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旗上げの夜
※若干の原作改変注意




「…………」

 どうしよう。
 ぐるぐると頭の中をそんな言葉がめぐって、けれどもそれを口から吐き出すこともかなわず、俺はただただ硬直してその場に立ち尽くしていた。
 どうしてこうなったのだろう。
 手に荷物を持ったままで、そんなことを考える。
 つい先ほどまで、俺は炎天下の道を歩いていた筈だった。
 それがどうしてか、この薄暗く静かな地下室にいる。
 目の前の相手に、ここまで引きずられたからだ。
 俺よりずいぶん体格のよろしい目の前の誰かさんに、街角で出合い頭にぶつかったのはつい先ほどの話だった。
 驚いて声を上げて目の前の相手を確認した俺は、更に驚いて悲鳴を上げた。
 だって、そこに立っていたのは『サー・クロコダイル』だったのだ。
 葉巻をくわえたままじろりとこちらを見下ろしてきた相手に、青ざめてしまったのは仕方ないことだと思う。クロコダイルの服が少し汚れていたのは、俺がぶつかったからに他ならないだろう。
 わけもわからないまま『この世界』へ来てから、しばしの路上生活を経て就職しようと一念発起した俺の全財産は、小さな鞄とその中身一つだけだ。
 それでも命が助かるならとそれを差し出したのに、どうしてか目の前の相手は受け取ってはくれず、そうしてここまで連れ込まれてしまった。
 因縁を付けたり憂さ晴らしするにしても、このアラバスタではまだ英雄で通っている目の前の海賊は、どうやら気に入らないホームレスを蹴飛ばすにも体面を気にするらしい。
 生きて日の下に出られるだろうか、とだらだら冷汗をかいている俺を一瞥して、クロコダイルが葉巻を口から離す。
 ついさっき部下の誰だったかに密室にされてしまった室内に、クロコダイルがまき散らす紫煙が充満していくのを、俺はただ見つめることしかできない。
 葉巻の副流煙はどのくらいの害があるのだろうか。タバコと違うのだろうか。そんなどうでもいいことに思考が逃げてしまうのは、多分今この場から物理的に逃げ出すことが叶わないからだろう。

「おい」

「はいっ!」

 必死になって震える足で体を支えていたら声を掛けられて、慌ててはっきりと返事をした。
 俺のそれを聞いて、面白い虫でも見るような目をしたクロコダイルが、その口にわずかな笑みを浮かべる。

「名前は」

「え」

「名前だ。テメェの名前を聞いている」

 低い声に問いを重ねられて、ナマエです、と慌てて答えた。
 家族は、と聞かれて、いません、と返事をする。元の世界にはもちろんいたが、『この世界』にはいないのだから仕方ない。
 しかし、何で今からぼこぼこにされるのに話しかけられているのだろう。もしや、墓石には名前を刻んでやろうとか、そういうことだろうか。
 つまり俺は生きてここから出られないのか。いやだ生きて帰りたい。

「……何を怯えていやがる」

 恐ろしい事態にさらに体を震わせた俺に、クロコダイルが言葉を紡いだ。
 観察するような視線を送られている気がするが、目の前に王下七武海の、それも『悪い海賊』であるクロコダイルがいて怯えない一般人なんているだろうか。
 アラバスタではまだ英雄としてふるまっているが、クロコダイルがどういう海賊なのか、俺は知っているのだ。
 漫画の中でもあっさりロビンを殺そうとしたくらい非情だったクロコダイルが、出会い頭にぶつかってきた見ず知らずの浮浪者たる俺をどうにもしないとは全く思えない。
 俺の見た目からして、俺が『アラバスタの人間』ではないことも分かるだろうし、何かあった時に心配してくれるような『家族』だって『いない』と答えてしまっている。
 何と答えていいのか分からず、ただ目を逸らさずに震える俺を前にして、クロコダイルが葉巻をかみしめた。
 一歩その足がこちらへと向かって踏み出して、こつ、と鳴った足音にびくりと体が震える。
 俺の反応に目をわずかに眇めてから、クロコダイルがさらに一歩足を踏み出した。
 二歩、三歩とだんだん近づいてくる威圧的な相手に、思わず足を一歩後ろに引く。
 しかし、怯えた俺の足はすっかり萎えていて、ぐらりと体が傾いで後ろに倒れ込んでしまった。

「いっ」

 ぶつけた背中の痛さに思わず声を漏らしてから、慌てて姿勢を戻そうとしたところを、何かに胸の上を押されて床に転がる体勢へと押し戻される。
 ぐいぐい押される痛みに視線を向ければ、更に距離を詰めてきたらしいクロコダイルの足が、しっかりと俺を踏みつけていた。
 何とも高そうなスラックスだかトラウザーズだかを辿って見上げたその顔は、とても恐ろしい笑顔を浮かべていた。
 これはもう、今さらだが逃げることは確実に叶わない。
 観念して、体に込めていた力をそっと抜いた。

「その……お、お手柔らかにお願します」

 せめて生きて帰してほしくてそう言葉を投げたら、クロコダイルの顔には一瞬だけ戸惑ったような顔が浮かんだ気がしたが、気のせいだったかもしれない。







 あの時、結局俺はクロコダイルに痛めつけられることなく、そのままクロコダイルに『雇われる』ことになった。
 何がどうなってそう言う結論に達したのかをクロコダイルは教えてくれなかったので、気まぐれを起こしたきっかけは分からないままだ。
 仕事にきちんと報酬を払ってくれるクロコダイルは、『悪い海賊』の割に意外と優しい。
 屋敷に住みこみで働くことになって、俺は『この世界』で初めて衣食住を確保することが出来た。働けるって素晴らしい。
 水が苦手な癖に、でかい水槽を泳ぐバナナワニを見ている時はちょっと穏やかな顔をしている。
 クロコダイルは絶対にバナナワニが好きだ。『跡形もなく『邪魔者』を片付けるなら獣に食わせちまう方が楽でいい』なんて怖いことを言っていたが、それだったらバナナワニでなくたっていいはずだから間違いない。
 周り全部が信用できないと言う癖に、疲れているのか時々無防備にうたた寝しているところを見かけることもあって、俺は俺よりずいぶんと大きくて年上の誰かさんが案外可愛い寝顔であることも知ってしまった。
 鋭い鉤爪はひんやりと冷たい凶器だけど、何もかもを乾かす右手はちょっと温かい。
 あくどい笑顔にびくびくしながらも怯えとは違う動悸を感じて、いやまさかそんなと自分に否定していた俺は、低い声が俺の名前を紡ぐのを心地よく感じてしまった時に色々と諦めた。
 つまり、俺はクロコダイルが好きになってしまったのだ。
 年上の、同性の、しかも『悪い海賊』を好きになるなんて言う最悪な状況でも、クロコダイルと一緒にいるだけで嬉しいのだからもう仕方ない。
 クロコダイルも俺を解雇したり追い出したりはしなかったから、嫌われてはいないと思う。
 『好きだ』とも言えない関係だったけど、一緒にいられるならそれで構わなかった。
 けれども、いつかはクロコダイルと離れなくちゃならない日が来ることも分かっていた。
 だって、『この世界』は『ワンピース』の世界だからだ。

「あー……」

 ぼんやり声を漏らしつつ、俺はぱらりと手元のノートをめくった。
 そこには『この世界』ではあまり見かけない文字が、『この世界』では恐らく俺しか知らない『未来』のことを横書きに綴っている。
 ふむふむとそれらを眺めてから、軽くため息を零した。

「……あと何か月くらい後だろう」

 ついこの間、俺が今住んでいるアラバスタ王国は、『海兵』の手により『とある海賊』の陰謀を暴かれて内乱を収め、平和を手に入れた。
 王下七武海だった『サー・クロコダイル』の率いていた組織も解体されて、この国を脅かすものはもう何もない。
 対外的に報じられたその新聞が出回ったのはもう何週間も前のことで、海兵とやり合った麦わら一味が出て行ってからもそのくらいだ。
 今頃はエネルと戦っているのだろうか。それともフォクシー海賊団とだろうか。
 ノートの上に思い出せる限り書き出したそれらを指でなぞってみるが、そうやっても今の『主人公』達がどこにいるかなんて分かる筈も無かった。
 けれども、ウォーターセブンの話もエニエス・ロビーの話もまだ聞かないから、『戦争』まではまだ先だろう。
 こっそり忍び込んだ室内を、きょろりと見回す。
 ここは、かつて王下七武海だったクロコダイルが、用心深くも別の名前を使って買ったらしい小さな家にある地下室だ。
 あの日クロコダイルに俺が踏みつけられていた床は、さっき掃除をしたのできれいになっている。
 持ち主がいなくなったこの家に俺がこっそり住み着いているのは、クロコダイルがアラバスタ王国を手に入れようと行動をし始めたあの日に、俺が一方的に交わした約束のためだった。

『何があっても、待ってますから』

 『何』が起きるか分かっていて言った俺に、『何』が起きるか知らなかったクロコダイルは軽く笑っただけだった。
 きっと、自分が勝利を収めてくるのを待っていると思われたのだろうと思う。
 だけど、俺はクロコダイルが『主人公』に負けることを知っていた。
 負けて、海軍に捕まって、バロックワークスがなくなって、インペルダウンへ投獄される。
 クロコダイルがもう一度海へ出てくるのは、エースが捕まって、『主人公』であるルフィがそれを助ける為にインペルダウンへ入った後だ。
 それがどのくらい先になるのかは分からないし、脱獄してあの戦争で生き残った後、クロコダイルがアラバスタへやってくる確証なんてどこにもない。
 自分以外を信用しないクロコダイルが、俺の『約束』を覚えていてくれるとも思えないし、もしかしたら俺のことなんて忘れて、そのまま新世界へ行ってしまうのかもしれない。
 アラバスタ内ではクロコダイルがあちこちに俺を連れて歩いていたからか、俺の顔はそこそこ人に知られていて、憐れみを浮かべてくる人もいればいらだちや憎しみを向けてくる人もいる。
 革命軍などは俺を嫌っている人も多くて、働くのは日雇いの肉体労働が殆どだ。
 アラバスタを出たほうが生きやすいのは分かっていたけど、それでも、会いに行くだけの金も無ければ身を守るすべも持っていない俺は、クロコダイルをこの国で待っていることくらいしかできなかった。
 いっそマリンフォードに行った方が会える確率も高そうだが、戦争に巻き込まれて死んでしまう可能性も高いのでちょっと難しい。俺は、生きてクロコダイルに会いたいのだ。

「……さて、と」

 小さく声を漏らしてから、手元の『未来』を書いたノートを閉じた。
 静かすぎる地下室の端に置かれたチェストの下にそれを押し込んで、外から見ても問題なく隠れていることを確認してから、よし、と頷く。
 時間はもう真夜中だ。
 明日の仕事もあるし、そろそろ寝よう。
 そんなことを考えつつ、あの日ダズが閉じていった扉を開いた俺は、扉の前から一階まで伸びている階段にあったその光景に、ぱちりと目を瞬かせた。
 思わずそっと扉を閉じて、開いた手で軽く目を擦る。
 指で擦れた目が痛くなったので、俺は別に立ったまま寝ていたわけでは無いらしい。
 けれども、今のはどう考えても幻だ。
 そこまでだったのか、と客観的に自分のことを憐れんだ俺の手の中で、ドアノブがぴしりと音を立てる。

「え?」

 驚いて視線を向けた先で、ばさりと目の前にあった石造りの扉が崩れ落ちた。
 足元に落ち、空気にわずかに舞い上がったのは乾いた砂だ。
 手の中のドアノブも同じように崩れて落ちて、手についたそれを見下ろしてから、俺はそっと顔を上げた。
 先ほど見た時は階段にあったはずの『それ』が、手を伸ばせば触れそうなくらいすぐ近くにある。
 相変わらずのお高そうな服に毛皮のコートに、顔の傷に咥えた葉巻。
 誰がどう見たって、そこにいるのは『サー・クロコダイル』だった。

「…………え?」

 何で、と思わず声を漏らした俺を見下ろして、クロコダイルがわずかに目を眇める。
 左腕が軽く動いて、鉤爪の背が俺の顎にそっと添えられた。
 要求されるがままに上向いた俺の顔を、じっとクロコダイルが見下ろす。

「……痩せたか」

 寄越された言葉に、なんと答えていいか分からず、俺はただ黙って目の前の相手を見上げていた。
 触れる鉤爪のひんやりとした感触が、目の前の相手がちゃんと実在することを俺に伝えてくる。
 けれども、まだエースは捕まっていないはずだ。毎日新聞をとって、読みづらい英語を必死になって読んでいるのだから間違いない。
 エースが捕まっていないのなら『主人公』はまだインペルダウンへは行っていなくて、だったら『気分が乗らない』と脱獄を拒否してインペルダウンへそのまま投獄されていたクロコダイルが、ここにいる筈がない。
 なのに、と戸惑う俺を見下ろしたままで、腕を降ろしたクロコダイルが舌打ちを零す。

「まさか、本気で待っていやがったとはな」

 低い声が紡いだそれに俺が戸惑っている間に、今度はクロコダイルの右腕が俺の服を捕まえた。
 そのままぐいと引っ張られて、歩き出したクロコダイルに引きずられた俺も足動かす。
 いつだったか、ここへ連れてこられた時と丁度逆だ。
 転びそうになりながらどうにか階段を上がって、一階へと移動した俺の目に、クロコダイルを待っていたらしいダズの姿が飛び込んだ。
 その傍らに、他に何人も人影がある。何度か会ったことがあるポーラ以外の、女性だったり子供だったり男性だったりする彼らの顔を、俺は『漫画』で知っていた。

「あれ……?」

 バロックワークスの幹部の殆どが、何故か揃っている。
 何だこの状況は、と困惑する俺の服を手放したクロコダイルが、ナマエだ、と彼らや彼女らに俺を紹介した。
 向こうからもコードネームを自己紹介されて、知っていますとは言えずにそれを聞いていた俺の方へと、クロコダイルが視線を向ける。

「せっかく待ってたんだ、テメェも来るだろう、ナマエ」

 寄越された言葉に、瞬きをしながらクロコダイルを見つめる。
 いまだに困惑している俺を見てから、クロコダイルの指が自分の口から葉巻を離した。

「まァ、断ったところでテメェに選択権は無ェがな」

 そんな傲慢な言葉を煙と共に吐き出したクロコダイルの唇に、にやりと笑みが浮かぶ。
 全く状況が分からないが、その顔を見て一つだけ理解した俺も、そちらへ笑顔を向けた。
 だってそうだろう、顔が緩まない方がどうかしている。

「断るわけないじゃないですか。ついてきます、どこへでも」

 『待っていた』俺を、クロコダイルが迎えに来てくれたのだ。
 もしかしたら『漫画』では『気分が乗らない』と断っていた、脱獄までして。
 きっと危険に違いないが、好きな相手に誘われて、飛び込まないわけがない。
 俺の返事を聞いて、クハハハハと上機嫌に笑いを零したクロコダイルは、バロックワークスの面々に軽く合図を送って、そのままゆったりと歩き出した。
 家を出ていくその背中を追いかけて、俺はその日『この世界』へ来て初めて、アラバスタから外へ出ることとなったのだった。



end


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