜいと息をしながら世を儚んでいるところで真上から声が落ちて、ついでのようにばしゃりとぬるい水を掛けられた俺は、どうにか首を動かしてそこに佇む相手を見上げた。
 いつものサングラスを掛けた大将黄猿が、似合わないバケツを持って、どこか呆れたような顔をして俺を見下ろしている。
 日本人である俺からすればうらやましすぎて半分寄越せと罵りたくなる高身長を作り出している足が軽く曲げられて、屈み込んできた彼の手が俺の服を掴み、ぐいと引っ張って俺の体を無理やり地面から引き剥がした。
 倒れていた体を座らされて、されるがままになりながらどうにか息をする。汗をかいた体は先ほどの水の所為もあって濡れていて、吹いた風が火照りに火照った俺の体を少しばかり冷ました。
 長距離走った後すぐに座ると臀部的に不味いことになると聞いたことはあるが、今はもはや立ち上がることもできない。とりあえず後でしっかり風呂に入ろう。
 そんなことを考えつつ足を投げ出した俺の横に屈んでいる大将が、バケツを放りながら軽くため息を零した。

「ナマエはやっぱり、海兵には向いてないねェ〜……」

 体力が足りないよォ、と続くその言葉に、俺は肩で息をしながら傍らを見やる。
 本日、俺を殺しそうな勢いで攻撃しながらこのグラウンド上をひたすら追い回してくれたこの光人間は、俺の上司だ。
 俺がこの知っているようで知らない世界へやってきて、生まれて初めて命の危機に瀕したところを助けてくれたのはこの人だった。
 涼しい顔であっという間に海賊達を沈めたその姿に、安堵と共に恐怖を抱いたのも懐かしい話だ。
 行く宛ても無かった俺を海軍へと連れて帰ってくれた大将が、就職先として斡旋してくれた職場を蹴って、俺は今ここにいる。
 大将が先ほど言った通り、ただの日本人でしかない俺には海兵としてやっていけるだけの体力が圧倒的に足りない。
 ついでに言えば筋力も無いし、戦術に長けているわけでも、武器の扱いに長けているわけでもない。
 平和な日本で、そんなものは必要なかったからだ。
 それでも海兵になりたいと言った俺に、『……なら、わっしが稽古をつけてあげるよォ〜』と大将が言って、はや一ヶ月。
 とりあえず新兵見習いという立場をもらったらしい俺は、雑用の合間に今みたいに大将から何がしかの訓練を受けるようになった。
 直属の部隊への配属とは言え、大将じきじきの訓練なんて受けたらやっかみを買うんじゃないかと思ったが、訓練を見た同僚達はどちらかと言えば俺に同情的だ。
 死ぬなよ、と励まされるのが冗談では済みそうに無いくらい、本気で毎日死にそうな思いをしている。
 それでも生きているのは、いつだって、大将がぎりぎりで手加減をしてくれているからだ。
 今だって足はがくがくと震えているし、まだ立ち上がれるとも思えないが、やっと呼吸は少し落ち着いてきている。

「辞めたいってェ言うんなら、次の仕事もわっしがちゃァんと手配してあげるよォ〜?」

 深呼吸をして話せるようになろうと努力している俺の横で、大将黄猿はそんな言葉を口にした。
 それを聞いて眉を寄せ、すぐ隣に屈んだままのその顔を睨むように見やる。
 そこにいる上司殿が何を考えているかなんて簡単に分かったから、最後にもう一度大きく深呼吸をして、俺は口を動かした。

「向いてなくても、俺は、ちゃんと、海兵になります」

 はっきり言った俺の言葉に、サングラスの向こうで大将が目を丸くする。
 それからほんの少しだけその目が細められて、伸びてきた俺より随分大きな手が俺の頭の上に乗せられた。
 ぽんぽんと労わるように軽く叩かれたと思ったら、がしりと思い切り掴まれてぐいと上へ引っ張られる。

「い……っ!」

 このままじゃ頭がもげると判断して動かぬ体に鞭を打って立ち上がると、同じように立ち上がった大将が、やれやれと言いたげに息を吐いた。

「それじゃあわっしも、ちゃあんと鍛えてやらなけりゃねェ〜」

 そんな風に言われて思わず身を強張らせた俺から手を放して、今日はもう終わりだよォ、と人を脅かした大将がそのまま歩き出す。
 いつものコートは執務室だから、俺の目の前にあるのは黄色いストライプスーツの背中だ。
 もう三ヶ月も前、俺を助けてくれたときの背中と同じその色を見つめて、とりあえず先ほど大将が転がしたバケツを拾い上げてから、疲労で重い足を動かす。
 俺と大将の一歩は随分と違うから、うらやましいくらいに上背のある背中は建物へ向けてどんどん遠くなった。
 ふらつく足でそれを追いかけながら、はあ、とため息を一つ落とす。
 大将の訓練が厳しくてきつくて毎度毎度死にそうな思いをしているのは、俺がとてつもなく弱いせいだ。
 せめて学生時代に運動部にでも入っていればよかったかも知れないが、基本的に文化部所属だった俺は、俺が知っている『一般』程度の体力しかない。
 そんな俺がここでやっていけるはずがないと思っている大将黄猿は、だからこそこの一ヶ月、俺を『訓練』して死にそうな目に遭わせているのだと、俺は知っている。

「……このぐらいで、諦めるわけないのに」

 俺を助けて拾ってくれたくせに、今いちあの人は俺のことを分かっていない。
 あの日、絶対に死んだと思った俺の目の前で海賊達を全て駆逐した恐ろしいその姿に、どれだけ俺が安心したか。
 帰り方も分からないこの世界で生きていくなら、せめてこの人の近くでがいいと、あの時思った。
 もしも俺が女だったら、年齢差なんて関係なくプロポーズしていたに違いない。
 けれども俺は男だったからその手段を取ることもできなくて、それでもできる限り近くにいたくて、努力してそれが叶うならいくらだって努力すると決めたのだ。

「ナマエ、早く着替えないと風邪ひいちまうよォ〜?」

 俺との距離が随分開いたと気付いたらしい大将が、足を止めてこちらを見やり、そんなことを言う。
 濡らしたのは大将じゃないですか、とそれへ言い返しながらも、俺はもつれそうになる足を必死に速めて我が上司へと近付いた。
 近寄ってきた俺を見下ろして笑った大将は、いつもと何も変わらない。

「明日の訓練は何ですか?」

 自覚の足りない我がヒーローへと問いかければ、そうだねえ、と声を漏らした大将が少し考えるそぶりをした。

「それじゃ、明日はわっしと組み手でもしようかァ」

「…………それは初めてですね」

「オォ〜、大丈夫、最悪でも骨が折れたらやめてあげるからねェ〜」

 にっこり笑ってそんな恐ろしいことを言った大将は、けれどもやっぱりとてつもなく手加減をしてくれたので、翌日の訓練の後、俺の骨はどこもかしこも無事だった。
 そして俺はいつも通り死にそうな思いをしたが、『海軍を辞めたいか』という大将の問いへは当然ながら、首を横に振って答えたのだった。




end


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