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ひいては君のため

「あついね……」

「そうじゃのう」

 訴えられて、ジンベエは一つ頷いた。
 ジンベエの率いる船がその島に辿り着いたのは、まだ日も高いうちのことだった。
 どうやら夏島らしいその島の季候に入ってからというもの、その焦げ付くような暑さが常にジンベエ達やナマエを襲っている。
 水の中で生きていくことのできる魚人であるジンベエ達には『海底で涼む』という選択肢があったが、ただの人間であるナマエはそうもいかない。
 今も、ジンベエが座っている甲板の端で、ナマエはごろりと甲板に懐いてしまっていた。
 日が落ちても気温の下がらないこの島に、すっかり参ってしまっているらしい。

「大丈夫か、ナマエ」

「うん」

 ジンベエが問えばそう返事をするが、甲板に伏したその姿勢は変わらない。
 木目に頬を押し付けて、船もあったかい、と理不尽を嘆くその様子に、ジンベエはやれやれと軽くため息を零した。
 その手がひょいとナマエの方へと伸ばされて、汗ばんだ額に張り付いているその髪を剥がすようにかきあげていく。
 ナマエは体温が高く、指が触れたその肌は少々熱いほどだった。
 ジンベエの手を冷たく感じたのか、きもちいい、とナマエが軽く目を細める。
 よしよしとしばらくその頭を撫でてやってから、仕方ないのう、とジンベエが呟いた。

「海にでも入って涼むか」

「え?」

 寄越された言葉に、甲板に転がったままのナマエがぱちりと瞬きをする。
 窺うようにその目がジンベエを見上げて、不思議そうなその顔を見下ろしたジンベエは、ひょいとその場から立ち上がった。
 『人間』であるナマエが夜の海に入るなどいつものジンベエであれば許可を出したりはしないが、こうも暑くては朝が来る前にナマエが倒れてしまいかねない。
 いつだったかの夏島でのことを思い出し、ほれ、と声を掛けながらジンベエの手がナマエへ向けて差し出された。
 その掌を見やったナマエが慌てて起き上がり、座ったままでジンベエへ向けてその手が伸ばされる。
 ジンベエが簡単に握り込めそうな大きさの掌は小さく、先ほど触った額よりも温かだ。
 ジンベエからすれば熱でもあるのではないかと問いたくなるような温度だが、目の前のナマエは人間の中でも子供に属する部類の見た目で、本人からも『体温が高い』という自己申告があったので気にしないようにしている。
 自分よりも随分と弱いその手を掴まえて引っ張れば、ナマエはやすやすと立ち上がった。

「ジンベエさん? 夜の海なのに、俺が入っていいの?」

 そんな風に尋ねて、ナマエは軽く首を傾げる。
 太陽の日差しが降り注ぐ青い海原であれば、ジンベエもナマエを伴って入ったことがある。
 浅瀬では時々他のクルー達と一緒に海に入ることもあり、そのたびにわあわあと騒がしくしていることも知っていた。
 今も他のクルー達の一部は、この暑さから逃れる為に海の中へと避難しているが、ナマエがそれについて行かなかったのは、ジンベエが前に『駄目だ』と言い含めたからだ。
 ただでさえグランドラインの海は他と違い、脅威を秘めた恐るべき場所だ。
 更には夜ともなれば視界も悪く、ナマエが他のクルー達と泳いでいるところを監督するのも難しい。

「わしと一緒なら、まあ良いじゃろう」

 以前の自分の言葉を覆すようなことを言いながら、ジンベエの両手がナマエの体を掴める。
 ひょいと持ち上げたナマエの体は、以前落ちてきたのを拾った時よりは重たくなっているものの、しかしまだまだ頼りない軽さだった。
 体を持ち上げられて驚いた顔をしているナマエは、しかしジンベエの顔を見下ろして戸惑ったような顔をしてはいるが、抵抗の一つもしない。
 他のクルー達にやられた時には抵抗していたのを見たことがあるので、ナマエのこれは自分にだけ向けられる無防備さだと、ジンベエは重々承知していた。
 確かにジンベエはナマエを助けたが、ただそれだけでここまですべてを委ねられていると、中々にくすぐったい気持ちになる。
 何と呼ぶべきか答えのでないその感覚を胸の内から追い出して、ジンベエはナマエへ笑顔を向けた。

「わしが涼むのに付き合うてくれ」

 むき出しの牙もそのままに言葉を発したジンベエへ、うん、とナマエが一つ頷いた。







 ナマエを伴って海の中を泳いだジンベエが人間の彼を船の上へと連れて帰ったのは、すっかりナマエが頭の上から足先まで海水に塗れて、水を掻くその動きに力強さが無くなった頃だった。
 ジンベエ達魚人にとっては船の上を歩くのと変わらぬ海の中を、人間であるナマエが移動するのにはかなりの体力が必要なのだ。
 べちゃりと水音を立てて甲板に倒れ伏したナマエは、先ほど甲板に懐いていた時よりは随分とすっきりした顔をしている。

「あー、涼しくなった!」

 月光とカンテラに照らされた顔でけらりと笑って言葉を零したナマエに、そいつは良かった、と応えたジンベエも傍らに座り込んだ。
 まだ昼間の熱を残していた甲板の上に水滴が落ちていく音が、かすかに耳に届く。
 既に泳ぎ疲れてしまっているらしいナマエは、座り込んだジンベエの横に転がったままでころりと寝返りを打って、濡れた体のままで夜空を仰いだ。

「海は真っ暗だったけど、星と月ですごく明るかったし、綺麗だったね、ジンベエさん」

「そうじゃのォ」

 寄越された言葉に頷いて、ジンベエがちらりと船の向こうに広がる海原を見やる。
 昼間は青く染まっているグランドラインの海は、今は夜を受け入れて真っ黒に染められていた。
 しかし、遮る雲がないせいで月や星の明るさに照らされて、なんとも美しい眺めになっている。
 海底にある故郷ではあまり目にしたことの無かったそれらは、さすがにジンベエには見慣れた光景ではあったが、ナマエがそんな風に言うと、何だか随分と特別なもののように感じた。
 『イセカイ』から来たナマエは、ジンベエ達からすれば当然でしかないようなことの殆どに嬉しそうで楽しそうな顔をする。
 ナマエの故郷がどういった場所なのかをジンベエは知らないが、ナマエは恐らく平穏なそこで、海とは何の関わりも持たずに生きてきたに違いない。
 船の雑用だって人間でしかないその体には厳しいこともあるだろうに、ナマエが泣きごとを言ったことはただの一度も無いのだ。
 投げ出されたその掌が初めて出会った時に比べて荒れているのは、ナマエが進んで仕事を引き受けてきたことの表れでもある。
 海を綺麗だと言って、空の広さを喜んで、ジンベエや他の魚人達を『優しい』とすら口にするナマエが、空を見上げていた目をそのままジンベエの方へと向けた。
 びしょ濡れの顔のまま、楽しかった、と笑顔を向けてくる相手に、ジンベエも軽く笑う。

「しかし、魚にあれほど驚くことはなかろうに」

「うっ」

 それからからかうような言葉を落とすと、ナマエが小さくうめき声を零した。
 ナマエを背中に乗せたジンベエが、魚の群れに遭遇したのは船に戻る十分ほど前のことだ。
 七色の鱗で光を反射させながら海面を飛ぶ魚達に、ナマエはひたすらに驚き感嘆の声を上げていた。
 たいした物でもないだろうに、とジンベエは思ったのだが、どうもそれですらもナマエにとっては『珍しい』ものだったらしい。

「だって仕方ないでしょ、まさかトビウオが本当に飛ぶとは思わないよ」

 傍らで真剣にそう言葉を寄越されて、ジンベエが濡れたままの姿で首を傾げた。

「ナマエの故郷の海にはトビウオがおらんのか」

「いや、いた筈だけど……実際に目にするのってなかなか……」

 ジンベエの問いかけにもごもごと口を動かしたナマエが、とにかく俺は見たこと無かったんだ、と主張する。
 ふむ、と声を漏らしたジンベエの横で、ナマエは言葉を続けた。

「七色にきらきらしてて綺麗だったなー……ジンベエさん、あれも食べられるの?」

「なんじゃ、腹が減っとったのか?」

 『きれいなもの』を相手にそんなことを言う相手に、ジンベエがその目を丸くした。
 今頃は調理を担当しているクルーも寝入っているはずだが、厨房まで行けば何かあるだろう。
 ジンベエ達と違ってナマエは小食なので、少々食材を頂戴しても問題ない筈だ。
 何か食うかと尋ねたジンベエに、違う違う! とナマエが慌てて両手を横に振る。

「綺麗だったから、食べるのは勿体ないなって思っただけ!」

「そうか」

 生き物を食らうのに美しいも何も無いと思ったが、ジンベエはそこには言及せずに軽く頷いた。
 それから、吹き抜けた夜風に濡れた体が冷えてきていると気付いて、その手がひょいとナマエの体を引き起こす。

「そろそろ体を拭いて着替えんと、風邪を引くぞ」

 そう言いながら促せば、うん、と素直に頷いたナマエが立ち上がる。
 億劫そうにしながらも、とりあえず上着を脱ぐことにしたらしいナマエの手が自分の着ていた服を掴まえて、ぐいと脱ごうとし、濡れて絡みついたシャツに、あれ、と声を漏らした。
 何度か試みたものの、変な風に絡まっているのか、それとももはやそれを引き剥がす体力が無いのか、一向にナマエの腕が上へと向かわない。
 むう、と自分の体を見下ろして眉を寄せたナマエの様子に、立ち上がったジンベエの手がナマエの上着を掴まえる。

「どれ」

「うわっ きゃあ!」

 ジンベエの手がそのままぐいとナマエの上着をはぎ取ると、上半身を裸にされたナマエがわざとらしく悲鳴を上げた。
 どこかの少女のように両手で胸元まで隠してはいるが、その顔は笑っていて、ふざけているのが見て取れる。
 ナマエの濡れた上着を持ち直して、何をわざとらしい悲鳴をあげとるんじゃ、とジンベエが声を漏らした。

「あんまり騒がしくすると、眠っとる連中が起きてしまうぞ」

「あ、そっか、ごめんなさい」

 ジンベエが注意すると、ナマエが素直に謝罪する。
 それからその手がジンベエの手の中の自分の上着を掴まえて、ぐっしょりと濡れたそれを丁寧に畳んだ。
 露わになったその体を夜風が撫でて、その涼しさにかふるりと目の前の人間が震えを零す。
 やはり冷えてきているらしいと把握して、ジンベエはナマエの体を船内の方へと押しやった。

「ほれ、さっさと着替えて、もう眠らんか」

「はーい。ジンベエさんは?」

「わしはじきに見張りと交代じゃ」

 訊ねたナマエへジンベエが答えると、え、と声を漏らしたナマエが困ったような顔になる。
 どうしたのだとその顔をジンベエが見下ろすと、寝てなくて大丈夫だった? と囁くような問いかけが寄越された。
 どうやら、自分を構ったせいで仮眠が出来なかったのではないかと気にしたらしい。
 そう把握して、ジンベエが軽く肩を竦める。

「どうせ起きとるつもりだったんじゃ」

「そうなの?」

「ああ。じゃから、そう気にせんでええわい」

 優しげな声をジンベエが出せば、それを信じたらしいナマエはぱちりと瞬きをして、それからほっとしたように息を吐いた。

「それじゃ、ジンベエさんの着替えもすぐ持ってくるね」

「いらんぞ、この陽気じゃ、放っといても乾く」

「駄目だよ、風邪引いたら大変だよ」

 ジンベエに先ほど言われた言葉を返して、待っててね、と声を漏らしたナマエは、先ほどまでの億劫そうなそぶりも見せず、そのまま船内へと駆けこんで行ってしまった。
 途中でその足音が聞こえなくなったのは、船内では他のクルー達が眠っていると言うことを思い出したからだろう。
 あの分では本当にすぐ戻ってきそうだと、水気を含んだ衣類を身にまとったままでジンベエは軽く息を吐く。
 自分の足で濡らした床で滑って転ばなければいいが、とまで考えて、少々過保護になっている自分に気付いたジンベエの口元に浮かんだのは笑みだった。
 かつては『魚類』と分類されていたジンベエ達を見下す人間も多ければ、自分達とはまるで違う姿形に怯える人間も数多い。
 しかし『イセカイ』から来たナマエは、いつまでたってもジンベエ達を『自分と同じように』扱っていた。
 もちろん、己と他の力の差は分かっているらしく、自分が出来ないことではジンベエや他のクルー達を頼るが、その際も『頼み』『礼』を言い、それを当然とは扱わない。
 魚人よりはるかに弱い体で、それでも精一杯に働いて、ジンベエ達の傍らでその笑顔を振りまいている。
 その笑顔に毒されているのか、それともかつての同胞が口にしたようにジンベエが『腑抜けて』しまったのかは分からないが、ナマエが今や『大事なもの』の一部であることに、ジンベエは何の違和感も感じていなかった。
 他のクルー達はどうか分からないが、少なくとも悪感情を抱いている者はいないだろう。
 最初は態度の頑なだったクルーの一部に対しても、ナマエの反応は他と変わらず、馬鹿馬鹿しくなったクルーの方がナマエを受け入れたことをジンベエは知っている。
 だからこそ、もしもいつかナマエが『イセカイ』に帰ることが出来るようになったとしたら、恐らくクルー達もそれを惜しむに違いない。
 同胞達を悲しませるだなんてことはしたくないが、生まれ育った場所へ返してやることこそがナマエの為だと言うことも分かっているジンベエは、今もその方法を捜している。
 そう言えば先日『白ひげ』のクルーに頼んだ資料はそろそろ手元に届く頃だったろうか、なんてことまで考えたところで、ふと気配を感じて、ジンベエの視線が船内へ続く出入り口へと向けられた。
 それと同時に、閉じかけていた扉がぱたんと開く。

「ジンベエさん、おまた……あだっ」

 そろそろと船内を移動してきたらしいナマエが、ここまでくれば大丈夫だろうとばかりに甲板へと飛び出して、そして濡れた甲板に足をとられて盛大に転んだ。
 両手に持っているものを庇ったせいで身動きもとれないまま、べちんと顔を打ち付けたナマエに、驚いたジンベエがそちらに向かう。

「何をしとるんじゃ」

「いったい……」

 声を掛けながら見下ろせば、起き上がったナマエが少し赤くなった額もそのままに、両手で持ってきたものをジンベエへ向けて差し出した。

「はい、ジンベエさん、着替え」

 にか、と笑って言うナマエの両手が守っていたのは、ジンベエの為に用意してきたのだろう衣類とタオルだ。
 汚さないよう気を使ったのだろうが、頭も庇わなかったナマエに小さくため息を零して、ジンベエの手がひょいとナマエの両手からそれらを受け取る。
 そうしてもう片方の手を伸ばして、赤くなった小さな額を軽く撫でた。

「痛かったじゃろう」

「大丈夫だよ、俺だって子供じゃないんだから、これくらい」

 どう見ても『子供』の部類に入る見てくれでそんなことを言って、ナマエがすくりと立ち上がる。
 少しその動きが鈍いのは、やはり泳いで疲れているからのようだった。
 たかだか一時間足らず海の中にいた所為で体力を使い果たすほどに弱い人間を見下ろして、そうか、と手を降ろしたジンベエが頷く。
 そうだよとそれに応えてから、ナマエは先程ジンベエが撫でた辺りを軽くその手で擦った。

「それより、時間があったらまた今度、俺と一緒に泳いでね。やっぱりジンベエさんと一緒の方が楽しいから」

 そしてそんな風に言葉を零して、ナマエの顔にはいつもの笑みが浮かぶ。

「うむ、考えておくとしよう」

 昼間のように眩いそれに目を細め、同じように笑ったジンベエの真上で、どこかの星がちかりと光っていた。



end


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